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【#幸福の尺度】積み上げたものは崩れるか、いずれ消え去る。

所詮、この世の全ては有限。

積み上げ続ければどう、ということもない。

より多くを手に入れればどう、ということもない。

より高いところに立てばどう、ということもない。

一生のうちに遭遇できる幸福の回数は2、3あればいいほう。

その長さも気付けば当の昔に過ぎ去っているというほどに短い。

他人の幸せを喜ぶ人間もいるかもしれない。

しかし多くは他人の幸せを妬む。

時には他人の幸せを憎み傷付ける者も現れる。

自分から見た他人の幸せを何を基準に測るのか。

「アイツはオレよりも幸せそうだ。よし、傷付けてやろう・・・。」

そういう思考回路はどんな人生を生きてできたものなのか。

「幸せになりたい・・・幸せになりたい・・・」

そんなふうに望んでいるうちは幸せに気付くことは難しいだろう。

幸せの尺度など本来存在しない。

「幸せだなー」

そう思える瞬間があればあるに超したことはない。

幸せは追えば遠ざかる。

それが基本的な性質なのかもしれない。

他人を見て幸せそうに見える時の測りは常に杓子定規。

むしろ、一生懸命に幸せアピールをしている人ほど実際には言うほどそうではなかったりするもの。

小田急無差別殺人未遂事件を起こした犯人は、そもそも何かが欠けていたのかもしれない。

大体、このご時世で「自分だけが幸福であること」に一体どれだけの価値があるというのか。

幸福のもう一つの性質としては、そう感じられる時には隣に大切な人の存在がある場合に偏るということ。

とは言え、一人で生活している人たちが不幸ということでもない。

一人で生活すること、これを単に孤独として不幸なことだと思い込むのも違う。

例え一人の時間を過ごすことに慣れている人たちでも、ちゃんと自身が感じられる幸福というのは案外足元に転がっているもの。

独身生活は現代の生き方の一つであり、それが可能になったと解釈することもできなくはない。

ただ、それ自体が誰にとっても良いこととは限らない。

一人で生活することに不満を感じていたり悩んだりしている人も少なくはないだろう。

人間は、不足を感じれば感じるほど、その不足を補おうとしてあれこれと求めてしまいがち。

今自分が求めていることがどういうことなのかを具体的に理解できているのなら、求めすぎることもなかろう。

しかし、不足を感じていつつも、自身が求めていることがどういうことなのかを理解していない場合、求めていないことまでも追いかけてしまうことがある。

人間が衝動的に動く時というのは、そこに明確な理由が存在することはほとんどない。

衝動的な行動というのは得てしてそういうもの。

生き方の再定義をするのなら、これからは「求めないこと」を明確にしておくこと。

それができれば、実はそれほど欲していなかったということに気付く機会を得ることにも繋がる。

昭和を生きた人、平成を生きた人、これから令和を生きていく人、それぞれ求めるものが違って当たり前。

国が豊かになり、社会が発展するということには何年も何十年も歳月を要するものの、結果的にはあらゆる分野で飽和し、人々は飽きる。

元を正せば、人間は本来飽きる生き物だからこそ、文明や技術が発達してきたとも言える。

スポーツもいよいよ飽和しかかっている。

野球もサッカーもデータで技術が磨かれていき、選手の評価も全てデータで分析されている。

ゲームの進行状況や戦術もデータで解析されている。

投手がどの選手にどの球種を何%の確率でストライクゾーンのどこに投げるか、といったこともそれまでの試合で蓄積されたデータで解析されている。

メジャーリーグなんかは特に、互いのチームがデータを戦わせているようなもの。

人間が限界に挑み続けてきたこと自体には意義はあっただろう。

しかしそれも飽和しつつある。

これ以上、人間がどれだけ早く走ろうと、どれだけ重いものを持ち上げようと、どれだけモノを遠くに投げようと、どれだけ高いところを飛び越えようと、限界突破そのものはいつか必ず飽和する。

あの時代に生きていたあの選手が現代に生きていれば記録に変化が生じるかもしれない、といったことも実現すれば十分にあり得る。

今生きている人たちが競い合って達せられた記録は、動物と人間の融合胚から生まれたキメラ生体なら難なく突破するかもしれない。

人間を凌駕する存在を人間が生み出したのだから、今後、人工知能に計算で勝つことは未来永劫ないだろう。

人工知能に何かしらで勝利したとして、どうということもない。

オセロや将棋なんかの対戦も、人工知能には勝てなくなる。

人工知能の戦術を学んだ人間が、他の人間との対戦でほとんど負けることがなくなったというのが藤井棋士だったりするわけで、それはそれですごいことだけれども、その上を行くにはやはりこれに近い学習がまず求められる。

何者かでなければならないという錯覚は、昭和に生まれた人間たちの思い込みに過ぎない。

便利になりすぎた現代社会では、ちょっとやそっと何かができる程度のことは他にも大勢の人たちもできたりする。

知っているか知らないかで言えば特にそう。

暗記に意味がなくなった現代で、知っていることそのものには何の価値も持たなくなった。

結局、自分で考えられない人間を大量生産するに至ってしまったことは、社会にとってはマイナスに働くことを増やしたのかもしれない。

ナイフを持って暴れている人間が毎日どこかに存在する、というのが日常だとする。

身を守るために、そういう人間からは距離を置いたり、遭遇しないための工夫をしたりして巻き込まれないようにする。

言葉も同じで、人を傷つけるような言葉を言う人間と対峙して傷付くくらいなら、関わらないという選択をすればいいだけのこと。

なのに、現代社会は、失言をした人間に批判する文化が根付いている。

当事者でなくても、相手が言っていることが間違っているとなると一斉に取り囲んで吊るし上げて叩きまくる、そういう文化が根付いている。

そんなふうにしてしかストレスを発散できない人が幸せを感じられるようになるためには、変えなければいけない習慣がいくつもある。

あまりにも時間を無駄にし過ぎて幸せが逃げていく、そういう生き方に後悔をする人もきっと少なくはないだろう。

今、自身が関わっている人たちが本当に自分の人生にプラスに作用しているのかどうか、その逆も、よく考えないといけない。

そうでないのなら、関わらないという選択も時には必要だろう。

これに例外はない。

例え家族でも、自分にとってマイナスだと判断したのなら、関わるだけ不幸になる。

そういう意味でも、生き方の再定義は必要だとボクは思う。

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