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破邪の香
今年の夏は桃をたくさん食べた。一番好きな匂いは桃の香りと決めてあるので最強の気分だった。
今年は初夏のあられのせいでかなりの桃が傷んでしまったため、ファミレスなどでパフェやゼリーとして加工した桃のメニューを展開して救済措置をとったらしい。桃のメニューが増えるのは嬉しいかぎりだがしかし、やはり何も加工していないさっき冷やしたばかりの桃を丸ごと切る贅沢には叶わない。
普段、果物は母親が気まぐれに買ってくるもので、それを私が剥いたり洗ったりして家族できっちり分け合って食べるものだと思っていた。家族は果物にあまり興味がないので私が用意しないと誰も果物があることにも気づかず食べずに腐らせたりするのだ。それなら食べたい時に自分で買って独り占めしたらいいと気づいた今夏は、近所のスーパーに桃だけを買いにふらふら歩いたりといった幸せな金と時間の使い方をした。
YUKIのクライマークライマーという曲に、「子供の頃熱を出して ママが切った冷たい桃を食べたくてさ わざと何度も風邪をひき困らせた」という歌詞がある。桃を食べるために風邪を引くほどの根性はないが、桃は特別な日に食べる特別なものという感覚は私にも今もある。
中国には、桃だけを与え続けられたことで体液の匂いが桃の香りに変化する桃娘と呼ばれる少女の都市伝説があるらしい。自分の体から一番良い香りがするなんてなんともアガりそうな気がするけど、その香りの強さは糖尿病や栄養失調による死への距離の近さと正比する。
百万円と苦虫女で、白い手袋をした蒼井優がおそるおそるもいでいた産毛の生えた赤ちゃんみたいな壊れ物の果物は、長寿や破邪の効能があると言われているのも頷けるかぐわしさである。一方でその脆さは蠱惑的で退廃的な魅力を持ち、桃という果物の神秘性はそこにある。
夏休み、やらなきゃいけないことや考えなきゃいけないことに気づいていないようなふりをして前からみたかった映画をたくさんみて、果物を好きなだけ食べた。
夏の終わりに流行病に罹り、バイトにもいかずに昼間からカーテンを閉めきった部屋で、変に渇いた体に篭った熱を持て余し、関節の痛みに耐えながら湿った布団に寝転んでいた時間に繊細で儚い果物は一見似合わないようだけれど、腐敗の直前の歪な美しさを孕んだ時間に切った桃の果肉の色はきっとこの先何度も思い出すだろう。ビバ破邪破邪パワー。