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鬼、愛情表現、意思の育成

 鬼滅の刃がなぜ爆発的な人気を集めたのかを具体的に知るために、もう数えきれないくらい何度も観ている。今回は、幾度となく観続けて気付いたこととして、愛情表現と意思の育成について書いていこうと思う。

 鬼滅の刃は、現在初回から劇場版の「無限列車編」、そして「遊郭編」まで全3部作がアマゾンPrimeビデオで公開されている。

 どうして幅広い年齢層に人気があるのか。まず一つ目に「鬼」について気付いたこと。

 これは私が小5の頃のこと。学校が終わって友達と二人で帰宅途中に立ち寄った駄菓子屋で初めて万引きをして、家に帰って即親にバレて叱られたことがある。無論、そういう結果に至ることを自覚してのこと。

 「万引きをしたら親はどんな怒り方をするのか」その検証のためだった。今思えば、その時盗んだガムは食べたかったわけではないし、どうでもよかったのだろう。

 小5にして私が自覚していたことの一つに、「帰宅するのに寄り道して時間をかけていると魔が差すことがある」というものがあった。なぜだかはわからないが、目的もなく人とつるんでだらだらと過ごしていると決していいことはないのだと考える子供だった。

 学校から家までの道のりは約4km。当時はもちろん徒歩で登下校していた。時間にして2時間ほどかかる。だから学校から帰るときはいつもまっすぐ家を目指してなるべく早く帰るようにしていた。

 山と田んぼしかない田舎のため、特別何があるわけでもない通学路。それでも、遊んでから帰るようなことはほとんどしなかった。

 2つ上に兄がいるのだが、小さい頃から何かと悪さをする落ち着かない人で、私が怒られる機会などほとんどないくらいに兄ばかりが怒られる日々。そこである時思い立ったのだ。「自分が悪さをしたらどんな怒り方をするのだろう」と。

 比較的、家計は不自由のない一般的な家庭のため、毎月お小遣いももらっていたし、何かしら不満があったわけではなかった私は、特に何か欲しいものがあるわけでもなかったため、もらったお小遣いはほとんど貯金箱行き。

 そのため、私の両親は心底不思議だったに違いない。お小遣いも与えてるし、服も買い与えているし、食事だって十分食わせている。なのに、なぜ万引きなんかしたのか、と。

 子供の心理とは理解しがたいことが多々あるのかもしれない。子供も子供で何でもかんでも親に正直に語るわけでもない。それでも親は自分の子供のことならなんでもわかるのだと豪語する。まずそれが気に入らなかったのはあるかもしれない。

 「なんで万引きなんかしたんだ!小遣いだったやってるだろうが!(ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!)」

 私が家に着くと風呂に入っていた父親から風呂桶で5回殴られた。そんなふうに問い詰められても私はダンマリを決め込んで何も言わずその場をやり過ごした。

 親からしたらまったく理解できないような行動に激怒したに違いない。でも私は知った。初めて露骨な悪さをしたけれども、自分に対しても兄にしているように怒るのだな、と。

 私が中学に入り、兄が高1の時、家出をした兄のことを母親から電話で連絡が入った出張中の父は東京から飛んで帰ってきた。帰宅するなり父は兄をボコボコに殴る蹴る。その光景を間近で見ていた私は、父が鬼に見えた。

 企業の社長や役員を相手に講師を務める父の仕事は、決して誰にでもできる仕事ではない。言葉で企業業績を伸ばしたり、新入社員教育について教える立場にあった父だが、家庭内ではよく兄が叩かれ蹴られしていた。

 我が子の悪さを叱るにしてはあまりに度が過ぎた行為であることを、当時の私は理解していた。どうしてそこまでするのかは理解に及ばなかった。言葉では何ともならないような悪さだったのか。もっと他に伝え方はなかったのか。

 家庭を持つ親の子に対する想いとはどんなものなのか、正直私はそのことを知らずに育つこととなった。

「親の気持ちを何だと思ってるんだ!」

 この言葉を何度も浴びせられたことを覚えている。それを言われる度に頭の中で反芻していたことは、「なんでもかんでも理屈で片付ける人の気持ちはわからない」ということだった。

 小腹が空いたか何かで父と買い物に行ったり、飲食店に入ったりするとよくあったのは、最初は何が食べたいかを聞かれるんだけれども、選んだら選んだで「こっちにしろ」と別の物を選ばせたり、別の物を注文させたりした。

 こういうことが何度も続くと、ある時から自分で選んでもどうせ・・・となる。こんな感じで、やりたいことや欲しいものを言わなくなった私は、親から与えられた小遣いの使い道を考えないようになっていった。必然的に貯まっていく貯金箱。もちろん、正月にもらうお年玉も毎年ひたすら貯まっていった。

 高校に入学する時、学校に向かうためのバス停まで家からバイクで通学することにした私は、当時のスズキの新車の原付バイクを、40万近く貯まっていた貯金で購入した。およそ15万円。

 父は私が貯め込んだお小遣いを目の前にして目をギョッと見開くように驚いていた。小学校から高校に入るまで毎月貯めたお小遣いとお年玉。我ながらよく貯めたと思っている。でも、父は驚く一方、別の感情も抱いていたに違いない。

 「自分で貯めたお小遣いなのだから好きにしろ」と言いつつも、表情ではそうは言っていなかった。どうしてこれまで自分の好きなことにお小遣いを使わなかったのかということについては、「お前は物事に無関心だな」と父が私に言い続けてきたことに起因していることを、父は気付いてはいないだろう。

 仮に、漫画やお菓子など、自分の欲しいものを買ったとしても、「そんなくだらないものを買ってどうするんだ。無駄遣いするな。」と言われるのが落ちだろうと、ひねくれた考え方をするようになっていた。

 親としては、与えた小遣いを子供が何に、どんなことに使うのかを知りたかったはずなのに、事あるごとに選んだものを却下して別の物を選ばせるようなことが続いた結果、自分の子供が小遣いを使わなくなったという事実を認めざるを得なくなった。

 もちろん、母親と買い物に行くでも、アレ欲しいコレ買ってと駄々をこねることはなく、ダメと言われてヤダヤダと地団太を踏むようなうるさい子供でもなかった。どうせ言っても・・・と考えていたからだ。

 そんな子供を、親はきっと可愛いとは思わなかっただろう。でも、どうしてそうなったのかを知ろうとはしなかった。謂わば現代でも問題視されている親子間のコミュニケーション不足。

 それでも、今でも私の両親は十分な家族団らんの時間はあったと言うだろう。でも、あれは家族団らんなどではなく、父親が饒舌に、一方的にいろんなことについて理屈で語る時間だった。

 おそらく、仕事柄、理屈で物事を考える癖が身についていたのだろう。それゆえに、子供の前で父親として語る時も、常に理屈で語ることが当たり前になっていた。

 子供は、親から何かにつけ理屈で処理されることを心底嫌う。小学生の頃は、自分の親が何を話しているのかわからないまま話を聞いていた。それが一概に悪いとは言わないけれども、子供の気持ちや想いを受け止める姿勢というのが必要なのではないかと思う。

 中学に入学した当時、一度だけ言ってみたこと。

「野球部に入りたい」

 これに対して父が私に言ったことは、「そんなもんやっても飯食っていけねーぞ。勉強しろ。」と。

 そういう親はたくさんいる。そのうちの一例が自分の家庭だった。

 アニメ「ハイキュー」も何度も観るアニメの一つ。これを観ていて気付いたことは、小さい頃からやりたいことに没頭できることがあるというのは、その人の人生を長く支えてくれる力強い記憶となる、ということ。

 また、体力面の育成だけではなく、チームメイトとのコミュニケーションや、共に苦難を乗り越えるという体験、楽しさや嬉しさを共有する仲間たちの存在の有難み、そういうものを社会に出るまでにどれだけ経験したかで、人は社会に出てからも強く生きていけるようになる。

 私が3歳になるかならないかの頃、父が長男ということで実家のある田舎に移り住んだことがすべての始まりだろうと思うけれども、決してそれを理由に産まれを悔いたことはない。

 もっとやりたいことをやりたかったという思いは、今も根強く残っている。両投げできるようになったことも、野球をやらせてもらえなかったことで不意になったけれども、野球関連のアニメを観る度に思い出す。夏の甲子園なんかもうらやましくも思う。

 実家を離れて都度思い知らされるのは、経験不足。活力が湧かない。20年も実家に帰っていないのは、あの田舎に帰る理由がないからだ。

 どんなアニメでもドラマでも映画でも、苦しい時を乗り越えたら抱きしめるシーンがある。何度思い返してみても、自分の親や兄弟とそんなことが一度でもあっただろうかというほど、抱きしめてもらったことがない。

 家族の愛情を、きっと私の両親は誤認していたのかもしれない。「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ!!」と怒鳴られる度に、感謝する気が失せる。家族を養うとはどういうことなのか。個人的に見つけた気づきは、「抱きしめることのできる関係性を維持すること」。

 お世辞にもうちにはそのような習慣はなかった。だから、愛されているのかどうかもわからなかった。子供は抱きしめてもらえるだけで心を開くもの。

 それが、言葉だけで理屈を並べ立てられても気持ちのやり取りや体温を感じ取ることなんてできないでしょう。

 抱きしめるなんて、すごく単純で大事なことだけど、それができていない家庭はすべからく疎遠になるんじゃないかね。それでいて、言葉面で親の気持ちを考えろなんて言ってほしくない。

 言葉で片付けようとし過ぎなんだよ。

 親の思想で子を染めるというのは非常に罪深い行為。進撃の巨人を何度も観てほしいな。私は空手なんか少しもしたくなかった。それこそ、精神論では何とでも言えるけれども実社会ではほとんど役に立たない。

 今このご時世、精神論や理屈でなんとかなるのか、答えてみてもらいたい。よく、子供に習い事を強いる親がいるけれども、本当に子が望んでやっていることなのか、本当に子が望んで続けたいと思っているのか、ちゃんと気持ちを共有できているか、話し合っているのかな。

 子が望まないことを無理やりやらせ続けると、ほぼ間違いなくその子供はひねくれて育つ。進撃の巨人で、ジークが幼少期に感じていた親の思想に対する憎悪に対して、父であるグリシャ・イエーガーが「もっと一緒に遊んでやればよかった。済まなかった。」と涙ながらに謝っているシーンがある。

 過ぎたことは仕方ないにしても、父には、グリシャのように過去を悔いて謝るくらいの人であってほしい。家庭内にストレスをまき散らすのが日常だったことを忘れたなんて言わせない。そういう家庭環境では親からの愛情なんて伝わってくるはずもない。

 兄が悪さを繰り返したことと父が兄に殴る蹴るの暴行を加えたこと、どちらが先かという話も、今更したって意味がないけれども、子が悪さをするにはその前段階に何かしらの要因が揃ってないとそんなことはしないんだよ。

 子が悪さばかりするのをその子のせいにして強引に謝らせたり、殴ったりなんてことを繰り返してまともに育つわけがない。

 我を見失うくらいなら、家庭なんて持つな。子など授かるな。その家庭に産まれた子はどうしようもない。母のお腹の中にいる間に感じ続けたストレスのおかげだろう、生まれながらに口唇口蓋裂だったのも。

 父は口々に「親は子を選べない」と言っていたけれども、自分の育て方を棚上げしてそんなふうに言うのは卑怯ではないかね。いい加減、間違いを認めてほしい。その言葉は、子を授かったことへの後悔以外の何物でもない。

 これから子育てをするすべての親世代に対して願うのは、自分の子供の意思を親が代替するのではなく、その都度尊重してあげてほしいということ。なぜなら、本人が心の底から望んでやり始めたことというのは、その人が心を燃やすきっかけであり、心の燃やし方を学ぶ機会となるからだ。

 自分の子供がひねくれて育ったなら、それは親の責任だ。抱きしめることもせず放置する割に都合の悪いことはコントロールして親のエゴで処理するみたいことを続けていて、まっとうな人間が育つはずがない。

 これが大人になった私が至った真実だ。子を授かるには家庭における経験がなさすぎる。だから初めからそのつもりはなく生きてきた。

 そのことに対して私の両親は何を思い、何を語るだろうか。

 親としての責任を果たすことと愛情を注いで子を育てることとは意味が違うし、どちらか片方が欠けてもいけない。抱きしめることを怠るな。その上で親としての責任を果たすことができれば、ずっと自分の子供は両親を愛してくれる。

 なんでもかんでも親のエゴから出る言葉だけで子を納得させようとするな。そういうのを手抜きって言うんだ。

 子供が悪さをするからって殴ったり蹴ったりするな。そこに至った原因を見つめなおせ。それができないなら親なんて辞めてしまえ。

 間違いを認められない親なんて百害あって一利なし。そういうのを毒親って言うんだ。

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