「断られる」というダメージ
「断られる」ことが得意な人なんて、いるんだろうか。
私が若い時、就職活動で落ち続けたときはもちろんのこと、会社員となっても、取引先に「高いな~。無理無理」と言われただけでも「泥棒!」と言われたように落ち込んだし、婚活のようなものをしていた時期も、いつも自分が値踏みされているような感覚があって、アリかナシか判定されていることに(そして、たいていナシと判定されて)疲弊していた。
「断られる」たびに、「ようし、次はどんな手で突破してやろうか。オラ、ワクワクしてきたぞ」という鉄の心臓は、あのアニメキャラくらいなんじゃないか。それとも、飛び込みの営業みたいな仕事をしている人は、「断られる」ときの衝撃を和らげる、柔道の受け身みたいな技を会得しているのだろうか。
ニンタが、グルコーストランスポーター1欠損症と診断され、食事療法を開始し、知的障害も徐々に確定する過程で、私は「断られる」という体験を重ねてきた。保育園、小学校、市区町村の窓口。
小さいことで言うと、例えばこんなこと。
食事介助のボランティアを頼んだら、老人の介助は経験があるが、幼児の食事介助の経験はないので、と「断られる」。保育園の送迎をデイサービスに頼んだら、保育園に駐車場はあるが、他の児童の車送迎が認められていないので、車での送迎はできないと「断られる」。
そしてまた、保育園の入園や見学を「断られる」ことや、やっと入園した保育園で、医師の許可がでているにも関わらず、給食の提供を「断られる」という割と大きめの困りごともある。
断られた場合、他に手があれば他の手を探すし、弁護士無料相談のようなところに出向いて、どう交渉していったらいいのか助言をもらうこともあった。
探し続ければ、解決策はある。食事介助は、ボランティア以外の有料サービスを利用して乗り切ることができたし、保育園の送迎は、長距離を歩けないニンタのために子供用の車椅子をレンタルして、お願いすることにした。保育園の給食では、何度も話し合いを重ねて、結局物別れに終わって転園し、転園先では給食を提供してもらうことができた。
解決したり、落とし所があったり、納得できないけどこちらで諦められる範囲であれば、それは「まあ、そういうことでいいじゃないか」ということになる。
しかし、私はその結果の良し悪しよりも、その結果がでるまでに、どうやって「断られる」か、何度「断られる」か、という事の方に気持ちを左右されてしまって、もう疲れてきてしまった。
ニンタのことで「断られる」という経験は、若い時のいろんな「断られる」経験と、似ているようで全然違う。自分やニンタの存在を否定されたようなガツンとした悲しみではなく、もっとこう、じわっと重いのだ。
勘違いかもしれないが、私は、私たち親子に大きな問題があるのだ、と思ったことがない。面と向かって「障害者はお断り」という人はあまり居ないので、相手はとても丁寧だし、私も規格外のことをお願いしているのだという自覚があるので、失礼のないように、言動にはいつも気をつけている。
そして、お願いする内容も、患者会などで「こんなふうに対応してもらっているよ」という話を聞いて「じゃあうちも」みたいな内容しか頼んだことがないので、よそで出来ているんだから、無理難題ではないんじゃないかな?という思惑もある。
しかし、けっこうな割合で私のお願いは断られ、そして相手からいつも負の感情を受け取る。それは「おびえ」と「保身」だ。前例のないことに手を出して問題を起こしたくない。この問題に時間を割いても自分は何も得しない。だから、「ごめんなさいね」と丁重にお断りされてしまう。
ああ、しょうがないなあ、そうですよねえ。と、私は思う。そして冷たい水が満ちるように、絶望がひたひたとやってくる。それは目の前の相手に対してではない。フツーの社会は、こうやって回っているのだという、社会への絶望だ。
悪でもなんでもない、笑顔でひたむきに毎日を営む人々、最大公約数が幸せになるように考えられた社会のシステムでは、私とニンタのお願いは「断られる」ことが最善なのだ。
最初はしょうがないか!と前向きに考えたり、なにくそと戦ったりしたが、回数を重ねる毎に、私はもう、結果云々よりも、「断られる」ことが怖くて、話し合いのテーブルにつくこと自体を迷うようになってしまった。「断られる」たびに、私はあの景色を見なくてはいけない。
「その横のものを縦にしてほしいんです」という私の願いに対して、「やってあげたいんだけどごめんね!」と、仕方なさそうに走り去っていく人の後ろ姿。毎日の仕事や暮らしに追われている人たちに、私は話し合いの時間を割いてもらったことにだけ感謝する。横のものを縦にするには、膨大な人数の承認を得なければいけないのが、今の世の中なのだ。私たち親子に関わっている時間はない。仕方がない。
一方で、同じ日本なのに、全く違うルールで動いている場所がある。それは、障害児を対象としている施設だ。そこではニンタへ必要な配慮を断られることはほとんどない。ニンタの病気はとてもめずらしい病気だが、一歩間違えると命を落とすという類のものではないので、きちんと説明すればわかってもらえる。そして、もともと10人いれば10種類の対応が必要だという前提があるので、まず「どういう対応が必要ですか?」と向こうから聞いてくれる。
(しかし、これはニンタの障害の程度が、施設運営をする上で想定内だからだろうし、想定外の障害だったり、重度障害だったりすると、また話が違ってくるのだと思う)。
学校で、市区町村で、イレギュラーの対応を断られる時の理由は、もう聞き飽きた。
決まりだから。
人手が足りないから。
前例がないから。
予算がないから。
他の病気の人との公平性が保てないから。
事故があったときに責任問題になるから。
一生、障害者のコミュニティから出なければ、「断られる」ことも減るんだろうな、と思う。
ニンタは、ときどき検査入院で何日間か病院で過ごすが、最近、私はそこを天国のように感じる。全員が病気や障害を持っていて、その付き添いの保護者はみんなその苦悩を知っていて、お互いの悩みを簡単に打ち明けることができる。どんな歩き方でも、どんな言葉の発達でも、誰の目を気にすることもないし、無理に他人に合わせたり、追いついたりしなくていい。食事もリハビリも学習も、すべて個人個人に合わせたものが受けられるし、万が一のことがあったらすぐに治療をしてもらえる。
でも、一生病院にいるわけにもいかない。ニンタのように自立歩行ができて発語もある場合、私の住んでいる地域では、養護学校という選択肢もない。
一般社会で生きていくしかないのに、一般社会では「断られる」ことを前提に生きていかなければいけない。
これからたくさんの壁にぶつかるであろうニンタを育てるのに、親がこんなに情けなくてどうするんだ、と思う。もっともっと断られ続けて、どうやって壁をかわすか、乗り越えるか、逃げるか、私が教えてやらなくてどうする。ニンタに先回りして私が経験値をあげてやる!くらいの気概を持って、簡単に傷つく私をやめたい。
でも無理だ。もう怖い。目に見えない柔らかい圧力にゆっくりゆっくり押しつぶされていることに気付いてしまった。これ以上つぶれないようにするには、口を塞いで、許されるときに許される範囲で生きていくのが賢明なんじゃないか。それが生きる術なんじゃないか。
私は、そんな希望のないことを、ニンタに教えたくないのに。
先日、ニンタの通う学校に、正式に給食の改善をお願いした。「パスタと春雨スープが頻繁に出るが、パスタと春雨は食べられないので、パスタや春雨を給食室で混ぜる前に、ソースやスープを1人前分けて欲しい。しかし、それがダメなのであれば、捨ててしまうのでもったいないが、パスタと春雨スープを1人前、みんなと同じだけもらいたい。そこからパスタと春雨を除くと、麺に具材がからめとられて、スプーン一口程しか残らないことはわかっているが、ニンタはそれでも食べたいと言っているので、一口でいいからください」と。
学校からは、ニンタのパスタソースとスープを給食室で別に用意することは、正式に断られた。しかし、パスタと春雨スープを1人前盛り付けた後により分け、一口分ではあるが提供する、という案は、前向きに検討すると。
この回答を用意するのに、五人の先生が三時間話し合ったという。
三時間、どんな会話がやりとりされたのかは知らない。五人のうち、誰か味方になってくれた人もいるのかもしれない。
ゼロ回答でないことを喜ぶべきだと思う。一口でも食べられるだけマシだと思った方が幸せだ。過去に一口だって提供しないと言った保育園があったから。
私は、いくつか質問をし、最後に御礼を言って、その「お断り」の電話を切った。
でも、私の本心は違う。
大人が、教育者が、五人で三時間話し合った結果がそれなんですね。うん、そうだと思ってました。覚悟していました。ニンタを特別扱いすると、他のアレルギーがある生徒と不公平になると聞いていたので、理由もわかります。でも同じ市区町村でアレルギー対応の学校もあるけど、私たち親子がたまたまその地域に住んでいなかった不運なんですよね。今後自分の学校をアレルギー対応にする気もないんですよね。なにはともあれ、忙しい先生たちが三時間も話し合ってくれたことを感謝しています。本当です。それにしても、ああ!また断られた!やっぱりだ!わかっていたのに、わかっていたのに、いつもと同じように、ゆっくりと潰されていく私は、なんて弱いんだろう!障害者差別解消法なんて法律がなくて、障害者は我慢しながら生活しろとハッキリ言われた方がいっそ楽だったのではないかなんて一瞬でも思ってしまって、今までたくさん苦労して道を作ってきた人達の気持ちも知らないで、ただただ、勝手に期待して勝手に傷付いた自分は何の役にも立たない。
「断られる」ことに慣れない。慣れないどころか、苦手が増していく。もう話し合いたくない。お願いしたくない。
ならばいっそ、と、障害者の権利もなにもかも放棄して、誰のじゃまにもならないようにひっそり生きていく潔さだって、私は持ち合わせていないのに。
この先、給食のメニューどころじゃない、大きな波が、きっといくつもやってくる。そのうち私だってニンタより先に死んでしまう。
諦められない。私は口を塞ぐことができない。
じゃあ、どうやって何度も繰り返されるこの絶望を扱っていけばいいのか。
わからない。障害者の権利は法律で保証されているけれど、それが守られなかったとき、「断られる」ときの心の修復方法など、どこにも書いていない。
法律を武器にして、断られても断られても果敢に戦っている人がいるだろう。私はそこに仲間入りしたいのに、心が全く追いつかない。たとえ強い心を持てたとしても、徹底的に戦って、給食のメニューを勝ち取ったときに、そこに残ったのが焼け野原だったら、ニンタと私は居場所を失ってしまうんじゃないか。
「一度お願いして断られる」。最近の私がしているのは、ここまでだ。他に手立てもあるのだろうが、給食のメニューを勝ち取るという目的に対して、労力が全く見合わない。
しかし、これでは、私は一生「断られる」人から抜け出すことができない。たいていの人は、イレギュラーに対応したくないので、まずは穏便な理由で「お断り」するだろう。そこで引き下がれば、相手はほっと胸をなでおろす。私は断られたことに傷ついて、ならば言わなきゃ良かったとジメジメと落ち込む。
「断られない」人になるためには、一度断られても諦めずに、あの手この手で何度も要望して、そこでやっと「重い腰をあげさせる」のか「絶対に受け入れない徹底抗戦を宣言される」のか、どちらかの対応をまず引き出さないといけない。一度で「断られる」ことは当たり前の世の中なのだから、二度目からが本当の勝負のはずだ。一度目の「断られる」は、試合のゴングくらいの軽さしかない。
でも、そのゴングの音を聞くだけでつらい。以前、法律も行政も人権擁護団体も、思いつくことは全て巻き込んで保育園と戦って、結局要望が通らずに転園することになったし、その時のことを思い出すだけで気持ちが病む。最初は丁寧に断っていた相手も、こちらが本気を出して戦えば、敵意をむき出しにして、いくらでもひどい言葉を言ってくる。あのときに投げつけられた言葉を、もう一度くらって平静でいられる自信はない。
詰んだ。まだたくさん手を残しているのに、白旗をあげるのは、ただただ、自分が傷つきたくないから。
やっぱり、法律の専門家でもない私が戦うなんて、しかも、これから仲良くやっていきたいと思っている学校と敵対するなんて、無理だと思う。
自動車保険のCMを見ていると、ああいう事故の交渉を代わってくれるような「障害者保険」があったらいいのにな、と思う。「障害者差別解消法に抵触してるんじゃないのかなあ」と思ったら電話して、困りごとを代わりに交渉してくれる保険。
もちろん、それは「弁護士」という職業として存在しているけれど、たかが給食のメニューで弁護士だなんだという、ハードルの高さよ。
ちなみに、「障害者差別解消法で困ったらこちらへ」という行政の電話にかけたことはあるけれど、これは「行政の窓口にいる人次第」という共通の問題があって、よほど熱心な人に当たれば違うのかもしれないけれど、私の場合はハズレだった。
マジで機能していない法律。法治国家なのに。
最後に、何度もしつこいが、障害者差別解消法の一部を載せておく。
障害者基本法第4条(差別の禁止)
第1項:障害を理由とする差別等の権利侵害行為の禁止
何人も、障害者に対して、障害を理由として、差別することその他の権利利益を侵害する行為をしてはならない。
第2項:社会的障壁の除去を怠ることによる権利侵害の防止
社会的障壁の除去は、それを必要としている障害者が現に存し、かつ、その実施に伴う負担が過重でないときは、それを怠ることによって前項の規定に違反することとならないよう、その実施について必要かつ合理的な配慮がされなければならない。
第3項:国による啓発・知識の普及を図るための取組み
国は、第1項の規定に違反する行為の防止に関する啓発及び知識の普及を図るため、当該行為の防止を図るために必要となる情報の収集、整理及び提供を行うものとする。
まだ戦う気があった、元気なときの過去記事も貼っておく。
過去記事を読んだら、やっぱり戦わなければという気持ちにもなるけれど…。
もしかして、私に必要なのは、一緒に戦う仲間なのかもしれない。仲間がいれば、「断られる」ことも怖くなくなるかもしれない。
いやでもやっぱり。「戦う」と「学校で居心地よく暮らす」が両立する気が全然しない。
ああ、煮え切らない!
ミートソースパスタのパスタをより分けて、食べ残りみたいに少ない挽き肉が皿に乗った写真を見て、私の友人は悲鳴をあげた。「こんなゴミみたいな給食、こっちからお断りでしょ!」私だって断りたい。ニンタが私の作るパスタを喜んで食べてくれるならば。
9月から、そのゴミみたいなパスタソースが出る。もちろん代替えの料理も持って行くが…。あのとき、ニンタは食べたいと言ったが、本当にこれで良かったのだろうか。
本当に本当に、煮え切らない。
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