いのりとのろい
最近お気に入りの表現のひとつに呪い、というのがあります。
現在最もヒップな人物だと思う、安宅和人さんから聞いたときは思わず大きくうなずきました。
『呪い』:誰かが「こうしたらいいんじゃない?」と言った時に「それはムリだよ」とむやみに否定する行為のこと
残念なことにこういう親とか学校の先生のもとに生まれてしまった人、あと運悪くそういう上司を持った人は、耳を塞いでスルーするか、タイミングを見て去るといいと思います。
幸い日本は人気が集中しない仕事に付けば 誰でもお給料がもらえる平和な国なので(今後ちょっと変わるかもしれないけど)、なにも身近な人に呪いをかけられたまま生きていくことに甘んじなくても別の人生を選ぶことが出来ます。
変化の速度は早く、人生は案外長い
とはいえ、守る必要のある家族とか、繋がりを先に持ってしまった人もいます。既にどうしてもその地域で暮らしていくしか方法が思い当たらないという方もいるのかもしれません。そういう場合は機会を待ちましょう。長くて数十年単位になるかもしれませんが、しがらみから自由になるタイミングが必ず来ますので、飄々と 学びを取り入れ、呪いをスルーしながら機が熟すのを待ちましょう。(介護、看病や子育てや借金?組織?もいつか終わりが来ます)
年功序列や終身雇用の仕組みはもはや回復できないレベルに制度疲労を起こしてます。超一流の伝統を継承する職人になるなど以外の普通の人は非合理的な我慢を積み重ねることで見える景色に期待するものは殆どないのではと思います。
『いのり』:自分との対話、あるいは瞑想
特定の宗教の信者だったりでは全然ありませんが、高度成長期の東京では子供のお稽古ごとがすごく流行ってまして、剣道もやらせてもらいました。稽古の前後に座って手で印を組み 黙想するんですね。小学生だった私は黙想の時間は稽古場の外の世界と剣の稽古の世界とのドアみたいな感じだな、と思いました。男の子の中で稽古着に着替えるのは苦痛でしかありませんでしたが 今思うといい体験をさせてもらいました。
大人に褒められたくてちょっと難しめの本を読むのが好きだったこともあり、おかげでいろんな事や人に隔てなく興味を持つことが出来、ひいては科学や他の分野と繋がる楽しさを知ることになったので、子供時代の原体験が生活に必要なレベルの精神と現実の繋がりを感じる布石にはなったと思います。
一見関係なさそうな「作業」の中に、次の変化への重要なチップスが見つかる
瞑想はマインドフルネスとも言われて最近だいぶ注目されましたが、
コレって宗教で言うところの『いのり』と同じだな、と思うのです。
キリスト教だと ”天の父”との対話形式に当てはめてますけど、自分との対話でもあります。祈ることによって目の前のことで「わー!!!」ってなったものを一つ一つ本棚に本を戻すように整頓していく。
ランニングなどの運動も祈りの一つだと私は思います。禅には歩禅という実践方法があり、それと似たことが運動や作業などの反復行動でも起こります。雲水が日々黙々と掃除や作務を行うのも修行そのものです。
ある朝走りながら、脳裏に現れたビジュアルを告白しますと、床に散らばった本が自分からヒラヒラと本棚に戻っていくのを見たことがあります。その頃、色々とギュウギュウに押し詰まっていたのですが、大丈夫なんだとなんとも言えない安心感を得ました(ちょっと言ってることオカシイですがホントです)。
ああ、だいぶ発展してしまいましたが、現代の生活で『いのりとのろい』は相反するワンセットです。これ以上はわかりにくいので余白を残します。
ふーん、と思われたら あとは自分で考えてみて下さい w
ちょっと自転車で修行に行ってきます。