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『ゴールデンカムイ』最終回補足 杉元は“不死身”のままでよかったのか?

おかげさまで、連載完結後もこのマガジン新規購読者の方もおられまして、ありがたい限りです。そこで僭越ながらちょっと自慢しますね。武将ジャパンに掲載した記事がアニメのスタッフ及びキャストの方にご紹介いただいたこともありまして、それなりに読む価値はあるのではないかと思います。今後ともよろしくお願いします。

そもそも『ゴールデンカムイ』は当初の構想通りに完結したのか?

私も含め、不満を抱いている読者も多い最終回。アイヌと和人の解決手段が甘いかどうかはいったんひとまず横に置きまして、作者の当初構想通りであったのか、伏線を回収できていたのか。そこに注目したいと思います。

尾形や鶴見と比べると、杉元の終わり方はどうにも不自然なところがある。伏線を回収できていないのです。鶴見と尾形は死に至る伏線は全て回収されていました。谷垣は父になったこと。鯉登は名前。月島はいご草の生存判明。生存へのフックがあった。
こうした伏線の貼り方を、杉元の場合きっちり回収されていないと思えます。これは読み返して気づいたのですが、杉元には死に至る伏線が序盤から張ってある。箇条書きにしましょう。

杉本は天涯孤独。死亡や行方不明になった場合、忘却され埋もれたままになってしまう。そのうえで自分が死んでもアシㇼパさんは覚えていてくれると言う場面がある。
樺太編は杉元と失ったとき、アシㇼパがどうなるかという姿を見せていた。
アシㇼパとの関係。恋愛感情があるようでない、彼女にとっては淡い初恋だった。

そもそも“不死身の杉元”というのは、生死不明になった際にある意味残酷な意味で生きてくるフレーズと言えます。
「あいつは不死身なんだ。死ぬわけがない」
そう言い続け、待っている誰かがいるとすれば、こんな悲しいこともない。

天から役目なしに降ろされたものは一つもない――杉元という天涯孤独な男のおかげで、何かが残されたのだとすれば、あのことわざが辛い形で生きてきたとは思います。

最終回で月島が鶴見を探していました。鶴見が出てこないのに、なぜ、杉元は生きて出てこられたのでしょう? この作品は負傷に対しての伏線もきっちり貼っていて、どう考えても致命傷なのに実は生きていたような例はりません。最終回直前の杉元が受けた傷で水に落ちたら、生存の可能性は極めて低いと思えるのです。

じゃあどうなったと思う?

杉元と鶴見は見つからない。生死不明のままだ。
白石すらアシㇼパに杉元を諦めろと言っても、彼女は「何言っているんだ、あいつは不死身だ」と言い続ける。

同じように鶴見を探し続ける月島は、鯉登の言葉で諦めたのに。彼女は諦めない。

榎本武揚は話に応じたが、彼の盟友である黒田清隆はいい加減な男である。北海道の歴史に汚点を残す(小樽砲撃事件)この第二代総理大臣にもなったこの男。「よかよか!」と雑に請け負うだけで、権利書については放置気味である。一時が万事、黒田はこういう男であった。
津田梅子が帰国後詰みかけたのも、こいつの杜撰さが一因ある。明治の女性として、津田梅子ルートを参考にするのであれば、アシㇼパは民間や海外のルートを通して、アイヌの権利を主張するというゆさぶりの掛け方はある。ただ、先住民迫害は他国でも行なっていたことを踏まえると、かなり厳しい。

谷垣とインカラマッは、子沢山である。兵隊になる頑健な男子を産んだ軍国の母として「天晴れアイヌでありながら御国に尽くす母!」と彼女は地方新聞の記事くらいにはなったかもしれない。それは「靖国の母」に通じる道でもあるけれど。

白石の王国は、1945年までに崩壊することも描けば皮肉になった。「犬」と呼んでいたアイヌへの差別は理解できた白石だけれども、東南アジアへの差別意識までは理解できなかったのです……ちゃんちゃん。『ゴールデンカムイ』批判のために、他民族への差別をしてしまう読者を見ていると、白石のあの終わり方は教訓としてある意味完成されているとは思いました。

生死不明にした明治舞台の作品もある

あくまで私見ではありますが、『ゴールデンカムイ』は主人公生死不明あるいは死亡退場を、生存に変更したと仮定した前提で話を進めます。どうしてそうなったか、理由はいくらでも考えられます。あくまで死亡はルートのひとつで、作者自身も決めていなかったのかもしれません。愛着ゆえに生存させたくなったのかもしれない。

逆に生存したはずの主人公が生死不明になった作品があります。大河ドラマ『獅子の時代』です。薩摩側の主役は死亡するものの、会津側の主人公は、死体が見つからないまま消えたようにいなくなってラストを迎えるのです。
当初は生存し投獄される構想だった。ところが脚本家の山田太一氏は、秩父事件の最中に主役が生死不明となるように変更したのです。

なぜこうしたのか、わかる気がします。

山田太一氏の世代は、明治のあとに戦争を迎え、それがどんなにひどい結末になったのかわかっている。無邪気な明治礼賛はできないのです。

もしも理想に生きる主人公を描いたのであれば、そんなかれらが何かを変えていたら、あの戦争はなかったかもしれない。そうならずに途中で斃れたからこそ、あの戦争がある。

戦争という未来と、理想に生きる人間と。その整合性をあわせるためには、殺すしかない。これは山田風太郎の明治ものにも顕著で、主人公の死亡率が実に高い。高邁な理想を掲げた主人公はほぼ死にます。セルフギロチン死(自ら斬首刑になるんだってば)という凄まじいものもある。
ちなみに近年の日本におけるフィクションでこの形式だったものが、2020年大河ドラマ『麒麟がくる』でした。理想の世の中を実現するために死へと突き進んでしまう。あのドラマは池端俊策氏の戦争への思いも反映されていると思えました。
ただ、そういう終わり方を今の読者が受け入れるかというと、それは別ですよね。『ゴールデンカムイ』は作品として大きくなりすぎました。尾形と鶴見だけでもああだもの。殉死を美化しかねないという批判もつきまとうことでしょう。

皆が納得する終わり方はどうすべきか?

同じ近代を扱う漫画作品でも、『進撃の巨人』ほど斬新にするか。現実世界とは切り離したからこそハッピーエンドとできた『鬼滅の刃』とするか。そういう選択肢はあったものの、作品の性質上それも難しいと。

海外作品はどうか? 海外のフィクションではうまくやっているとはいうものの、それは先住民との折り合いをどうつけるか、そこを絞らないといけないとは思います。
『ポカホンタス』は論外として。
先住民問題を取り入れた『アナと雪の女王2』では、エルサが社会的な死ともいえる退位隠遁エンドを選びました。杉本は王でもないので、社会的死もそもそもありませんし。これもちがう。
『アンという名の少女』は極めてよい作品だとは思うけれども、先住民カクウェットがらみのプロットはその中ではあまりこなれていないと思えます。ケルト系差別、ジェンダー、黒人、LGBTQ……そういった描写と比べると、先住民がらみは一段落ちるとは思った。
北欧やカナダを舞台にしたフィクションでも、先住民問題を落とし込むにはまだまだ積み重ねが必要だと思います。

『ゴールデンカムイ』はあくまで通過点であって、数年後には「当時はあれが限界だったね」と言えるようになればよいと思う次第です。

マガジンにしているのでほぼほぼ9割読めるようにしていて申し訳ないのですが、一応、ここから先は有料です。

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『ゴールデンカムイ』アニメ、本誌、単行本感想をまとめました。無料分が長いので投げ銭感覚でどうぞ。武将ジャパンに掲載していました。歴史ネタでより楽しめることをめざします。

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