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【職場改善note有料マガジン】No.0012・・・発言力、表現力、説得力の3つの力をここぞという時に活かせる人間が組織には必要だ!

【1】力の扱い方を誤認している人間は必要とすべき力の存在に気付いていない

 どんなに権力を持つ人間でも、正しい扱い方を知らなければ組織はまとまりに欠け、目標達成などできるはずもない。 部下たちのモチベーションが下がっているのがわかっていても何も手を打たないまま放置していれば、人離れが起きても当然の結果だろう。 ただ、部下も部下だとボクは言いたい。 結局同じなんだよね、まとまりのない組織の上司も部下も。 彼らがどんなに数字に強い人材で、どんなに高い技術を持ち、どんなに多くの資格を持っていても、それら全ての力を最大限に発揮するためにはどうしても【言葉の力】が必要なんだ。

 統率力のある組織は、そのことをよく理解していると思う。 一方、統率力に欠け、問題に追われている組織は、言葉の力を蔑ろにしていたり、軽視していたりする。 ボクは思うんだ。 「どうして本を読まないのか」と。 しかしボクは極端なことを言うつもりはない。 本に書いてあることが全て正しく、全て有効な知識であるとは思っていない。 でもね、1つ確実なことが言えるんだ。 それは「会話と読書の時間的価値には明らかな差がある」ということ。 もちろん、ここで言う会話は、「職場での会話」だ。

【2】派遣社員のボクが感じていること

 マンネリってのは本当に懼れるべき悪習だなと思う。 普段職場の皆さんが誰とどんな話をしているかまで詮索するつまりは、いやいや、毛頭ない! そもそも興味がない! 申し訳ないけれど、仕事の時くらい仕事のことを真剣に話したらどうかね?って思ってるから、休憩中だろうと仕事中だろうと、どうでもいい話題に関して話がしたいのであれば、ボクは心底お断り申し上げたい。 職場はふれあいの場ではないのよっ!!なーんて言ってしまったら、一気に場の空気が凍り付くだろうなーと思うけど、言ったところで何がどうなるわけでもないからボクはボクで別ルートから働きかけていこうかと思っている。

 派遣先企業の派遣社員であるボクは、派遣会社の正社員でもあるわけだが、派遣先企業で働いていて実に多くのことを感じさせられる。 ボクが良く話す社員の人は数が限られているけれども、ボクよりも何歳か若い男性だ。 そして、つい最近、少し勇気を出してとある部署の係長へも発信活動を展開し始めたところ。 基本的には思ったことや気付いたことを小出しに発信し、もうそろそろ明確な案を提示していこうかと思っている。 一方、雇い主である派遣会社に対しても、毎月の報告書提出に合わせて全く別の提案をしている。 ボクは目の前の仕事だけやっていればいいなんてコレっぽっちも思っていない。 良かったと思えるのはその点かな。 最低限で満足するような人間ではないって、自分で思えていること。

 それでもね、自分独りで何かができるなんていう慢心はない。 それこそ、ボクには目に見える評価対象となる実績も資格も肩書もゼロに等しい。 所属している会社の「キャリアアップ制度」が、ボク自身まるで蚊帳の外のような響きでね。 でも、「んま、いっか♬」って感じ(笑)

 うん、確かに、「一つの事に詳しい」「専門的な知識を有している」「資格を取得している」「実績がある」というのは人材としての強みかもしれない。 それを生業にしておられる方々は大勢いらっしゃることだろうと思うんだけど、それはボクの生き様にはそぐわないなと感じるんだよね。 なぜかって、言葉の力に気付かされたからさ。 餅は餅屋。 サッカー選手に野球のバットを持たせても飛んできた球は打てないということさ。 二足の草鞋を履いて大成できるほど仕事とは簡単なことではないという意味ね。

【3】「自己肯定感」の本質的な意味とは?

 ボクの人生は何一つとして極めたものはなく、いろんな経験をしてきたとは言え、どれも中途半端。 他者からの評価で言えば、賞賛には値しない生き方だと自分の過去を振り返って思う。 これは率直な自己評価だ。 でもね、これはこれでなかなか面白い人生だなとも評価している。 決して高くはない自己評価ではあるものの、確実にいくつもの経験が今の自分に繋がっていることをボクは自分で評価したい。

 昨今、「自己肯定感」という言葉の意味を知る人たちが、このネット上に増えてきていることを感じさせられます。 改めてその意味をここに記します。

【自己肯定感】Wikipediaより抜粋
自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感自己効力感(英語: self-efficacy)と同じ意味あいで用いられる。
 「自己肯定感」という言葉は1994年に高垣忠一郎によって提唱された。高垣は自身の子どもを対象にしたカウンセリングの体験から、当時、没個性化が生じていた子どもの状態を説明する用語として「自己肯定感」を用いている。
 その後、日本の子どもの自己評価がアメリカ合衆国、中華人民共和国、大韓民国の子どもの自己評価に比べて有意に低いことが日本青少年研究所の調査報告などで指摘されるようになり、日本の教育現場において「自己肯定感」が注目されるようになった
 自己肯定感が提唱されてから年月が経ち人々に広まり多様な解釈がなされるようになった。「自己効力感」「自己有用感」「自己効用感」などが「自己肯定感」として語られる事があるが、このような語られ方をするだけでは不十分だと考える、と高垣は述べている。
 教育再生実行会議による第十次提言では、「自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓く子供を育む教育の実現に向けた、学校、家庭、地域の教育力の向上」が掲げられている。

 さて、いかがか。 自己肯定感という言葉に対するこれまでの認識は、上記に示した意味と比較し、どれほどギャップがあるだろうか。 もう一度、最も重要なフレーズにフォーカスしよう。 「自己肯定感を高め・・・未来を切り拓く子供をはぐくむ教育の実現」と書いてある。 つまり、自己肯定感は何のための感情なのかを意味しているわけだが、この認識が皆さんにあっただろうか。 言葉の意味とは実に奥が深い。

 いや、確かに自尊心とほとんど同等の意味を持つ自己肯定感ではあるが、この言葉の意味には「目的」が添えられている。 自らの在り方を積極的に評価し、自らの存在意義を肯定できる感情を持つことは、目的として「未来を切り拓くものである」というのが自己肯定感の本質的な意味なのだ。 言葉はいろんな捉え方をされるものではあるが、本質的な意味は一つしかない。 それを個人が自分の思うとおりに解釈することもできるのが言葉なのだということだ。

 専門知識はそれを欲する者が学ぶべきものであって、それほど求めていない者が学べば知識は正しく扱われない場合もある。 資格も同様。 「資格を取れ、資格を取れ」そう言われて取得する資格は、適正には活かされないように思う。 資格そのものにこだわるよりも、その分野を学ぶという主旨であるならば大いに価値があると思う。 

【4】言葉の力を欲するのに資格は必要か?!

 ではここで、タイトルにある「発言力」「表現力」「説得力」について触れてみたい。 この3つの力に何かこう、専門知識や資格のようなものは必要だろうか。 必要ないよね? 共通して言えるのは、どれも根底には「語彙力」があってこその力。 語彙力のある人というのは同時に論理的思考にも長けているように思う。 じゃあ、その語彙力ってどうすれば身に付くものなんだろうね? ボクはね、今までいろんな仕事を試しに経験してきたけども、コレと決断できるほどの天職には巡り合えなかったんだよね。 接客業も営業も適性はあったなと思うけど、接客相応の姿勢と言葉遣いができればそれほど難しいものではなかった。

 「これが仕事なのか?」と思うような仕事もやった。 心から楽しいと思えたことは正直一度もなかった。 自分にとって仕事ってなんだろうなって。 出世欲がまったくなかったわけではないけれども、出世した挙句に生きた心地のしない日々の中で、ある日突然とんでもない失態をしてしまい、身の丈以上の給料と業務上の責任の重さに耐えかねたこともあった。 お金のために働くような仕事というのは、少なくともボクにとっては心底つまらないものだというふうにしか感じられず、うーん・・・うーん・・・というモヤモヤした感じで今まで生きてきた。

 そんな心境で資格を取れと言われても身が入らない。 だったら、自分がもっとも意識を惹かれる「言葉」の精度を高めていき、その力を活かせるようになろうと思うようになったんだ。 活かせるようになるといっても、ボクがこの先の人生でどんな機会に恵まれるのか、それはわからない。 チャンスというのは何もせずに黙って待っていても掴めるものではないし、仮に掴んだとしても最大限に活かすことはできないものだと思う。 ボクがやるべきことは何か、それをずっと考えてきた結果、今の職場で働くようになったおかげで気付かされた気がする。 というのも、職場に言葉の効果が浸透していないと感じてきたものでね。 やること、やるべきこと、やりたいこと、そういうのが徐々に見え始めてきている。

 現段階ではまだまだ全然足りない。 語彙力も、知識の幅も、自分を試す機会も、何もかも。 ただ、足りないからこそこうして文章を書き、本を読むんだ。 ほとんど洗脳に近いレベルで、何かに掻き立てられるように、ボクは毎日毎日「言葉」をインプットし、アウトプットしている。 人生成るように成ると言われるが、成せば成るとも言われる。 ここでまた「成す」とはどういう意味かを考える。 言葉は常にどんなときも数珠繋ぎで思考が止まることがない。 この力を鍛えない手はない、ボクはそう思う。 これを鍛えに鍛えた結果、それでも資格が必要になるのであればいよいよ勉強することになるのかもしれないが、今のボクには時期尚早で、どんな資格を取ろうかを考えることは今やるべきことではない。

【5】どんな資格も特別な能力も言葉の力を無視しては最大限に活かすことのできない「単なる飾り」と化す

 言葉の持つ力を高めた結果、できることは一気に増えていく。 なぜそこまで断言できるかと言えば、この世の中は(自然と偶然と奇跡を除けば)全て言葉によって成り立っており、人々は言葉によって関わっていて、人が考える時も、感情が動く時も、常に言葉の存在がそばにあるからだ。 ボクはこれを【資格社会の盲点】だと提言したい。 数字やデータをどれだけ集めたとしても、それを分析し、具体的に説明するにしても、言葉の力が足りなければ伝えたいことも伝えられないし、解決したい問題あり、そのために他者の協力を仰いでチームを組んでも、人を動かすことのできる言葉の力を発揮できなければ、真の問題解決は難しい。

 4番打者級のプレイヤー9人集めて野球のチームを作ったとしても試合に勝てないかつての読売巨人のような状態は、言葉の力という存在を盲点に置いていたのかもしれない。 資格を持った優秀な人材の集団組織でも、職場のあらゆる問題を根本的に解決するに至らないのはなぜか。 これは、現代社会で働く全ての人々と企業が真っ向から真剣に向き合わなければならないテーマではないかとボクは思っている。 もはや理系か文系かなんて関係ない。 誰もが日々遣っている言葉の扱い方とその力の効果に気付かない限り、どんな資格もどんな技術もどんなノウハウも宙に浮く。 

 この状況は、今のボクにとってさえもチャンスだと思える。 そして、このことを、毎日のように愚痴ばかりこぼしていた2つ下の男性社員に延々と語り続けてきた結果、ついに彼が自ら本を手に取り、購入し、読むようになった。 愚痴や文句が絶えないということは、それだけ仕事のことを考えているということ。 少し方向性を修正すれば、彼は学びの重要性に気付くことができ、活かすことができる。 そういう人間だと判断したから読書の大切さと言葉の力の絶大さを伝え続けてきたんだ。 その甲斐があったかどうかは、今後本人が自ら感じることになるだろうと思う。 そして同時に、ボクが今の職場にひょっこりやってきた甲斐も生まれるだろうと期待している。

 ボクはこの小さな個人的な取り組みを、徐々に拡大していこうと考えている。 これは・・・出来るな・・・と感じている。 資格のない派遣社員がどこまで尽力できるのか、これは試す価値がある。 バカにされたり笑われたり無視されたりってことにはもう動じることはない。 ただひたすら発信活動を続けていくことで、種は芽吹き、花を咲かせ、実を付けるだろう。 言葉は種。 発信活動は種撒き。 そして、変化は実り。 ボクは自分の発信活動をこんな感じで位置付けている。 カッコイイだろ?(・∀・)あはっ♬

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