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【Chapter5】当たり前の現在地/Part1

Part1:肌色のルーツ

 色鉛筆、クレヨン、絵具、化粧品、ストッキング、色にまつわるあらゆる商品において、これまで当たり前のように商品名に表記されてきた「肌色」は、昨今問題視されてきた人種差別問題が端を発したことで除外されることとなりました。

 皆さん、肌色の気持ち、考えたことありますか?一体どんな思いでこの決定を受け容れなければならなかったことでしょう。日本で色チョークが使われ始めたのは大正6年で、その頃にはアメリカからも類似品が輸入されていたそうです。

 そしてその翌年、大正7年にクレヨンが誕生したそうです。肌色は、クレヨンの起源からそのように呼ばれていたのではなく、前身は「宍色(ししいろ)」であり、その所以は獣の肉の色に起因して名付けられたそうです。

 なんでも、江戸時代に、徳川綱吉が将軍だった時に肉食禁止令、所謂生類憐みの令が発布されたことで、その頃にはすでに肌色という概念は存在していたそうですが、肉を食べない世代にとっては肌色が何色なのかわからないといったことにも繋がったという話があります。

 大正7年(1918年)から103年後の未来では、これまで長きに亘って親しまれてきた肌色という呼称が除外されることとなりました。人種差別問題に起因しているとはいえ、単なる呼び名でさえもわざわざ社会問題とリンクさせて問題視し、排除するのですね。

 大した問題ではないように思っておられる方々も少なくはないと思いますが、この世界では、どこかの誰かが問題だ問題だと騒ぎ立てることで、色の呼び名まで変わってしまうことを考えると、これからの未来において、これにほとんど近いような現象が起こるようになるのではないかということが危惧されます。

 一体どこの誰が肌色は問題だと言い出したのでしょう。誰がというのは問題ではなく、具体的にどんな問題が起きたのかということが重要ですね。

 一般的には、例えばこの日本においては日本人は黄色人種であり、肌色は「日本人の肌の色」を意味していましたが、同じ日本人でも、夏場の肌の日焼け具合が人によってバラつきが生じ、小麦色以上に黒く焼けている子供が「お前の肌は肌色じゃない」などといういじめを受けて疎外されるようなことが起きてしまうようで、これは良くないということで肌色を除外したと考えられます。

 また、グローバル化が加速的に進むにつれ、日本にはおよそ300万人近い外国人が暮らしていますから、肌色と表記されているものについて「どうしてこれが肌色なの?」という疑問を自然に抱かせてしまうこともきっとあるのでしょう。

 ですが、どうも腑に落ちませんね。今の60代以上の世代では、小さい頃に子供たちだけで川遊びをするのはほとんど日課のようなものだったのが、現代では水難事故も相次ぐこの春先から夏の終わり頃までは、川は危険なので遊泳禁止としますみたいなのが当たり前になってしまいましたね。

 その結果、肉食禁止令と同様の現象が現代の子供たちに起きてしまい、川遊びをしたことのない子供たちが足を取られ川に流される事故が毎年のように起きています。

 時代が流れれば、人々の生活も様変わりし、社会的常識もマナーもモラルも、普遍的な概念以外のすべてがその時代に求められるものにアップデートされていきます。それは誰にも止めようがないため、否定することも難しいでしょうし、納得できる部分が大半なのは確かです。

 ですが、かつての既成概念の一部を排除することで、別の問題が生じるケースもあるのだなということを、肌色のルーツを振り返るだけでも気付かされます。別に「各国それぞれの肌色はコレだ」ということでもいい気はしますが、今なお問題視されている人種差別はかなりナイーブなもので、少しでも蔑視するような発言や行動をすれば国交関係に軋轢を生む可能性が極めて高い、そういう判断の下、肌色は除外されることとなったのでしょう。

 相手の普通と自分の普通、あの国の普通とこの国の普通、あの宗教の普通とこの宗教の普通、文明や文化の違いがあるのは当然としつつも、それぞれが信じている普通が、時にはそんなつもりはなくても差別だと取られたり、正しいか間違いかの議論に発展してしまうとこれはもう収集が付かなくなります。

 人間って、答えのないことで言い争うのが好きなのでしょうか。必ず何かしらの答えを出さないと気が済まない習性なのでしょうか。

 会話の節々で「普通はこうだよね」「普通そんなことしないよね」と、やたらと普通というワードが際立っているように感じられます。

 あれ?人と人、国と国、宗教と宗教とで「それぞれが思っている普通」が違うのであれば、これもまた何かしらの争いや衝突のトリガーになり得るのではないでしょうか。

 今、外出する時、店に入る時、人と接する時には皆さんマスクを着けていますよね?

 あれ?

 あれれ~?

 おっかしいなぁ・・・。

 わかりやすいところで言うと、コンビニでマスク買う時に、見た目同じパッケージのマスクが隣同士で並んでいる時に、「サイズの違い」で分けられていることに気付きますよね。3種類のサイズだとこのように区別されています。

 「大きめ」「ふつう」「小さめ」と。

 あぁーれれぇ~????おかしくありませんか?ここで言う「サイズ的なふつう」って何を基準にしているのでしょう。身長?体重?顔の大きさ?頭部の外周の長さ??

 そう言えば、つい数週間前に、YouTuberで登録者数900万人を突破して素直に祝えないと言っていたヒカキンさんが、用途としては通常のマスクを着けた上から装着する、100万円の高級真珠マスクを購入していましたが、箱から出していざ装着を試みたところ、両耳に引っ掛けられないというハプニングが起きました。

 あの真珠マスクのサイズは、どのサイズだったのでしょう。大きめ?ふつう?小さめ?サイズ感も人に因る気がしますけれども、きっと真珠マスクはセレブな富裕層の女性をターゲットにした商品として考案され、製造されたものだということはわかります。

 ヒカキンさんみたいな人が映える見込みを計算して購入する場合、一番重要なサイズ感は購入前の説明でされなかったんだろうなと、なんとなくそういう印象を受けました。

 アパレルなんかだとサイズ区分はSS~XXLまで段階ごとに品揃えされていますね?ただしこれも、日本人基準とアメリカ基準とでは、同じMでもアメリカのMは2Lくらいのサイズになってしまいます。

 日本のkmとアメリカのマイルもそうですよね?距離を表す場合、日本で言う1kmとアメリカで言う1マイルとでは、600mくらい差がありますから、この単位相違については統一化するのではなく、言語のようにそれぞれの基準で計算し測れるようであれば、単位の違いなんて関係なくなります。

 いろんな部分で違って当たり前の社会なのに、違うということに加えて危ないからとか煩雑だからといった大した根拠もない状態で排除を決定するのはいささか危ない気もします。

 集団で群れることに慣れてしまうと、そのコミュニティーの外に散在し示される「あらゆる普通」がどんどん煩わしくなっていくのではないでしょうか。

 自分本位の普通基準で語る人の話は、聞くだけ聞いてあとは放置しましょう。ムキになっても決して良いことはありませんからね。ただ、自分の意思として「自分はこう考えている」「自分はこう思う」といった具合に、他者が吹っかけてくる同調圧力をかけられようともそのように自分の意思を示せるというだけで、あなたの個性として認知されるようになります。

 人それぞれって言う割には群れるのを好む日本人、そして同調圧力に屈して波風を立てまいとヒッソリと人と関わっているその姿は、全然、全く全然褒められたものではありません。互いの目的がはっきりしていて、利害関係で結ばれているのであれば問題ありませんけどね?

 自分だけが納得できればそれでいいみたいな「普通の濫用」は、言葉にして言われていなくとも、陰では嫌われる要因として見られているかもしれません。「へぇ~、それがお前の普通かよ」って、冷めた目で。

 自分の普通は相手の普通ではないし、相手の普通は自分の普通ではないのだから、無理に相手の普通を自分と結びつける必要もないんですよね。それをちゃんと認識していて言っているのかどうかも怪しいですよね。

 リアルタイムで蔓延中のアレの影響も相まって、以前の普通は普通ではなくなってきていますね。かつては普通だと思っていたことがそうではなくなっていく、僕らはガッツリとその過渡期を生きています。

 自分の当たり前を現在地としていろんな物事を見て、いろんな人と関わっていると、恐ろしいくらいに思考が時代に取り残されて言っているのを痛感させられることになります。何が当たり前で、何が普通なのかを、決して自分を基準に考えないことです。

 だからと言って、周りに合わせていればいいということでもありません。気付きは自ら拾い集めていくものです。答えはありませんからね。

※あ・・・また浮かんできた・・・(笑) #自分にとっての普通 :次はこれかな(笑)ホント便利な脳ミソじゃわい。

※では、Chapter5Part2もお楽しみに!(・∀・)

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