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 4月のある夜、魚を食べていたら小骨が喉に刺さる感覚があった。

 喉といっても、鏡を覗き込んで確認できる範囲、つまり口腔内、ではない。扁桃腺と喉仏の間、首の途中と言った方が近いかもしれない。
 魚の骨が喉に刺さった時はごはんを噛まずに飲み込むといいらしいって聞いたことあるけど、そんなわけないことはさすがにわかる。だって食道を上から下に向かって進むごはん粒に押されたら骨はもっと深々刺さりそうじゃないですか。それくらいはね、わかりますよ。舐めないでいただきたい。
 とはいえ他に具体的な対処法も思いつかないので、一か八かで何回か唾を飲んだり大きめの一口のご飯をゆるーく噛んで飲み込んだりして衝撃により小骨の嚥下を促したが、依然として小骨は喉に刺さったままだった。


 仕方なくその日は、あわよくば一晩寝て起きたら奇跡的に骨が抜けていることを期待しつつ小骨が喉に刺さった状態で眠った。次の日は早朝からバイトだったため、5時に起きて6時半から小骨が喉に刺さった状態で就労した。バイト先の先輩に指示を仰いでいる時、小さいミスをしてしまった時、後輩のヘルプに入っている時、常に喉の奥に突き刺さった小骨の、肉から飛び出した先端がまわりの肉をちくちくと刺激し、存在を主張する。  
 今この瞬間の私は喉に魚の骨が刺さっているにしては頑張っている方だ、と自分を鼓舞して10時までの労働を終え、さすがに違和感に耐えられずにその足で最寄りの耳鼻科に向かうことにした。

 平日の昼間の耳鼻科はご老人がちらほらといるばかりで、問診票の受診理由の欄に魚の骨が喉に刺さったため、と書きながら恥ずかしさと気まずさで体が熱くなった。こんなしょうもない理由で受診して、恥ずかしいったらありゃしない、さっさと抜いてもらって笑い話にしよう、とそわそわ名前を呼ばれるのを待つ。しかし診察室に入り、私の鼻から細い管の先に付いた小型カメラを突っ込んだ挙句に医師が放った言葉は、予想外のものだった。 
 曰く、「かなり奥に刺さってるから、当院の設備では抜くことができません。大きい病院を紹介しますので、今からそちらに向かってください」とのこと。

 できるだけ早く、と急かされたのでもう半ばヤケになって駅前でお金を下ろしてタクシーを拾い(タクシーの運転手もまさか乗客が病院に急ぐ理由が魚の骨が喉に刺さったからとは思うまい)、こんな大事になると思っていなかったので急いで大学の研究室に欠席連絡をした。理由はもちろん体調不良(研究室もまさか体調不良の原因が魚の骨とは思うまい)だ。
 たどり着いた総合病院では、まず麻酔を打たれ、先ほどと同じように鼻からカメラを入れられ、写真を何枚か撮られたのち今度は管の先に鉗子がついたものまで鼻から突っ込まれた。しかし、先述の通り小骨は喉のかなり奥に刺さっているらしく、手術(?)は難航した。
 若い医師の指示で何人もの看護師がライトを喉の奥に当てたり機械をいじったり器具を医師に手渡したりするのを口と鼻の穴を全開にしつつ見守ることしかできない。麻酔のおかげで痛みこそないが(嘘。さっきの病院の先生の方が鼻に管を突っ込むの上手だった。今度の先生はまだ若いからか知らんがめちゃくちゃぐいぐいやるから正直ちょっと涙出た)、たった数センチの魚の骨ごときがここまでの事態に発展していると思うと心苦しさとなによりもずっと恥ずかしさでくらくらする。


 やっと鉗子の先で骨の先端をひっぱることに成功したようで、今度は口から喉の奥に鉗子を突っ込んで骨を引っこ抜くことになった。
「舌の付け根を強く押さえますから苦しいしえずくと思いますが頑張ってね」と看護師さんが優しく教えてくださったとおり、めっちゃおえっ!ってなったし涙と鼻水もめっちゃ出た。おえっ!って声もしっかり出てその度に看護師さんがティッシュを差し出してくれて手術(?)がストップする。もうその頃には羞恥心とか申し訳なさとかは極力追いやって心を無にして、私の前に立って私の舌を器具でぐっと押さえている看護師さんの名札だけを見つめることに集中した。加藤さん(仮)、私の舌をぐっと押さえてくれて、どうもありがとうございます。おえっ!という感じ。


 永遠に続くかと思われた手術は、医師の「取れたよ!」という声を合図に終了した。精魂尽き果てている私に、看護師さんが「ほら」と抜けた骨を見せてくれた。
 1.5センチほどの長さの細い糸のような半透明の骨、こんなやつのために大勢の大人の貴重な時間を奪ってしまったのかと思うとたまらなくなる。私という人間はこんなにも弱い。
 終始えずいていただけの私に「頑張ったね、記念に持って帰ってください」という言葉と共に看護師さんが一枚の紙を渡してきた。それは私の喉に刺さった骨の写真と、その写真のすみにセロテープで貼り付けられた小骨だった。臍の緒といい親知らずといい、なぜか病院はなんでも持って帰らせようとしてくる。いや別にいいけどね。この小骨にもなんか愛着湧いてきたし。というわけでその写真は私の日記帳に大切に挟んである。  
 その日はあまりにも良い天気で、喉の骨も抜けたしすぐさま帰りたかったがちゃんと学校に行った。えらすぎる。数日経っても特に発熱や化膿もなく、薬局で処方された抗生剤で腹を下した以外はいたって健康に過ごせるようになった。めでたしめでたしである。

 しかし考えてみれば、現代の医学が発達していたからこそこんなふうにめでたしめでたしで片付けられているが、例えば小さいカメラとか存在してない時代の人にとって、魚の骨が喉に刺さった状態はかなり危険だったのではないだろうか。もちろん魚の骨だけではない。虫歯になっても釘を踏んでも犬に噛まれても、人はあっさりと死ぬ可能性が高かったのではなかろうか。当たり前かもしれないが、実際に体験してみなければことの大きさはわからない。
 そんなふうに感慨に浸っていた私の目に、正しくはツイッターのタイムラインに、こんな句が飛び込んできた。

よく笑う五月となりぬ喉の奥さかなの骨のささったままで    鶴田伊津

 実体験から言わせていただくと、こんなことはあり得ない。こんなこと、つまり魚の骨が喉に刺さったままでは人はうまく笑えない。違和感と不安で、顔は引き攣り目は泳ぎ声は裏返る。私は違和感に耐えるの、せいぜい10時間くらいが限界だった(うち6時間ほどは違和感に耐えながらの睡眠)。今4月のはじめだから、5月になるまであの違和感を放置するなんて、この人はめちゃくちゃおおらかな人なんか。
 もちろんこの句に詠まれている「魚の骨」が、物理的な魚の骨ではなく、何か解決できない問題や悩みが頭の片隅にありすっきりとしない状態や、納得できない状態の比喩として使われていたとしても、である。
「喉に刺さった魚の骨」がそのような意味で使われはじめたのがいつ頃かといった詳細な知識を持ち合わせていないが(インターネットという名前の友達の調べによれば、古事記に「喉(のみと)に鯁(のぎ:喉に刺さった魚の骨)ありて、物え食はず」(意味:喉に魚の骨が刺さっているので物を食べることができない)という記述があるらしいということまではわかった)、相当昔からある表現であることは想像に難くない。つまりはこの表現の成り立ち自体、現代の我々が考えているより深刻な意味を持つのではないか。本当はのんきに笑っている場合ではないのだ。
 決してこの句に対して文句を言ったり腐したりしているわけではなく、たまたまリアルタイムで喉の奥に魚の骨が刺さったばかりだった私には、この句があまりにもおおらかで大胆に、ゆえにとびきり素敵に感じられた。
 もう二度と魚の骨が喉に刺さってほしくはないけど、次に魚の骨が喉に刺さったらせめてひと月は、死の淵に立っていることを隠してたくさんほがらかに笑ってみたいかもしれない。たとえその結果、また大勢の知らない大人の前で醜態を晒すはめになったとしても、きっと喉の奥の魚の骨は秘密めいた快感そのものだろうから。

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