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私という重荷を預ける

探し物は我が内に

「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなた方の力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。」

「エフェソ人への手紙 2:8」

聖書とはとても不思議な書物です。読む人それぞれが、一番必要としている言葉に、自然と目が留まるのです。聖書を読み始めて、私の心を掴んだのは、人間とは大体みんなダメ人間だという前提に立っていることでした。

そう、人間とは例外なく「間違う」のです。それを聖書では「罪人」と呼びます。新約聖書が書かれた言語であるギリシャ語で、罪人は「ハマルティア」、それは「的を外した」という意味だそうです。

現代のスピリチュアルな文脈で捉えると、これは非常にネガティブな考え方です。私も長いこと、東洋的な霊的思想に根幹をなすニューエイジにどっぷりハマっていましたので、聖書の人間はみんな罪人なんて考え方が大大の大嫌いでした。むしろ真逆のことを信じて、それを探究してきました。

人間の本質は善きもので、中心にあるのはまばゆい宝石ような「真実の自己」。それを覆っているのは、無知や欲望、執着といった煩悩、過去のカルマや心の癖、それらが積み上がったネガティブな想念の集積体であり、それが真なる自己の輝きを曇らせているのだと。それらを修行によって浄化し、取り除けば、本来「すでにそこにあった」光り輝く自己が輝き出す。ざっくりいえば真理は自分の内側にあり、それを探求せよというメッセージでした。

どう考えても、人間は罪人だ、罪を悔い改めれば救われる、なんて教えより、こっちの方がワクワクするではありませんか。

「本当の自分こそ最高の自分」

物心ついた時からぼんやりと自分の中心にある空虚さや欠落感を、自分の未熟さやエゴの曇りと捉えて、それを突破すべく、さまざま技法や教えに取り組んできました。

私が私を追いかける

それは最初、自分のクリエイティビティを開花させたいという動機からはじまりました。絵を描くこと、ジャーナリング、ダンスや旅などを通じた探究は、やがて、瞑想やヨガ、エネルギーワーク、インド占星術というよりスピリチュアルでディープな方へ向かっていきました。毎日の瞑想実践は欠かさず、時に長期のリトリートにも参加しました。

本当の自分を知りたい、何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか自分には何ができるのか?かなり強い欲求を抱えて、長期間取り組んできたと思います。その中で時折不思議な体験もありました。大きなカタルシスがあったり、内側に歓喜が溢れてくるとか、至福感に満ちるとか。深いところから直感が降りてくることもありました。

しかし同時にジレンマをも感じていました。瞑想すればするほど、己の光どころか、己の愚かさや、至らなさ、傲慢さ、ばかりに気づくのです。時々良い感じで瞑想するときにさっと差し込む光や喜びも、時間の経過と共に消えていきます。

さらに、実践を重ねれば重ねるほど、変なプライドばかりが育って、いわゆる世間一般の人々を見下してみたり、探究仲間の神秘体験を歯軋りしながら聞いている自分がいたりもするのです。いわゆる「スピリチュアル・エゴ」と呼ばれるもので、霊的な修行ではお馴染みのものですが、内側にドロドロと渦巻くそれは、本当に如何ともし難い魔物のような存在でした。

一体いつになったら、宝石のような輝く自己と出会うことができるのでしょう?何が間違っているのでしょうか?きっとまだまだ修行が足りないに違いありません。そうしてさらに、探究は続いていくのです。

完全な真なる自己と出会うための旅路は、永遠に続く自分探しでもありました。もちろん真なる自己は、様々なアイデンティティや思考と同一化している個我、すなわちエゴとは別物です。ヨガや仏教でも最大の敵はこのエゴで、これこそが真実の自己を覆っている、マーヤ(幻想)のヴェールな訳です。

しかし問題は、真なる自己もエゴも、共に自分の内側にある存在で、客観的に判別することは難しく、簡単に真なる自己とエゴがすり替わってしまうのです。例え瞑想中に大きな意識の広がりを感じたとしても、それをエゴサイドで思考に落とし込んでしまいます。

うわ、こんな深い瞑想体験をした私はすごい!、さらに深い体験を探究しよう!みたいに。いつの間にかスピリチュアル・エゴが肥大化してしまうのです。そうすると、瞑想を重ねても、プライドばかりが積み上がって、心はどんどん苦しくなるばかりです。

「おかしいな、瞑想中はこんなに素晴らしい体験ができるのに、どうして朝起きたら死にたいって思うんだろう?」

結局、私は常に自分(内側)の方に意識の矢印を向け続けているのですから、自分を探しながら自分を打ち消そうとしているような、段々おかしなことになってくるのです。


本当の自分こそ最高の自分教

「本当の自分=最高の自分」振り返れば、それはほとんど自分教の様相を呈していました。

自分が「まだ十分じゃない」と感じているならば、私はまだ真実の自分に到達していない。何かまだ浄化されていないものがあり、ブロックがあり、カルマや弱さや依存心がある。もっともっと効果的なワークや、瞑想法、素晴らしいグルに出会うべきかもしれない。私が探しているのは、真なる自己だったはずなのに、いつの間にかエゴの現世利益的な欲求絡め取られているのです。

自分の底にある、暗い感情や欲望に触れて圧倒されながら、それすら 真なる自己に至るプロセスだと、都合よく解釈てしまうのです。まるで犬が自分の尻尾に食いつこうと突進すればするほど、尻尾も逃げていくような感覚でした。完全に「自分」に絡め取られてしまったのです。

「私」という沼にハマって身動きが取れなくなってしまいました。

頼れるものは誰もいません、自分だけです!真実の答えを知っているのも私だけです!真理を照らしてくれる光も、私の内側にあります。神さえも、自分の中にあります。それらを遮っている闇も、また自分の中にあるのです。だから、何かが上手くいってないなら、それも自分が悪いのです。

うまくいかずに、落ち込んでいると、耳元で何かが囁きます。このテクニックを試したらいいよ、この先生のところへ行くといいよ、今度こそ本物だ、これこそあなたを変容させてくれる、かもしれない!人生が変わる、かもしれない!(それが秘伝であればあるほど、高いお金がかかります。)

しかし、考えてもみてください。自分に対して空虚さや欠落感を感じているから、探究しているのに自分の中ばかり見つめ続けていても、その空虚さが埋まるわけはありません。いやいや本当は光輝く真なる自己が隠れているのだと言われても、空っぽのグラスをどれだけ見つめたって、満たされるはずはないのですから。

私が弱く、自分を信じられず、罪悪感や恐怖を感じ、外側の何かに依存しているのなら、まだまだ修行やワークやセラピーが足りません。もっと素晴らしいテクニックと出会っていないのかもしれません。本当のグルに出会っていないのかもしれません。

あるは多分、さらに何回も生まれ変わってくる必要があるのでしょう。

そんなことを何度も何度も何度も繰り返しながら、私という厚い殻の中でもがき続けていました。

私の殻を打ち砕け!

「あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなた方の力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためです。」

その殻にヒビを入れてくれたのが、私にとっては聖書だったのでした。
なぜなら神という存在は絶対的に私の外側にあり、その方向に顔を向けると、必然的に殻の外から出ることになったからです。私という存在の外側へ…

「救いは、自分の力によるのではなく、神の賜物。それは誰も誇ることがないため。」

それは、あちらの技法、こちらのセラピーやセッションと逡巡し、スピリチュアルエゴの肥大に苦しんでいた自分の心を見透かすものでした。


「すべて心の重荷を背負ったものは、私の元に来なさい。休ませてあげよう。」

マタイによる福音書 11:28

私が背負っていた重荷、それは「私」でした。いつも「最高でなければならない私」という呪縛です。いつも「上手くいっていなければならない私」という呪縛です。本当の私とは最高の私なんかじゃありません。真逆です。ダメダメで、弱く、愚かで、いつも間違いばかりです。

しかし聖書を読むと、そもそも人間とはそのようなもので、どんな偉大な王も完璧ではないのです。ソロモン王もダビデも、イエスの12使徒たちも、みんな肝心ところでつまづきます。「義人はいない、誰もいない」と堂々とかかれているではありませんか!

なんだかものすごく、ホッとしました。当たり前じゃん、私なんて闇も光も弱きも強きも色々抱えてる、常に揺れ動く、頼りない存在なんだよ。頼りない私だからこそ、確かな存在を必要としている。でも、その確かな存在を自分の中に探し出そうとしてきたけれど、それは見つからない。見つからないものを探していたから苦しくて当たり前。つまり完全に「的を外して」いたのでした。

その時、「私という重荷を」手放す場所を見つけた気がしました。重荷を、私の外側へ、神の方へ預けてみようと思ったのです。

「神様、ごめんなさい。私が間違っていました、私が愚かでした、もう降参です。助けてください。」

すると世界は180度ひっくり返り、思いがけない風景が見えてきました。

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