一週間が勝負よ!
新任の私が、1年の学年主任に最初に言われた言葉です。
「1週間が勝負よ!」
1週間で型にはめろとのお達しです。これを聞いて、「嗚呼、こりゃ駄目だ。」
とため息が出ました。新任に1年生を担任させる人事も如何なものかと思いましたが、これが現実です。しかも私の体調は最悪で、教員生活の船出は最悪なものとなってしまいました。
体調不良の原因は卒業間際のアルバイトで無理をしてしまった為でした。病院に行きましたが、精神安定剤を処方されるだけで、良くなる兆候は一切なく、医師を恨みさえしました。何とかしなくちゃと、すがる思いでいろいろな本を読みあさりました。そして、遂に出会いました。それはヨガの本でした。最初に目に飛び込んできた言葉は、
「自業自得」
でした。
そうです。自分が体調不良になったのは自分のせいであって、医師のせいではない。医師を恨むのはお門違いということを思い知らされました。
自分のせいだから、自分で治すしかないと悟り、その本にあった断食を試すことにしました。
担任した1年生の3学期の終わり頃に、断食道場に入所し、1週間の断食と3週間の復食を仕事をしながら行いました。
余談ですが、断食においては、断食よりも復食(当時は補食と言っていたと記憶しています)が重要です。復食は時間をかけて、少しずつ食事の量を増やし元の食事に戻すことを目的としていますが、復食を始めると食欲が急激に高まり、これを抑えるのが大変なので、道場での指導がどうしても必要になります。復食に失敗すると断食の効果は得られません。
約1ヵ月間の断食でガリガリに痩せ、体調不良で力を発揮できない自分の不甲斐なさもあって、つい子どもにあたってしまうこともありました。それを保護者は敏感に感じ取り、3学期最後の保護者会では、私は担任に対する非難の集中砲火を浴びました。私に弁明の余地はなく、ただただ頭を下げるのみでした。
「もう1年やってダメだっら教師を辞めよう。」そう覚悟を決めて、5年生を担任しました。
最初は、もう評判は知れ渡っていましたから、子どもも保護者も「ハズレた」と、がっかりしていました。
ところが、夏休み頃から、身体の奥からやる気がふつふつと沸き上がってきて、2学期始業式の時には、体調不良になる前の理想を追い求める自分にもどっていました。
それからです。理想を追って、若気の至りと言われてもしょうがないほど、やんちゃをしました。同僚の先輩からは、おまえは、超個人主義だと揶揄されました。同僚には嫌われましたが、子ども達や保護者には好感を持たれました。妙に気が合って、この子たちとは今でも交流があります。
「スマホは絶対にやらん❗」と、ソフトバンクCMのお犬さまと同じことを言い続けてきた私ですが、この子たちの一人に説得されて固定電話からスマホに変えました。スマホと一緒でメールはやらないとずっと言い続けていたのですが、また、説得されて、今年の9月29日から始めることになってしまいました。
そして、姪っ子に勧められ、11月15日からnoteを始めることになり、今、この記事を書いています。
そんなこんなで、私の首は繋がりました。
3年目は、3年生を担任しました。そう、リベンジです。あの1年生には本当に申し訳なかったと今でも後悔しています。貴重な1年間を取り戻すことは叶わないけど、残りの4年間はこの子たちと共にいようと一緒に卒業式を迎えました。
「子どもの 幸せ」
子どもの幸せというのは、遺伝の力を十二分に伸ばし、自己本領を発揮することである。
子どもは、その力が一人一人皆違うから、その幸せも一人一人違ってくる。ところが、大人は、子どもの個性や能力を認めようとせず、自分の満足する規準を子どもに押し付け、その枠の中に入らなければ、認めないという酷い仕打ちをしがちである。こうした愛されない子どもの取るべき道は、己の固有のものを否定し、大人の言いなりになって認められるか、つまり、人としての真の在り方を捨て去るか、大人から精神的に離別して己の道を歩むか、それとも、周りの大人も自分も捨てて虚しく生きるか、のどれかである。しかし、これらは、すべて不幸である。
子どもを大事にするということは、その子どもの個性を大事にするということである。何故なら、個性こそ、子どもにとって、幸せを掴む、ただ一つの拠り所であるからである。その個性が認められ、大いに褒められる子どもは、安心して自分を伸ばすことができる。自分の個性、あるいは能力を素直に出して行きさえすれば、認められるのであるから、意欲も自然に出てくる。これが、子ども本来の姿なのである。
私たち大人は、もっと子どもを信頼し、大胆に任せるという姿勢を持たなければならない。勿論、それは、その子どもの個性や能力に応じたものでなければならないことは言うまでもない。子どもが幸せになれるかどうかは、周りにいる大人次第である。
愛とは、他を信じること、他を認めることであるから、必然的に耐えることを要求するものなのである。
これは、卒業アルバムの寄稿文です。
卒業生に直接宛てて書いたものではなく、ため息をついた後に私がどうしても伝えたかったことを、あの学年主任に宛てて書いたものです。
6年の歳月を要しました。粘っこさも私の一面です。
(スーザン・ボイルを真似て)
(See you)