少しさみしい時は、かなり幸せ
ここ最近、入院中の私は、いつも少しさみしい。
こどもの定期的な検査入院で、今年も無事に来られてありがたい。入院前には必ず例の感染症の検査があって、そこをパスしなければ、大量に用意した入院グッズを持ってとんぼ返りしなければならないので、近年ありがたさが更に増した。
そうでなくとも、入院中は留守を夫に頼んで(今は別居中だけれど、それでも頼んで)、保育園にも事情を話し、こどもたちもそれを理解し、送り出してもらっているのだからありがたい。
だから、さみしいというのは感傷であって愚痴ではない。入院はありがたい。
そして、さみしい、という事は、安心だという事なのだな、と、改めて思う。
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一日三回、こどもにはきちんと糖質が計算された食事が出てくる安心。(私は持参したグラノーラや院内のコンビニご飯を横で食べる)
日々の苦労や疑問を聞いてもらえる安心。
脳波を取り、血液検査をして、リハビリをして、こどもの体に異常がないかを確認出来る安心。
普段は全くさみしくないので、きっと私は安心でない、常に臨戦態勢なのだと改めて思う。私の今の役割は、こども三人を生かしておく事なのだから、そりゃそうだろう。
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そもそも、数年前は入院中だってさみしくなかったのだ。まだ小さかった子は、不満があると泣いて暴れて、さみしがる暇などなかった。
こどもの長期入院に付き添った人はよく言うけれど、入院の最大の敵は「暇」であって、時々ある検査ですら(痛みが伴わなければ)予定があって嬉しいくらいで、お風呂なんて最大の娯楽である。
(生死をさまようほどの大病である場合、暇よりもつらい事があるのは想像に難くないけれど)。
幼児にその「暇」が耐えられるわけもなく、DVDもお絵描きも院内の散歩も、何もかも飽きてしまって、親に泣いてあたるくらいしかやりようがないのは、当然で。
そして現在、こどもは小学生になり、入院中もおとなしく過ごせるようになった。
そして今度は私が感じるようになったのだ。「暇だな」と。本当に素晴らしい変化だと思う。
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さみしいということは、暇だということでもある。
さみしい人を「暇な人」呼ばわりするのも言葉が悪い。「待機しなければならない人」とでも言い換えたい。
待機。うん。待機はさみしい。
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現在、早朝と呼ぶには少しだけ無理がある時間に目覚めてしまって、これを書いている。横には、頭に脳波の電極をつけて包帯でぐるぐる巻きにされたこどもが眠っている。私は待機している。
起こさないように静かに過ごしているが、脳波中の良いことは、眠りが浅くなると、脳波にそれが現れるので、用心しやすい事だ。眠りが浅い新生児期に、自宅で手軽に脳波を見ることが出来たら便利だったろうな、などと、ありもしない育児グッズを考える。こどもの昼寝中、抜き足差し足で過ごしていた自分を思い出して。
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廊下で赤ちゃんの泣き声がする。そうだった、入院中は運動不足になりがちで、こどもが食事を食べなくなり、夜寝なくなり、みんなとても苦労する。深夜に赤ちゃんを抱っこしてあやしながら、明かりの消えた食堂で過ごす親子がよく居たこと。
でもその暗い食堂で同じような境遇の親子に会えることもあり、お互いの病状や治療の情報交換をしたり、なぐさめあうことができる。
そして深夜のナースステーションには、必ず、夜を徹して働いている人が居る。もし何かあればそこへ駆け込む事が出来る。
一日も早く退院したい事は変わらないが、家での孤独な子育てを思うと、それはそれで不安だなと思う、あの気持ち。
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ほんの少しのさみしさは、裏を返すと幸せな事なのだ。私は今守られている。この建物に駆け込んでしまいさえすれば。
反対に、さみしさなど感じる余裕もない、子育て真っ只中の日常が、「振り返ると一番幸せだった」と世間で言われる事などを懐疑的に、でもわからなくもないと想像力を働かせながら。
夜の濃さが薄くなり、真夏の早い朝がぼんやりと始まる。
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