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部屋の、中【小説】         ☆絵・写真から着想した話 その3


 この話は、フェリックス・ヴァロットン「赤い服を着た後姿の女性のいる室内」という絵画に着想を得て書きました。著作権保護のため「赤い服を着た後姿の女性のいる室内」は表示できません。

是非リンク画像☟☟☟をご覧ください。((*_ _))ペコリ 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E3%82%8D%E5%A7%BF%E3%81%AE%E8%B5%A4%E3%81%84%E6%9C%8D%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%81%84%E3%82%8B%E5%AE%A4%E5%86%85#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:F%C3%A9lix_Vallotton,_1903_-_Int%C3%A9rieur_avec_femme_en_rouge_de_dos.jpg

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        サラ

 気づかなかった。向こうから声をかけてきてわかったの。オープンンテラスの、カフェ。腰をおろして、ウエイターにコーヒーを頼んだ途端、隣のテーブルから「サラ! お久しぶりね」って。二年ぶりくらいかしら。え~と、名前は……。
「アリスよ。覚えてて?」
 そう、アリス。フラワーアレンジメントの教室で、クラスメイトだった。私もそうだったけど、趣味のひとつに加えるつもりで来たって。プロをめざす上級コースは、別にあったから。私たちのクラスは、雨の日に欠席が増えるし、三カ月もしないうちに、やめる人もざらだった。それでも、教室のあと、誘いあって何度かお茶をしたわ。授業で使ったお花のブーケを、脇に置いてね。メンバーは、その時々。短いつき合いになることが多いから、互いに踏み込まないのが、暗黙のルール。
 私のすぐあとに入会したアリスは、最初から積極的だった。「アリスです。よろしくお願いします」と、ひとりひとりに挨拶して。メンバーの名前も、その日のうちに覚えてしまって呼びかけていた。そうだ、思い出した。おそらく二十代後半、歳の近そうな彼女に親近感を覚えて、こっそり教えてあげたんだった。
「名前、憶えても無駄よ。入れ替わりが激しいから。あなた──アリスの名前は、さすがにみんなが覚えちゃっただろうけど」
 アリスは、清楚なワンピースの裾をちょっと直してから、まっすぐな声でこう言ったの。
「名前って、その人をあらわす大切なものじゃない? 向きう合う時には、あなた、でなく、名前で呼びかけたいだけ。サラ、素敵な名前ね」

 でもね、アリスは三カ月いたかどうか。丁寧なイラストに几帳面な字を添えてノートをとっていたし、質問の回数も一番多かった。「次が待ちきれないわ」と、繰り返していたのに。──ぱったり来なくなった。彼女、特別熱心だったから、何かアクシデントでもあったんじゃないかって気になったわ。そのうち、私も飽きてやめちゃったんだけど。見過ごしたのは、それだけの理由じゃない。
「おひとり? そっちに移っていいかしら」                         向かいに座って来たアリスは、随分やつれていた。髪も服も相変わらず上品にまとめているのだけれど。二年前の彼女は、スレンダーながらも肌に艶があって、頬に柔らかなふくらみがあった。日差しが彼女の目尻の皺を、残酷に浮き立たたせる。
「三十分後に人と待ち合わせているの。お天気がいいから早く来たのよ。短い間で残念だけど、いいかしら」
 事情を告げると、アリスは少しおどけた様子で、「待ち人は、彼?」と聞いてきた。この人とは、たぶんもう一生会わないだろう。そういうもんよね──という考えがよぎり、
「フィアンセなの」
 はっきり答えてしまった。同時に、アリスのお相手は? という問いも浮かんだが、彼女の頬の影を見て、質問を控えた。
「まあ、それはおめでとう。遠くに引っ越してしまうの?」
 アリスも、軽く返してくる。おそらく彼女も同じように思ってる。私たちは、もう会わない。またどこかで偶然一緒になる確率なんて……。
「地下鉄で四つ先。彼の病院はこの街だけど、私が行くことはないから。ここともお別れなの」
「病院? 彼は、お医者さん?」
「精神科医よ。と言っても、最近は心療内科よりのカウンセリングが多いみたいだけれど。軽い鬱でも、救いを求めて来院する人が増えたみたい」
 アリスが目を見開き、続いて大きくまばたきした。
「なんて?」
「なにが?」
「病院の名前と、彼の名前」
 カップを置いて、上半身ごと乗り出して来た。
「良かったら、紹介してくれないかしら」
 今度は、私が大きくまばたきした。
「その……お知り合いが?」
「いいえ。私。そんなに大したことじゃないのよ。心が疲れちゃうことがあって。ほら、カウセリングって、軽い気持ちで相談めいたことを話すのでも構わないのでしょう?」
 面倒なことになったな、と正直思った。けれど、私がアリスをカウンセリングするわけじゃない。彼にとっては、ただの患者なのだし、もちろん個人情報を守るのが当然だから、診察の様子が話題にのぼることもない。そうよ、彼女は困ってるのよ。親切に教えてあげなきゃ。私は、手帳から彼の名刺を出して、場所と診療時間をアリスに伝えた。
「素敵な人ね。──ティム、って言うのね。お幸せにね」
 アリスは、名刺にプリントされた小さな写真を見て、柔和な笑みを浮かべた。さっき戸惑ってしまったことに後ろめたさを覚え、思わず彼女の手をとった。
「私が言うのもなんだけど。彼、とても誠実よ。患者さんたちからも評判がいいって、ティムの同僚が教えてくれたわ。あなたもきっと、楽にしてくれると思う」
 アリスの手が震えた。
「患者……私は、ただ……」
「ごめんなさい。そんなつもりではなかったの」
 私は、アリスの手を握り直した。
 アリスは、イヤイヤをするように首をふると、何かに憑かれたように語り出した。
「私の部屋なのに。私は被害者なの。迷惑行為で、ノイローゼ状態よ」
 ウエイターが、コーヒーをそっと私の横に置き、会釈して去って行った。
「昨日も、そうなっていたの。帰ってみたら、寝室まで続くドアが全部開けっ放し! ソファーからずり落ちるスリップ。脱ぎ捨てられたドレス。ベッドカバーも、シーツもグチャグチャに乱れて。ゴミ箱からは、使ったあとの──。汚らわしいったら! 私の部屋で! 留守を狙って来るのよ。どういうつもりかしら。なんでこんな嫌がらせを!」
 蒼い瞳が左右に揺れて、ちりちりと燃える焔になった。少し前の彼女と別人のようだ。こんな、とんでもない話になるなんて。
「誰だかわかっているのよね? 家に侵入できる人なのだから。その……たとえばよ。別れた恋人とかの仕業だったら、鍵を替えるとか、警察や弁護士に相談するとか。手段があるんじゃないかしら」
 落ち着かせようと、ゆっくり切り出しながら、彼女の話す内容を探った。
「わかってるのよ。なのに、連絡がとれないのよ!」
 アリスが、声を殺して呻いた。
「カミーラよ。私の妹。あの子ったら、憎たらしいメッセージを残していくの。今回も枕の下に、紙切れが」
「妹さんが? なんて書いてあったの」
 音の出ないように、唾を飲みこむ。
「〝相変わらず、つまんないワードローブね。あたしのドレス、入れといたわ〟って。真っ赤なドレスが乱暴に突っ込まれていた。机の上に、買った覚えのない領収書が何枚もあって、その一枚がドレスのもの。カミーラは、私のお金を勝手に使うの。引き出しから抜き取ってね。買い込んでは、押しつけがましく置いて行くの。バッグもイヤリングもハイヒールも。ケバケバしいデザインばっかり。気持ち悪いから隠しても、また! 許せない。ええ、許せない。何度鍵を替えても来るのよ。鍵師の悪友でもいるのかしら。せめて顔を出して挨拶して欲しい。毎回、挑発的なメッセージを残すばかり。見つけられないのよ!つかまえられない! 悔しいったら」
 プラタナスの葉っぱが、私たちの間を縫ってテーブルに着地した。それにきっかけをもらって、腕時計に目をやった。アリスに見えるように。──あと、五分。ティムが、もうそこまで、来ているかもしれない。どうか、彼が現れる前に──。
 ガタン。
 椅子を大きく鳴らして、アリスが自分の会計票を掴んで立ち上がった。
「悪かったわ。デート前の楽しい気分を滅入らせてしまったわね。私ったら、ほんとに。なんて言ったらいいか。ゆるしてね。さようなら」
 小走りの背中が、路地の向こうに消えるのを見送って、冷めてしまったコーヒーにミルクを落とした。中央からぼんやり広がる濁りを、ただ見つめた。ティムが来たら、これを下げてもらって、熱いカフェオレを注文しなおそう。

        ティム

 アリスという患者がやって来たのは、一週間前だ。
「はじめまして。サラさんの紹介で来ました」
 ピンクグレーのクラシカルなワンピースに、ゆるく巻いた髪。控えめな一粒真珠のネックレス。最初の印象は、傷つきやすいお嬢様というところだった。二十八歳、独身。妹とのトラブル。ストレスで鬱になりそうだという。「いいえ、もうきっと、鬱病です」と、自己判断するところは、患者によくあるパターンだった。
「ここであなたと私がやりとりした内容は、決して外部に漏らしません。私とアリスさんでつくる、快方に向かう時間です。さあ、安心して。肩の力を抜いて。そこのソファーに横になってもいいし、私と向き合う椅子にかけても。アリスさんのいちばん楽なように」
 僕を横から見るかたちでソファーに座り、ぽつりぽつりと話し始めたアリスだったが、妹のカミーラの振る舞いを訴えるうち、呼吸がどんどん荒くなった。これはまずい──いったん落ち着かせようと腰を上げると、
「いや! 来ないで!!」
 引き裂くような声をあげて、気絶した。
 状況は、そこから一変する。
 ソファーに崩れたアリスは、ものの数秒でいきなり体を起こすと、
「うっせえから、眠らせてやったわ」
 野卑な言葉で、僕を睨んできた。
「アリスさん?」
「あのバカの名前で呼ぶんじゃないよ。あたしは、カミーラ。いい? カミーラ、なのさ。アリスは、寝てる。あいつ、上品ぶりやがって。嘘吐きのカマトトが」
 歪んだ唇から、赤い舌がのぞいた。
「ええ。──カミーラさん。あなたのことを話していただけますか。あなたの話が聴きたいです」
 僕は、彼女から慎重に離れて椅子を引いた。
「良かったら、私と向かい合ってお話ししましょうか」
「こうやって、向かい合いたいな」
 カミーラが、僕の白衣の上にまたがって座った。ワンピースがたくし上がって、青白い太ももが現れた。僕の視線を待ってましたとばかりに捉えて、首の後ろに手を回してくる。
「写真より、ずっといいオトコじゃない。ねえ、診察だったら、あたしんちでしてくんない? あたしの部屋で。あたしのベッドで」
 僕はカミーラが帰らないように細心の注意を払って、お願いした。
「カミーラ、御馳走はあとにして、まず君の日常を聴かせてくれないか。その……君の記憶は、いつからあるのかな。君は、アリスをいつも見ているんだよね」
「うぜえな。アリスのヘアスタイルは」
 カミーラは、長い髪をくるくると高い位置でまとめると、僕のポケットに手を突っ込んでボールペンを引き抜いた。「ちょうだい」とウインクして、髪束に斜めに挿してアップにする。うなじの後れ毛が、はらりと垂れた。
 ──解離性同一性障害。かつては多重人格障害と呼ばれていた症例だ。交代人格のカミーラは、アリスを乗っ取ろうとしている。主人格のアリスは、カミーラの存在を把握できないはずだが、カミーラの残したメモから、「妹」と思いこんでいる。交代人格は、性格はもちろん、筆跡まで変わるのだから。

 なかなか帰ろうとしないカミーラをなだめて、アリスに戻ってもらうまで随分手こずった。あわてるのは危険だ。ゆっくりと寄り添って治す必要がある。カミーラによると、アリスは一人っ子で、妹はいないそうだ。「そのうち全部奪ってやるわ。あなたの妹、カミーラより」とふざけて書いたのがきっかけで、勘違いしているのだと言う。
「すみません。私、どうしていたのかしら」
 戻ったアリスは額に手をやり、髪を直そうとして、怪訝に眉を寄せる。
「これは?」
 ボールペンを引き抜いて、髪を解いた。
「ああ、それはアリスさんがご自分で」
「私が? こんなものを髪止めに? え? 先生の? ごめんなさい、覚えていない。怖いわ。何か、変わった病気なのですか」
 僕がそっとアリスの肩に手を置くと、体を硬くするのがわかった。もちろんぼくにそんな気は微塵もない。アリスの異性に対する反応を確かめただけだ。
「大丈夫。ただちょっと、思ったより鬱傾向が強いようです。あせらず治していきましょう。さっきは疲れて寝てしまわれたんです。寝ぼけて髪をいじられたのを、忘れただけですよ。たいした事じゃありません。ソファーで眠ってしまっていいのですよ」
 アリスは、診察室を出る前に振り返ると、こう言った。
「先生、私は健忘症なのでしょうか。実はこの前、不思議なことがあったんです。記憶が途切れていて、気がつくとカミーラの赤いドレスを着て立っていたの。部屋の中は、乱れていて。私ったら、カミーラを理解してやろうとでもしたのかしら。──そんなはずないわね。大嫌いなんだから」

 そう。あれから一週間。今日が第二回目の診察日だ。
 アリスは今、アリスだろうか。無事、やって来るだろうか。いや、カミーラだったとしてもやって来る。通常、交代人格の時は統合を恐れてやって来ないが、カミーラの場合は違うだろう。
「せんせ、ねぇ、ティム。あたしの部屋の中においでよ。扉の奥の奥に。あたしとやってくれるまで逃がさない。虜(とりこ)にしてやる。あたし、上手いんだから」
 カミーラの媚態が蘇る。
 ああ、サラにすべてを話してしまいたい。僕が患者の秘密を守ることよって──アリスに誠意を尽くすことによって、サラに不信感が生まれる結果になったら。カミーラに決してサラの居場所を知られてはならない。カミーラがサラに近づいて、余計なことを吹き込まないように。僕は、カミーラを患者として見ているだけだ。どうしたら、カミーラの機嫌を損ねずに、アリスに統合出来る?
 きっと時間がかかる。カミーラを生んだトラウマは、簡単に引き出せそうにない。あせるな。大丈夫。何をビクついているんだ。それにしても、カミーラは虜になるほどイイんだろうか。ばか、何を考えているんだ。結婚式まで、あと少し。新居に引っ越してしまえさえすれば。サラがアリスと会った時、まさか新居のヒントになるような事なんて言わなかったろう。なあに、同じ街だって、バッタリ会う機会なんてそんなにない。四つも離れた駅だぞ。物語じゃあるまいし。偶然の再々会なんて。ふたりが近づくなんて。
 診察室のドアが、ノックされた。
「アリスです」
 恥ずかしそうに、長い髪を揺らした。この前より、顔色が良くなった気がする。
「予約時間より早く来てしまって。受付で伺ったら、先生がOKならいいと。よろしいですか? 私、診ていただくのを待ちきれなかったんです」

                               了

「公開時ペンネーム かがわとわ」