『ゴールデンカムイ』軍隊と遊郭 尾形百之助と花沢勇作の悲劇を考察する

 この記事は、『ゴールデンカムイ』単行本11巻および17巻の重大深刻なネタバレ要素を含んでいます。ご注意ください。17巻発売と同時に掲載されていましたが、掲載元の諸事情を鑑み、こちらに移動しました。検索ワードから性的な記事とされることが原因です。

 加筆訂正のうえで、有料とします。有料部分は加筆のみで少なめになります。投げ銭という感覚でどうかよろしくお願いします。

かつて、日本には軍都があった

 以前、最上義光の悪評がらみで、地元の方からこんな話を聞きました。
「最上義光の白鳥十郎伝説に関わる、血染めの桜は存在しないのです。それなのに、山形歩兵第三十二連隊歌で“霞城に咲き誇る血染めの桜仰ぎ見よ”に使われたせいで広まってしまいました」
 そのときは、へえ、そんなものかと思ったものですが。

 ここで注目したいことがあります。
 それは、山形城(霞城)には山形歩兵第三十二連隊があったということです。
明治時代から昭和にかけて、日本全国の城跡には連隊が置かれることがありました。
 このことは、史跡保存という観点から見ると悩ましいことです。山形城跡は、その利便性と広大な敷地ゆえに戦前は軍事施設、戦後はスポーツ施設や公園が広がり、復元を困難としてしまいました。そしてこれは山形だけの話ではありません。日本全国に、こうした例があったのです。

軍隊を誘致したい! 都市の思惑

 第二次世界大戦後、あの戦争の記憶を消し去りたい日本にとって、都市が軍隊を誘致したことは消し去りたい記憶となったのでしょうか。
 あまりそのことが振り返られることはありません。横須賀や呉のような例はあるとはいえ、少数派でしょう。しかし、戦前は軍隊を誘致することには大きなメリットがありました。
兵士がいるということ。それはよいことであったのです。

・経済効果:飲食店や軍服のメリヤスはじめ、兵士の需要を満たすための業者にとって、商業的なメリットがあった
・都市インフラの拡充:軍隊ともなれば、いざ動くとなれば移動させる手段が必要。そのため、鉄道網や健康管理に重大な役割を果たす水道網建設が優先的に行われることとなる
・災害への備え:災害時ともなれば、兵士による復興が期待できる

 こうしたメリットがあるため、各地の政治家は我が都市にこそ軍隊を誘致したいと気を揉んだものなのです。

軍都・旭川の第七師団

 『ゴールデンカムイ』の舞台ともなる旭川。この都市は、作中で重要な役割を果たす第七師団の本拠地である軍都として登場します。旭川の第七師団は後発の連隊です。日清戦争時に編成を急がれたものの、戦争には間に合いませんでした。日露戦争が初参戦となります。
 第七師団の良心こと月島軍曹は、日清戦争では第二師団、日露戦争では第七師団に所属しています。その背景には、そうした事情もあるのです。
この旭川ですが、二転三転して誘致が決定しました。それというのも、予定していた札幌等は地価が高騰してしまい、比較的安価な旭川に決定した背景があるからです。

 しかし、これはあくまで和人の都合による話。
旭川の地価は、なぜ安かったのでしょう? それは明治以降の開拓が遅れ、アイヌが暮らしていたに他なりません。
 旭川は本来、土地を奪われたアイヌに給与するための場所(旧土人給与地)であったのです。
 いわば明治政府による約束破りとされても、そこは致し方ありません。この問題は「近文アイヌ給与地問題」として知られています。 

軍都の必要悪・遊郭

 旭川にはこんな問題があるわけですが、軍都の抱える問題はそれだけではありません。
 風紀の乱れを警戒する声が、出てくることになります。その風紀の乱れとは何か?
「遊郭」です。
 若い兵士が発散する欲求は当然とされていた見方があり、軍隊と遊郭はワンセットであると当時はみなされておりました。軍の基地近辺には、当然のこととして遊郭が設置されます。軍都が旧宿場町ですと、話は簡単とも言えるかもしれません。宿場町時代からの遊郭が、兵士向きとされたのです。
 一方で藩政時代に遊郭設置禁止であった場所に基地ができますと、移転することになるのです。住民としては、複雑な思いがあったことでしょう。
 学校が近くにあると風紀上問題になるトラブルも、しばしば発生しました。大人たちは、悪い場所だから避けて通るようにと子供に言いくるめていたようです。
 治安悪化も招きかねません。何か気に入らないことがあったのか、遊郭を襲撃する兵士による事件が起こったこともあったほどです。

 もっと深刻な悪影響もあります。それは梅毒をはじめとする性病です。
旭川では土日を前にした金曜日には、「駆梅院」という施設で遊女の性病検査が実施されていたとか。軍隊も、性病罹患を警戒して羽目を外さぬよう訓示を繰り返していました。
 低級な娼妓ほど感染率が高く危険であるとして、この点も指導されていたようです。もっとも、それが守られたかは別の話。

 時代が降りますと。娼妓そのものを廃止する「廃娼運動」も盛んになります。県によっては廃娼が決まっている場合もありました。
 軍都と遊郭はワンセットであるという反対運動も起こり、風紀取り締まりが重要な課題となっていったのです。
「白い首の女をうろうろさせるな!」
 そんな声が、軍都にはつきまとっていたのでした。ここまでをふまえておきましょう。

「身を売る女」の明治維新

 明治維新とは、ありとあらゆる階層に影響を与えます。
 それより少し前、維新前夜ともなると、遊女の境遇は悪化しておりました。「天保の改革」以降、奢侈が取り締まられ、高級遊女を買う「大尽遊び」が取り締まり対象とされていたからです。これが遊女を救うことになったかというと、むしろ逆です。生活苦に抗議するための放火が増加してゆきました。

 ただし、明治維新直後はさしたる動きはありません。女たちの肉体は、相変わらず売買の対象でした。
これが変わるのが、明治5年(1872年)、「メアリ・ルス号事件」に伴う「娼妓解放令」です。
「どこの国だって、娼婦なんているでしょ! なんで日本人ばかりがどうこう言われなくちゃならないんだよ!」
 そういう話ではまったくありません。借金を背負わされ売買契約が結ばれている状態が「奴隷」とみなされたのです。江戸時代とはいえ、人身売買はおおっぴらにできたわけではありません。それが、遊女という限られた範囲内では、必要悪として見逃されていたのです。なかなか痛いところをついた話と言えるわけですね。ただし、この事件は、女性解放を目指したわけでもなく、イギリス側の難癖悪とも思えるものではあります。名目だけ変え、それ以外はそのまま。そういう事態が起こるのです。 

 これ以降、かえって遊女の境遇は悪化しました。それまでの家を救うために苦界に身を沈めたという捉え方が変化したのです。西洋諸国の娼婦のように、
「自発的に身を売っている」
 とみなされるようになったのです。

 発言権が出てきて、仕事場所の座敷を選択する娼妓も出てきました。解放令を現実のものとすべく、東京府に対して果敢に訴えた娼妓もいます。しかし、大半の場合、実態は何も変わりません。借金はそのまま、仕事内容も同じ。
 悪化した部分はあります。それは意識の変化です。
 かつては歌舞伎の演目のように、苦界に身を落とす遊女は憐れみの目で見られていました。美談扱いされたものです。華麗なるファッションリーダーとしての花魁への憧れもありました。

 そうした娼妓への同情と羨望は、明治以降薄れてゆくのです。こうした捉え方は、呼び名にも表れています。
 明治初期は、「隠売女(かくしばいじょ、隠れて身を売る女)」という娼妓の呼び名がありました。それがだんだんと、「淫売女(いんばいじょ、淫らであるから身を売る女)」へと変化してゆくのです。
 「隠れてやむなく身を売る」という見方が、「淫らであるがゆえに身を売る」に変化したというあらわれです。好きで楽をしたくて、身を売っているという名目になったのです。「通俗道徳」という自己責任論のもと、ますますこうした見方は悪化しました。
 皮肉なことに、明治維新後は武士階級の身を売る女が増えています。戊辰戦争負け組は困窮するばかり。俸禄を失った武士はどうしようもない。ならば、娘が身を売る。そんな悲惨な境遇がありました。

 富国強兵の一環として、性病への見方も変化しました。江戸時代までは「花柳病」という名前で呼ばれ、遊び人ならば仕方ないという見方すらあった梅毒が、深刻な社会悪へと変化してゆきます。
 感染予防という名目で、娼妓たちは屈辱的かつ虐待的な性器洗浄や検査を受ける羽目になってゆくのです。こうした女性の苦しみが取り上げられるのは、ずっとあとのこと。
 19歳で身を売られ、命がけで逃げ切った森光子の『吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日』、『春駒日記 吉原花魁の日々』からは、彼女らの苦闘が読み取れます。
 ちなみにこの森光子が駆け込んだのは、朝の連続テレビ小説『花子とアン』にも登場する柳原白蓮のもとでした。ドラマでは至極あっさりではありますが、森光子をモデルとした雪乃の逃亡が描かれておりました。

「猥褻」の明治維新

 明治維新以降、「貞操」について感心が寄せられるようになります。それは相撲やお歯黒、そしてアイヌの歴史とも、関連があると言えなくもない。
 西洋人から見て、非文明的で恥ずかしいものは辞めましょうというわけです。
 裸で大男がぶつかり合う相撲なんて、野蛮ではないか?
 
 「眉剃り」と「お歯黒」は、不気味だから禁止。アイヌの耳環や刺れ墨禁止も、この流れ汲みます。

 男同士の相撲は明治天皇はじめ皇族の愛好と庇護もあって免れたものの、女相撲は禁止。つまり、女は土俵に乗ってはいけないという理由は、穢れでも日本の伝統でもなく、明治以降、しかも西洋を意識してのものということです。つまり、現代に至るまで禁止する理由はありません。むしろ国際的には恥さらしの象徴です。なんとかしましょうよ。

 男女混浴、男女混同海上水泳。
 春画・わいせつなグッズ販売、猥褻な見世物や興行の禁止。外国からの輸入ポルノカードも駄目。
 人の肝、陰茎販売の禁止。一体どういうことかと思うかもしれませんが、漢方薬や精力剤として流通していたのです。処刑人の山田浅右衛門は、遺体販売を手がけておりました。
 ただ、これについては西洋でも解剖用死売買マーケットがありましたので……洋の東西を問わないものとも言えますね。
 天皇・皇族のブロマイド販売禁止。
 生首写真販売の禁止。最後は江藤新平でした。

 念仏踊り、盆踊り、夜這いを伴うような祭り、祈願用石塔作り、アイヌの伝統狩猟……ともかく何でも、西洋に見られたら不味いと判断されたら禁止されたわけです。
 「廃刀令」も、この一環と言えなくもありません。刀を帯びた人は野蛮で危険です。 

 猥褻なもの、性的なものも槍玉にあります。江戸時代以前は「おおさか」という見方は、こうした流れを反映しているのでしょう。
 こうした中に、貞操観念の緩さもあったわけです。
 江戸時代の性的な慣習はルーズであったのかと言いますと、これまた日本全体という単位でまとめられない難しさがあります。経済状態や時代によっても変わります。
 

 そう前置きして、幕末に目立つ藩でも。これまた正反対かと言えるほど。
 まずは、一番お固い部類に入る会津藩から。

・妻以外の男女との性交渉は原則禁止。破られた場合、妻から夫に離縁を申し出てもよい
→山本覚馬(新島八重の兄)、梶原平馬(山川浩・健次郎の姉である二葉の夫)は、京都で妻妾したため離婚。

・男色は厳禁
→トラブル多発の影響もあり、治安のためにも藩政改革によって厳禁とされた。

・芸者を宴会に呼ぶ? ならぬことはならぬものです!
→山川健次郎は、兄・浩が宴会に芸者を呼んだ途端「俺にはあわね」と退席。浩も宴会に腹を立て「こっだ宴には出ていられね、税金泥棒だべした」と一句残して立ち去ったことがあるほど。

・京都守護職時代は、あまりに真面目過ぎて嫌われる
→貧乏で遊びも知らない田舎者扱いされた

 東北諸藩はお固い傾向があるようで、戊辰戦争における仙台藩士による世良修蔵暗殺も、彼のあまりにゆるい遊びっぷりに反発したという背景もあります。娼妓を侍らしながら、命令を下す姿に侮辱を感じたとか。

 お次は薩摩藩!
 薩摩藩は、徹底した男尊女卑もあってか、むしろ「薩摩といえば男色、男色といえば薩摩」という状態でした。幕末期モテない男ナンバーワンの座は、薩摩のものでした。

 そしてモテモテプレイボーイ枠といえば、長州藩ですね。
 イケメンの久坂玄瑞がナンバーワン。他の長州藩士も、ともかく金離れがよくて気前がよいので、京都中心にモテモテでした。尊王攘夷テロも、金と色気でチャラにできたかもしれません。

 明治以降、薩摩藩と長州藩が先頭に立ち、新たな国家を形成してゆきます。この傾向は続くわけです。日本一の男色が盛んな薩摩と、プレイボーイ出身地・長州が政府の中心にいると。
 あんまりな言い方と言えばそうですが、史実だから仕方ない……江戸っ子たちは、男色なんてしょうもねえモンが流行したのは薩摩の芋どものせいだと文句タラタラだったそうで。幕末期の江戸では衰退していた男色が復活したのは、確かに明治以降です。
 そして長州藩……伊藤博文あたりの好色ぶりは明治天皇もたしなめたほどでした。
 
こんな明治政府の状態に、福沢諭吉は苦言を呈しています。
「日本人男性の貞操論はゲスの極みッ! 東も西も、やるなら隠れて、って言うでしょ!」
 明治18年(1885年)、辛口毒舌でも知られる福沢諭吉が、『品行論』で性的なルーズさを徹底的に批判したのです。

「平然とした顔で、誰それが妾を囲っていると言う。自分の妾の話をする。しかも妾の数を自慢する! 恥ずかしくてなりませんな。宴会に芸妓を呼んでイェーイ♪ ってしている、しかも西洋帰りとか、バカなんですか? 西洋人にあれは何かと突っ込まれて、どう説明するんですか? 歌って踊るだけじゃないでしょ。いやらしいこともするんでしょう? 政府高官すら見て見ぬフリなんですから、もうゲス過ぎて話になりません」(意訳)

 ただ、この福沢の論理には、現代からみると穴があると言えなくもありません。

・娼妓はゲスでどうしようもない、救いようがないのでいわば「人非人」である。女性の保護は全く考えられていない
・別に娼妓を買うのは絶対禁止とは言っていない。ある程度仕方ない
・西洋東洋、ゲスは大勢いる(西洋東洋禽獣甚だ多し)。日本人男子だけが悪いとは言っていない。ただ、やるなら恥ずかしさや慎みを持って、こっそりやりましょうってことですよ!

 ただ……福沢諭吉の理屈が西洋を意識しているのですから、腑に落ちる部分もあります。
西洋の人々が、日本よりも遊んでいないように見えるのはどうしてでしょうか?
キリスト教の影響? いやいや、そんな単純なことではありますまい。場合によっては、法皇だろうと淫蕩三昧です。アレクサンデル6世が有名ですね。

 幕末から明治にかけて、西洋が紳士的に見えたとすれば、当時ヨーロッパの祖母であったヴィクトリア女王の影響でしょう。それまでの英国王室は奔放でした。特にヴィクトリア女王の前にあたるハノーヴァー朝は、ヨーロッパ屈指の酷さ。イギリス人とて、紳士どころか酒と女でウェーイ♪ するゲスども扱いをされておりました。 
 ヴィクトリア女王以降、イギリスの王室はドイツからの血が濃く入り込みまして。そんなわけで、彼女の時代がむしろ例外では、と思われるほどです。エリザベス2世の子にあたる王子だって、未成年との性的関係で睨まれている方がいるほどですし。
 
 福沢の言う通り、西洋も東洋もゲスだけれども、取り繕いなさいというのが、当時の理屈というわけです。ただし、それだけではない流れも沸き起こります。これには、「富国強兵」も絡んでおりました。梅毒をはじめとする性病予防のためです。

梅毒を予防せよ

 16世紀初頭に、日本にまで到達した性病が「梅毒」です。治療法のない頃、そのあまりに惨い症状とあいまって、恐怖の対象でした。1910年代には「国民病」と呼ばれるほどであったとか。とはいえ前述の通り、江戸時代までは必要悪とみなされていたような部分があります。「花柳病」という名前からも、遊んだら罹患しても仕方ないと思われている意識が感じられます。歴史上の人物が梅毒感染者で、ちょっとびっくりした経験がある方も、多いのではないでしょうか。

 しかし、明治時代になるとそんな時代も終わりを告げます。富国強兵を考慮しましても、梅毒のアウトブレイクは大変おぞましく、おそろしいものです。
 男性が感染、それが妻子に感染。そうなれば、一家全滅の危機があります。
女流詩人の金子みすゞも、夫から性病を感染させられていたというのですから、悲しいものがあります。妻が性病に罹患したら、夫が原因でも離縁されてしまう。そんなひどい時代でした。 

 そんなおそろしい梅毒感染を防ぐ方法には、いくつかあります。20世紀になってペニシリンによる治療法が確立されるまで、予防しかなかったのです。

・性行為をしない、禁欲
→ただし、求められたのは女性側ばかりという理不尽。かつ夫の性行為を拒むことは想定外

・避妊具を着用する
→感覚が鈍くなるからと、消極的な反応が多いものでした

・娼婦の検査徹底
→冷水による洗浄等、大変な苦痛と屈辱を伴うもの

・安い娼婦は買わない
→高級であれば罹患率が低かったのです

・啓蒙活動
→「梅毒に罹りますか? 人間やめますか?」と恐怖を煽るわけです

 禁欲が女性側ばかりというのも、理不尽な話です。
 啓蒙活動については、今からするとなかなか考えがたいものがあります。
 「妙齢婦人性病模型」なる人形が、各地を展開しておりまして。若くて妖艶な美女人形が、脚を開き気味にして椅子に腰掛けているわけです。
こりゃ気になる裾の奥を見ちゃおうかな〜、とのぞき込むとそこにはただれた秘密の場所が! ギャー!
「梅毒に罹ると、どんな美人もこうなるんだぞ、ゾゾゾーッ!」
と、主に少年に対して啓蒙するためのものだったそうです。
 どうにも歯切れの悪い対処ばかりですが、それが医学的な限界点でしょう。
治療法が確立されたとはいえ、感染防止は重要であることを、お忘れ無きよう。

尾形の因縁

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