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ボール【小説】           ☆絵・写真から着想した話 その2

 この話は、フェリックス・ヴァロットン「ボール」という絵画に着想を得て書いたものです。著作権保護のため「ボール」は表示できません。是非リンク画像☟☟☟をご覧ください。((*_ _))ペコリ    

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「女の子なのよ」
 白いドレスのお腹を左手で擦りながら、ルイーズが言った。
「あら、もうわかったの? 何か月だっけ?」
 エマが、ルイーズに向かって微笑みかけた。
「六カ月目に入ったところ。まだお医者様からは聞いてないわ。この次あたりの検診で、はっきりするんじゃないかしら。私は、最初からわかっているけどね。女の子だって」
 木立ちを渡る風が、ルイーズの首筋に落ちた遅れ毛を揺らした。
「母親の勘? 良かった。元気そうで安心したわ。きっと……」
エマの言葉を遮って、ルイーズが言葉を繋いだ。
「今度こそ、大丈夫って言うんでしょう?」
 苛立ちを含んだ声に、エマが戸惑うと、ルイーズの表情が一変して後悔に変わった。
「ああ。私ったら! ごめんなさい。少し過敏になっているの」
 お腹にあてていた手は、右手とともに口元を覆っている。エマは、ルイーズに寄り添うと、出来るだけ穏やかに囁いた。
「いいのよ。体に心臓がふたつある時期は、誰でも不安定になるの。私もそうだったわ」
「みんな、同じことを言うのよ。私の過去を知る人はね。流産と死産でふたりを──。今度こそ、赤ちゃんと逢えるわって。今度こそ? 楽しみね、とだけ言ってくれればいいじゃない! その言葉に、どれほど私が……」
「ね、ルイーズ。私は今度こそなんて言おうとしてなかったわ。きっと。きっと逢えるわねって。配慮が足りなかったなら許してね。私はいつでもあなたの味方よ。大切な友だち。それより、女の子ってどうしてわかるの? 聞かせて」
 エマはルイーズの肩を抱いた。エマのドレスの青が、張りつめた白い女を落ち着かせるように包み込んだ。
「夢を見るのよ。身ごもると、必ず同じ夢から始まるの。今から話すことを、きちんと受け止めて聴いてくれる?」
「もちろんよ」
 深くうなずくエマに応えるように、ルイーズ自身もうなずいてみせた。
「最初の夢は、薄暗がりの中にボールがふたつ転がっているの。白いボールと赤いボール。暗いのに、色ははっきりとわかるの。そこだけ浮かび上がっているような感じ。上から両手が下りてくる。小さな子どもの手。少し迷って、どちらかのボールを掴んで引き上げる。ここまでが第一夜」
「色が決まるところまでね」
「ええ。ボールの夢を見た後、妊娠がわかるの。最初に流産した時、子どもの手は赤いボールを選んだ。次の死産の時は、白いボールを引き上げたわ。最初が女の子で、次が男の子だったの。女の子の時は、流れたあとに先生から教えてもらったわ。第二夜では、ボールを追いかけて走る子どもが登場するの。三歳くらいの」
「選ばれなかったボールは、どこに行くの?」
「置かれているわ。影の場所に」
「影?」
「女の子の時も、男の子の時も、ボールを追う後ろ姿しか見えなかった。女の子はね、可愛いワンピースを着ていたし、男の子は、ズホンの裾をくるくると巻き上げていたわ。懸命に走っているの。とってもいい天気。なのに、後ろから暗い影が追いかけてくるの。早くしないと呑み込まれてしまう。選ばれなかったボールは、影の中に溶け込むようにいる。たぶん、そこからもう動かない。子どもが走る傍らは、深い緑の森なの。森も、私の子どもを取り込もうとしている。二夜めからは、この情景の連続。早く。早く。でも、転ばないで。逃げ切って。どうか、こちら側まで! その子を、ただ見ていることしか出来ないの。手を差し伸べてやれないの。毎晩! 毎晩! 毎晩! ただ祈るしか。それが続いた、ある晩……」
 ルイーズの声がくぐもった。彼女の睫毛に光るものを見たエマは、首を振ると彼女の腕を引いた。
「わかった。もう、いいから」
「聴いてくれるって、約束したじゃない! これからよ。私があなたに話したいことは!」
 顔を上げた折に、ルイーズの青い瞳からぽろりと滴が落ちた。
「ごめんなさい。続けて」
「想像がつくと思うけど、最初の子も次の子も、暗い影に取り込まれてしまったわ。それが最後の夢。死の予告。あんなに一生懸命走ったのに。いいえ、転んではいないの。足が遅かったのよ。ふたりとも」
「子どもの足ですもの。そりゃ……」
「違うわ。走るのが苦手なのよ。それが原因なの。他の子より遅いんだわ。理由ははっきりしてるのよ。私のせい。私、走るのが苦手だったの。子どもの時から遅かったのよ。遺伝よ。それで──どうしようって、夫のギイに相談したわ」
「ギイに? 彼、なんて?」
「笑ったわ。何言ってるんだって。そして、彼──怖ろしいことを言ったのよ。──そう言えば、僕も駆けっこはいつもビリだったなって」
「優しいじゃないの。ギイらしいわ。あの人、あなたがひとりで背負わないようにって」
「とんでもないわ! ギイが走るのが遅いのは、本当のことなのよ。確かめたわ。本当に遅かったって! 最悪じゃない。私たちの赤ちゃんは、永遠にこちら側まで走って来られないのよ」
「そんな……考え過ぎよ。夢じゃないの」
「全部、現実になっているのよ。エマにはわからないわ。エマの子どもたちは二人とも無事に生まれて来てるじゃない」
「ルイーズ……」
「ごめんなさい。責めてるんじゃないわ。ほんとに私……。自分を制御できなくって。帰らないでね。今、私を置いて帰らないでね」
 親友を少しでも楽にしてやれるのは自分なのだ。エマは、使命のようなものを感じ、彼女の言葉に振り回されぬ自身を褒めてやりたくなった。
「帰るだなんて。あなたの体調さえ良ければ、私はそんなこと。ここはギイの所有地なのよね。羨ましいわ。広くて緑が多くて。静かで。ギイもこの場所のように、いつも懐深くあなたを守ってるって感じ。大丈夫よ。あなたとギイの子なら。美しいママと優しいパパに似た子が生まれるわ」
「似たら、足が遅いのよ」
「ルイーズったら、それは……」
「弟がいるの」
「え?」
「ギイの弟。二つ違いで、ギイにそっくりなのよ。ルカっていうの」
「そう?」
「顔はそっくりなのに、ルカは足が速いの。半年ほど前に知ったのだけれど、彼、陸上の選手だったって言うのよ。徒競走で、いつもテープを切っていたって。運動能力は正反対だけど、ルカはね、ギイと同じでとても優しいのよ。優しいパパ。子どもが四人もいるの。私はよくルカの子どもたちと遊ぶのよ。三番目の子が、パパ似で。うちにも子どもがいたら、こんな顔してるのかしらって。ルカは、いつも私の気持ちを察して、僕に出来ることなら協力するよって、慰めてくれるわ」
「素敵な義弟(おとうと)さんね。みんながあなたを見守っているわ。もちろん私を含めてね」
「私ね、もう嫌なの。何としてでもこの手に私の赤ちゃんを抱きたいの。決して贅沢な願いじゃないわ。そうでしょう?」

 ふたりの間を、小鳥が矢のように抜けていった。

ルイーズが、「あっ」と短く叫んで、お腹に手をあてた。
「蹴ったわ!」
エマの声のトーンも上がった。
「良かった! ルイーズ、もう、大丈夫」
 ルイーズは、エマの瞳を捉えると、一呼吸置いてこう言った。
「実は、昨日の夢はいつもと違う展開になったの」
「女の子とわかってるってことは、その……今、お腹にいる子も、同じ夢から始まったのね?」
「そうよ。小さな手は、赤いボールを掴んだの。そこからは今までと同じ。転がるボールを追って走り出したわ。今度の子は、夏の中を走っているの。白いワンピースに麦わら帽子。帽子の下でなびく髪は、柔らかなマリーゴールド。ワンピースも、髪も、太陽の光を受けて眩しいくらい」
 身構えるエマに、ルイーズは予想通りの言葉を繋ぐ。背後から彼女を呑みこもうと、影が追っていること。暗い森。毎晩それの繰り返し。
「──続きを話すわ」
 エマは、ルイーズの顔を盗み見た。頬が紅潮している。どうか、神様……彼女に。
「走るスピードが、ぐんぐんあがってきたの。飛ぶように駆けて、影を引き離し始めたわ。
昨日はね、いちどボールに追いついて、蹴り上げたのよ! 蹴ったボールを、またどんどん追って行くの。あの子、笑ってる。笑って走ってる。後ろ姿だけれど、わかったの」
 悪夢に翻弄され過ぎただけなのね。エマは、胸を撫で下ろした。良い夢に変わったのなら安心だ。ルイーズの感情の波が激しいのは、仕方のないこと。
「最後まで聴けてよかったわ。夢のメッセージを信じましょう。ええ、当然信じてるわ。その子は、あなたのところまで走って来るわよ!」
 
 赤いボールが、木立ちの奥から転がって来た。

「ルイーズおばちゃま~つかまえて~!」
 高く可愛らしい声が、ボールのあとから追ってきた。小さな女の子が、こちらに向かって駆けて来る。
赤いボールは、減速してルイーズと女の子の間で止まった。ルイーズはそれを女の子に渡さずに、傍らの地面の窪みに置いた。
「あら。遊びに来てたの?」
 ルイーズが微笑んで、女の子の乱れたマリーゴールドの髪をかきあげてやった。
「この子……ギイにそっくり」
 思わず、口にしたエマにルイーズが言った。
「ルカにそっくりなのよ。ルカの三番目の子ども。クロエは走るのが得意なのよ。ね?」
 女の子は、ルイーズを見上げると、「ねっ!」と答えて、彼女に抱き着いた。
「おばちゃまと わたしのあいだに、あかちゃん いるから、ぴたっと しにくいよ」
「クロエとそっくりの赤ちゃんが、隠れているのよ。赤ちゃんが出てきて大きくなったら、いっしょに走ってあげてね」
 ──エマは、赤いボールから目を逸(そ)らした。
「悪いけど……少し頭痛がするの。今日はこのへんで……。クロエちゃん? また……ね」
「おばちゃま、だれ?」
「ルイーズの……お友だちよ」
 視界の隅で、ボールがゆっくり転がるのが見えた。
「クロエ。エマはね、私の大切な友だちなのよ」
 ルイーズが、クロエを体ごと回してエマの方に向けた。ルイーズの顔の下、お腹のあたりにクロエの顔が並んだ。ちっとも似てないのに、同じような眼をしていた。
 ルイーズが言った。
「エマ、最後まで聴いてくれてありがとう。もちろん味方でいてくれるわね?」

                             了

「公開時ペンネーム かがわとわ」