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◆「価値観の押し付け」という言葉の本質は「正義」だった
今までいろんな人が言っているのを見聞きしてきたこの言葉。
「価値観の押し付けは良くない」
「価値観を押し付けないでください」
ずっと考え続けた結果、私が導き出した「価値観の押し付け」の本質、それが「正義」だったのだ。
結論を言うと、「争いを拒む人」「争いを避ける人」は、相手が振りかざす正義に対して嫌悪して「価値観を押し付けられた」と感じるということ。それは、相手の言っていることややっていることが正しいと思っていてもそうとは認めずにそのような言い回しをして、とにかく相手との言い合いや口喧嘩を回避したいという心理から出る言葉。
大半の人が正論だと思うようなことでも、頑としてそれを認めようとせず、中身のない暴言を吐き捨てて逃げていくようなイメージ。相手から正論で捲し立てられると言い返す言葉がなくなって最後に出る言葉、それが「価値観を押し付けるな」。言い返せるのならこの言葉は出ないはずなんだよね。
ずっとね、どういう意味合いで、どんな時にそのフレーズを言いたくなるんだろうって疑問でね、いろんな場所で「価値観を押し付けるな」と言っている人の感情・心情、その時の状況やら文脈を観察してきたんだけど、おそらくはそういうことなんだろうなという一定の解を得られたと思う。
相手に正義があって、自分にも正義がある。双方が相対する時、相手の正義は自分にとっては正義ではなく、その逆もまた然り。同じ正義という二文字も、互いに信じていることが違うというだけで対立軸が成り立つ。
◆人の数だけ価値観があるのと同じように、人の数だけ正義が存在する
先日、日本の国会で強行採決されたLGBT法案については絶賛物議を醸している最中だけれども、トランスジェンダーや性的障がいなどを総称して言われる性的マイノリティ(少数派)への理解増進のために法制化されたLGBT法。
これは、社会の仕組みを大きく変える可能性を持つ重大な決定だと言える。なぜなら、社会全体を見渡せば、〇〇マイノリティという括り方をすれば無数に存在するはずで、人の数だけあるのもまた〇〇マイノリティだと言っても過言ではないからだ。
「考え方は人それぞれ」って口々に言いたがる人がいるでしょう?私から言わせればそんな当たり前のことをわざわざ言葉にして言う意味はない。何の説得力もないその言葉を、議論しているところに口を挟んで話の腰を折るためだけのもの。これは、「価値観の押し付け」に極めて近い言い回しでもあると思う。
では、口喧嘩や議論には意味がないのか、というとそういう話でもない。なんで世の中これほど加速的に時代が変化しても「争い」がなくならないのかというと、人の数だけ正義があって、理解できないこと、納得できないこと、許せないことが起こると、人間というのは自らが胸の内に宿す正義を振りかざしたくなる、そういう生き物なのだということが、誰もが手にするようになった端末から、SNSを介して個人も企業も含め発信過多社会に急加速的に向かったことで証明された、と言える。
でも、昨今問題視される炎上騒動では、批判される渦中の人物だけではなく、ネット上で多くのユーザーが火に油を注ぐように批判・暴言・罵詈雑言・誹謗中傷をする行為も同様に問題であると社会が気付き始めたよね。
寿司ペロ炎上騒動を例に挙げればわかりやすい。迷惑動画をアップロードした瞬間から一気にネット上は荒れに荒れて、問題を起こした少年たちと迷惑を被った企業との間で裁判沙汰となり、それを見聞きしたネットユーザーは好き放題にあちこちの掲示板やSNSで集団投石を始めたわけだが、これぞまさに「価値観の押し付け」であり、「考え方は人それぞれ」が前提で起こっていることで、いろんな人たちがそれぞれの「正義」の下に言い争いをしている。
もし、寿司ペロ騒動を起こしたご立派様である少年が闇バイトで雇われてやったことならば、被害を受けた企業の株価を下げるべく、闇バイトの首謀者がいくらかのバイト代を少年に支払っている可能性は十分にある。
ではここで、「正義の所在」を確認してみることにする。まずは被害を受けた回転寿司店の運営会社は会社としての正義の下に少年に対して損害賠償請求をするべく裁判を起こした。この騒動を見聞きした多くのネットユーザーそれぞれも正義の下に批判をしている。そして、この事件を捜査する警察はもちろん、当該裁判関係者である検察官、弁護士、裁判長、証人なども正義の下に事後処理を行っている。
ん?何か一部抜け落ちているようだね。そうそう、問題の少年に寿司ペロ行為をさせた可能性のある闇バイトの首謀者はどうなのかというと、やはりその人物にも正義があると言える。言っていることがおかしいと思った人はこの続きを読んで欲しい。
◆犯罪者にも正義は宿る
まず先にその意味を説明するとだね、「正義そのものに善も悪もない」ということ。正義を「正しいと思ったこと」に言い換えるとわかりやすいかもしれない。
これはこの世の全ての集団組織において共通して言えることだと私は考えている。最近の犯罪グループというのは、報道で知る限りでもよく内部統制がされていて、公共機関とか民間企業の内部構成と非常に似通っていて、役割ごとに名称が決められていたりする。
法治国家である日本において、詐欺グループは反社会的勢力であり、摘発して壊滅しなければならず、加担した者たちは片っ端から法の裁きを受けなければならない、というのが司法上の大義。
でも、人の数だけ正義は存在する。仮にそれが犯罪者であろうと、その人物が信じる正義の下に罪を犯す。「そんなものは正義じゃない」と思う人も大勢いるかもしれないけれども、そう思うのもまた正義だったりする。
昨年7月8日、応援演説中に銃殺された故・安倍晋三元首相。現在起訴されて裁判中の山上被告にも正義は宿っていたと考えるのが妥当だろう。法律上は重罪として扱われるとわかっていてもこうした暴挙に出たのは、山上被告本人に正義があったからにほかならない。
理解できない、納得できない、許せない、そうした様々な感情も、個人の強い正義と化学反応を起こすと、人はなんだってできてしまうのかもしれない。いつの時代も、人が何者かによって血を流し、命を落とす時、そこには必ず正義が存在する。
未だに終わりの見えないロシアによるウクライナ侵攻にも同様のことが言える。カホフカダムを破壊したのはロシア軍本体なのか、別働の義勇軍なのかは定かではないにしても、甚大な被害を被っているのはウクライナ国民であり、多くの死傷者が出ているのが現状。
この戦争に限らず、過去の全ての戦争・紛争は、正義のぶつけ合いであり、これによって多くの犠牲を払ってきている。
ロシアが正しいのか、ウクライナが正しいのか、どの情報がどちらの軍のプロパガンダなのか、そうしたことが毎日のように報道で議論されていたりするけれども、そんなことを訝ってもなんの意味もない。
プーチン大統領にもゼレンスキー大統領にもそれぞれに正義があるものだから、この戦争を止める術を持たないまま、諸外国はウクライナ支援のために人道支援、武器弾薬・軍用マテリアルや食糧品や日用品などを行うに留まっている。
正義の下に戦うと、想像を絶する犠牲を払うことになる。そのことがわかっていても、人は戦うことからは逃れられない。どうしてなのか。
◆「正義」と「野望」の化学反応は核兵器にも勝る武力と化す
正義のぶつけ合いだけでも争いは絶えず起こり続けているというのに、これに「野望」が掛け合わさると、言葉の通じない、制御不能の武力になり、長引けば長引くほど核兵器にも勝るものになる。
どうして人は争いから逃れられないのかというと、領域の線引き、つまり国境があるからであって、国単位での正義が成立すると、今現在のように国家間での大規模な戦争も当然のように起こる可能性を永続的に潜在させることになる。おそらくはそれが最大の要因だろうと思う。
謂わば、独裁国家の掲げる正義はただそれだけで脅威であるということ。これを無に帰すことができるのは、ロシア軍による核兵器の使用を確認したその瞬間から起こる大惨事くらいしかないのかもしれない。
もし、ロシアもウクライナも、戦うために一度振りかざした正義を収めて歩み寄り、対話によって終戦に至ることができるなら、それが一番の平和的解決になるかもしれないけれども、国家の掲げる正義はよほどの理由がない以上、これを引っ込めることはあり得ない。
正義の下にウクライナ支援を続ける国々は、残念ながらこの戦争が終わることを願いはしつつも、止める気などなく、延々と支援を繰り返し戦争の長期化を助長してしまっている。
この期に及んでロシアが悪い、プーチンは戦争犯罪者だ、といくら嘆いたところで、もはやそういう次元の話ではなくなっていて、ロシア軍の武力弱体化を待っているうちに一年以上が経過したという状態。プーチン大統領の野望がある限り、この戦争は終わらない。人類史上最悪の老害、これでも全然足りないくらいの極悪非道なウクライナ侵攻の先に、彼はどんな未来を見ているのだろうか。
◆地球文明の進化が遅れていると言われる所以は、人に宿る正義が原因なのかもしれない
争っている場合じゃない、文明を進化させて人間社会をより豊かにしていかなくてはならない。そういう意味の正義を全世界共通のものに出来たならば、国境など要らなくなるし、争うことなく文明発展に特化できる未来も描けるのではないか。
と言ってはみたものの、人類史に起きたことをいつまでも忘れまいとする、これまた人間ならではの歴史観念は、現代に生きる人々に宿る正義に大いに関係しているものと推察できる。
極端な話、争う必要もなくなる世界の創造さえできればいいということで、人が生きていく上で最低限必要な全てのことが完全に保障されたならば、きっと武器を保有する意味もなくなるかもしれない。
カネのために罪を犯す人たちも、最低限の生活を保障されていれば、不安もなく、好きなこと、やりたいことに熱中して、幸せな日々を過ごせたかもしれない。
社会全体を見渡すと、どうも国家というのは人が犯す罪を許容して成り立っているようにも見て取れる。犯罪を許しているわけではなく、法規制はされているわけだけれども、警察は警察で、犯罪行為をする(元は善良な)人たちを検挙して点数稼ぎをしている。まったく犯罪が起きなくなった社会では警察もお役御免となってしまう。
ところが、そんな心配などせずとも、時代の変化と共に犯罪も巧妙化してきて、警察の捜査技術とのいたちごっこを延々と繰り返している。まるで例の国家間の戦争のように。批判されるかもしれないが、毎年のように犯罪者を生み出しているのも、彼らによって傷付いたり命を落としたりする被害者や犠牲者を生み出しているのも、元を正せば国家の責任であると言える。
犯罪者を検挙するための正義など謂わば後付けのもので、事が起こる前に防いでこそ本来の正義は担保されるのではなかろうか。これをAI技術でどこまで実現できるのかが今後試されることになるのだろうけれども、結局のところ、人間にできることには限界があるということなのかもしれない。
◆最後に
さて、今回テーマにした「正義」に対する言論についてだが、私個人としては、人は安易に正義を振りかざすべきではない、と思っている。自分が正しいと信じた上での行いでも、予期せぬ事態を引き起こしかねない危うさを含んでいるのが正義であり、諸刃の剣でしかない、と。
これからの時代、AIの探知精度が向上すれば、炎上騒動に加担して発信された事実無根の批判・過度の暴言・罵詈雑言・誹謗中傷をしたアカウントの所有者は、悉く秒でピックアップされ、裁判沙汰になった際の有力な証拠として扱われる可能性を高めていくものと考えられる。
かつては軽い気持ちで炎上騒動に加担したことのある人たちも、今からでもネットの利用態度を改めておくに越したことはない。どんな結末に至ったとしても、それこそ自分の行いを悔いるしかなくなる。
正義を振りかざすことのリスク、それは演じる上でも同様のリスクとなり得る。だからこそ、立場を前提にした正義というものは、振りかざせば必ず敵を作るし、増やすことになる。そのことだけは生涯忘れないようにしておきたいものだ。
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