『おちょやん』7 絶望と希望、そしてロマンス
道頓堀にやってきたものの、いきなり大量の仕事を押し付けられる千代。誰も児童労働の残酷さなんて見向きもしません。【通俗道徳】地獄の空気と、道頓堀のおもろさがからみあって、画面から押し出されるような気がします。
これは『スカーレット』でも感じたもんですが、空気に大阪が漂っとる。肉は牛肉、野球は阪神。そういう空気ですわ。
サブタイトルに突っ込む形式を追求したいのか。先週は「いやいや、かわいそやん」となり、今週は「ええとこ? ほんまに?」となる。そういう始まり方をしました。一月で覚えなければお茶子をクビ、「岡安」を追い出すとシズは言い切る。そんな業務として、学校まで弁当を届けます。
大正の“いとさん”はきつい
そこにいたのは、みつえです。見てください、この綺麗な着物に袴。これやで、これが大正のリアルや。ある程度の年代のおばあちゃんは、誇らしげに「うちが女学校のころは」と言っとりました。そんだけステータスシンボル、別世界を生きてきたお嬢様。そういうアピールだったわけやね。それが朝ドラではこの時代となると、女優さんが女学生になるのが定番になってしもて。そういう階級意識が消えてもうた。
まあ、一世紀後、令和がドラマになって、全員正社員、手取り50万。それが当たり前みたいになっとったら、「なめとんか未来人!」ってなるやないですか。そういうことを、大正時代に対してしてきたんやね。あかんやんか!
そういうみつえなので、もう、千代をなんか汚い子扱いですわ。千代が同い年なら友達になれるかとウキウキしても、近寄らせないバリアがバリバリにでとる。これも成り上がりもん特有ちゅうか。ほんまのお嬢様は、『スカーレット』の喜美子のおかあちゃん・マツのように、おっとりしていたりするもんですが。こういう半端なお嬢様はタチ悪いで。昔の人は人情味があって、優しい。そういう意識は捨てていきましょう。そんなに甘くないて。
そうそう、この時代の大阪なので“いとさん”ですな。ほんまええ関西弁がでとる。このドラマは、関西弁の再現にえらい労力をかけてます。出演者のイントネーションをつけ、地域ごとに細かい語彙を使う。なんでそこまでする? 意地やろなぁ。
テレビにも欠点はあんねん。それは方言を大雑把にしてしまうところ。東北弁は田舎者の「だべ」でぐちゃぐちゃに混ざったものになるわ。関西弁は吉本的ちゅうか。トゲトゲして、やらかさが抜けたものになって、こだわりの強い大阪人は「いーっ!」となっているんじゃないかとは思ってました。
本作に早速、河内弁が汚いとかなんとか言う感想もありますが。なんでそんなこと言われなければいかんのか? それは偏見です。広島弁はヤクザ言葉みたいな偏見ですってば!
思えば、昭和の少女漫画のお嬢様も、こういうお嬢様が祖母だった、そういう名残があったんでしょうね。時代の流れを感じますわ。
ちなみに、大正の『鬼滅の刃』でこういう強いお嬢様風情が出ているのは、胡蝶しのぶですね。甘露寺蜜璃はランクが高すぎておっとりしているお姫様です。
のれん分け事情と、なにわの強き女たち
千代はさっさと次のお使いをしろとみつえにせかされ、「福富」に向かいます。しかし女将の菊は、贈り物を門前払いします。なんでやねん。そこは黒子が説明します。
なんでも、「岡安」は「福富」からのれん分けされた芝居小屋。それなのに、「岡安」がいつの間にか上になってしまい、険悪な仲になってしまった模様。おお、商業都市大阪らしい話や。他の都市でもあるだろうけど。そんな大人のドロドロした汚い事情なんてわからん千代は、店の前で困り果てるしかない。みつえと同じ学校にいた息子の福助に頼っても、役に立たない。
おもろい男女関係も出てきていまして。「岡安」も、「福富」も、小さい子まで含めて男が女に突っ込まれる力関係があります。大阪特有なのか、それとも彼らだけなのか?
これもやっと、NHK大阪が調子を取り戻してきたところだとは思った!
名作枠『あさが来た』には大問題がいろいろありますが。あれはヒロインがかなり弱くなってる。モデルはもっと強い。グイグイいく。それなのに、あさはピンチになると五代様が出てくるし。夫ですら突如「ジョバンニが一晩でやってくれました」みたいな覚醒をするし。そこをふまえますと、強いなにわの女復権はええことです。
とはいえ、敵に回したくない女であることは確かです。千代がやっと戻ると、シズは容赦なく叱りつける。そんな店の前にいたら営業妨害だという。同僚のお茶子も自分らが忙しくてほったらかし。ここでお茶子の給料体系が出てきます。
衣食住の費用はかからないけど、給料なし。チップ収入が頼り。
勉強になりますわ。日本にはチップ文化がないという指摘がある。歴史的にみて全くないのか、それともどこかで切り替わったか? 興味はあった。そこはNHKですから、根拠を持って大正大阪チップ文化を出してきたのでしょう。
ええんか? やはり不平等やし、要領や愛嬌で差もつくし。加齢とともに不利になるところもあるでしょうし。不安定です。そこは変えていかなあかん。
嗅覚の残酷
だってお茶子は自分らのことで精一杯だから、千代のことはほったらかしで、風呂に入っていないから「臭い!」と言うばかりなんですよ。
臭い、か……。
テレビの限界として、嗅覚は再現できないということがある。所詮五感でも視覚と聴覚までだから、残り三つの感覚をどう描くか、がんばりやさんな欲張りクリエイターならそこをどうするか考えるところ。『なつぞら』ではアニメでの味覚、『スカーレット』は陶芸の触覚が出てきましたが。
でた。野心あるドラマや。ここは、風呂が入れない忙しさと貧しさゆえの、嗅覚を出してきました。
あの話題作『パラサイト』は、嗅覚が重要な役割を果たしました。上流階級に寄生(=パラサイト)する一家。それが破綻するきっかけとして、半地下で暮らす貧しさゆえの悪臭がありました。
朝ドラで、ええんか? こんなに残酷で、ええんか?
ゾッとするほどの残酷さを、嗅覚が示してきます。こんなに小さな子が、困り果てて風呂にも入れず、道ばたで冷たい水を浴びるしかない。おそろしいほどの悲しさがありました。
それでも、舞台には希望がある
絶望も希望さえあれば輝く。
ヒロインを絶望に突き落としながら、希望も見えてきます。それは天海天海一座。ド派手な格好で道頓堀を歩いてくると、観客が何を求めているのかわかる。
非日常、ハレの舞台。
冴えなくて平凡な日々を忘れさせる。笑いと人情がそこにはある。ここでの天海一座の芝居は、それこそ味のあるアニメで再現してもええと思う。それをちゃんと、衣装を着せて、舞台を作って再現する。この数分、朝ドラの数分にどれだけ手間をかけるのか?
この一行は、大正だから髷は結っていない。それでも服装は江戸時代とそうは変わらないように見える。舞台はもっとそうで、歌舞伎とはちがうといっても、近いものはある。歌舞伎とちがって、浅草ともちがって、大正の大阪にあった何かがそこにはありました。
この空気を見せるからこそ、千代が夢中になる理由もわかる。
千代が夢中になるものが、そこにはありました。
生き別れの武士の母子。感動の再会なのに、乳を飲ませようとするボケ。人情と笑いが短い瞬間にぎゅっと詰まっていて、これこそが千代のみた夢のような何かだとわかります。
のみならず、ロマンスも示唆されると。とはいえ、千代とプリンスこと天海一平の出会いはわけわからんものでした。
臭いからせめて頭を洗う。そのために、道端で冷たい水をかぶっていた。そんな千代を河童呼ばわりしたガキ。それがプリンスやて!
夢となるものはロマンチックに、ロマンスの相手とは妙な出会い。これが、今の朝ドラやで。
苦いドラマが最先端、朝ドラもそこに追いついた
ここから先は
『週刊おちょやん武者震レビュー』
2020年度下半期NHK大阪朝の連続テレビ小説『おちょやん』をレビューするで!週刊や!(前身はこちら https://asadrama.c…
よろしければご支援よろしくお願いします。ライターとして、あなたの力が必要です!