
家族と他人のあいまいな合間|映画「大きな家」感想
この映画は配信されないと言われている
ネット配信はせず、お金を出して映画館でみるというハードルを設けることで、ネット上の不必要な声をさえぎる役目になっている。
しかし、この記事は、この映画のために映画館に実際に足を運んでみてもらいたい気持ちをこめた書いた。
2500字以上になり、(個人を特定しない形で)ネタバレもあるので、興味ある人にむけて有料記事にすることにした。
目にみえない部分に正面から光をあてたドキュメンタリー
「家族」とはなにか?を考える人には刺さる映画のような気がする。
児童養護施設が舞台、でもこれはれっきとした家族の映画である。出演者はすべて実在の生活者。フィクションとはちがう。かれらは現在進行形で生活している。
児童養護施設、という言葉がもつイメージとはうらはらに、子どもたちがとてもあかるい。
でも、施設のイメージどおりの影もある。
だれにも演じられない素のこどもたちと、周辺のおとなたちの記録
どの視点でこの映画を観るかで、おそらく印象ががらりと変わるとおもう。
本人、親兄弟、友人、知人、職員、学校や地域の人間、あるいはただの観客 ー 。
とうぜんながら、映せるところだけが切り取られているとおもう。真に暗い部分には、踏み込まなかった(踏み込めなかった)と思わせるシーンはある。
施設で生活している(していた)7歳から19歳の男女約7-8人を年齢順に追っている。人はちがうけど、施設で成長する記録を撮っているかのような錯覚になる。
かれらはすでに一人ひとりに世界観をもっている。
家族観もある。
10歳そこそこの子が、自分とほかの児童やおとなを線引きしている。全編通してみると、幼い子どもほど線引きがはっきりしている。
血が繋がってない、家族ではない、他人、という線引き。
施設は家ではない。帰るべき本当の家がある。
それが年齢が上の子になると、迷いや不安のなかにいても、血のつながりとはちがう、近い距離感を他者に感じている。
施設をでる年齢を迎え、血がつながってなくても絆があると信じて施設に残る子に思いを託す子、
寄付でミャンマーの孤児院でボランティア体験を行い、俯瞰的に施設で暮らすことの意味を見出す子。
他人だけど心が共鳴している。
印象的な場面ばかり続く
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