【Chapter1】正義の正体は「数」/Part2
さて、前回のPart1では、社会的矛盾に触れ、キレイゴトで塗り固められ、重大な問題や汚いことや面倒なことは見て見ぬフリをしてきた人たちが、匿名で本人の見えないところからナイフでブスブス刺して悦に浸る、そういう「空気」に満ちているのが今の社会であることを述べました。
Part2:正義に潜在する悪
まず、改めて正義の意味、悪の意味を確認することにします。
【正義とは】・・・人の道にかなっていて正しいこと/正しい意義/正しい解釈/倫理、合理性、法律、 自然法、宗教、公正などに基づく道徳的な正しさに関する概念
【悪とは】・・・わるいこと/人道・法律などに反すること/不道徳・反道徳的なこと
まったく、辞書の意味とはいつも空虚な世迷言でしかありませんね。表面的な意味に留まり、中身の意味として具体的な明記がなされないため、言葉とは常に人によって解釈が異なる傾向にあります。
時に正義は、一般社会においては正義とされていても、一部の人間たちを悪としてこの世の片隅で黙殺することも厭わない冷酷なものとして解釈されることがあります。その代表例が「死刑制度」でしょう。
(引用)善人が安らかに、悪人が罰を受け死ぬことが正しいとしても、世の中の多くの人は善人でも悪人でもない。死は万人の終着ですが、同じ死は存在しない。それらを全て正しく導くというのはきっと苦しい。(七海建人/呪術廻戦第13話より)
2018年、オ〇ム真理教の死刑囚13人を含む15人の死刑が執行され、2011年以来、2020年執行者数ゼロ。2000年から2020年までの間に、およそ100名の死刑囚の死刑が執行。
辞書の意味によるとですね、司法による死刑囚の処刑は「人道的」かつ「道徳的」な処罰らしいです。但し、法律とかいう決まり事を別にして言えば、人が人の命を強制的に滅することは悪行そのものです。
万死に値する非人道的かつ卑劣で残忍な罪を犯した者は死んで当然だ、というのが死刑制度の大義名分。死刑は、司法の力を借りた報復行為とも言い換えることはできるかもしれませんが、宗教的な解釈で言えば「死刑囚を全ての苦痛や罪と罰から解放する救いの手段」とも解釈することができます。
どちらかというと、終身刑(刑期が終身にわたる自由刑であり、仮釈放がない限り原則として終身服役する刑種である。 これは刑期を定めない、あるいは刑期の上限を定めないという絶対的不定期刑を意味するわけではなく、刑期の終わりが無い、つまり刑期が一生涯にわたるものを意味するが、現在は仮釈放の無い終身刑「無期懲役・無期禁錮」は存在しない。)や現行の無期懲役刑のほうが極めて厳しい刑罰と言えるかもしれません。
どんな行いも、正義か悪か、きっちりと分けることはできないでしょう。何を正義とし、何を悪とするかは、必ず現行の刑罰法規や過去の事例を基準に判断されるため、物的証拠や状況証拠が十分に揃わない以上有罪にはできない法律の脆弱性は、場合によって重大犯罪さえも無罪とせざるを得ないこともあります。
極端な話、この世界に悪が存在しなかったとすれば、人間の良心や善行が育つこともなかったでしょうし、何が人々にとっての脅威なのかに気付く術も見つからなかったことでしょう。結局のところ法律や条例の中身、社会的な常識やモラル・マナーといったことは、元は無邪気な子供だった人間たちが、長い年月をかけて犯し続けてきた罪によって策定されてきたものです。
性善説も性悪説もどちらも偏った思想でしかなく、全ての人々は、善人でも悪人でもない極めてグレーな存在なのだということを真に理解できたならば、「あなた」も例外ではないということです。ある時は悪を非難する正義のヒーローぶっていても、ある時には思いもよらず罪を犯す悪人にもなり得るのが人間の本質なのです。
自分だけは例外だと勘違いしている人ほど同調圧力に屈しやすく、自らの意思によって判断できず、いじめる側に立ったり、いじめを見過ごす傍観する側にたったりしてしまうのです。人間の心の弱さは、目の前に広がるそうした空気には基本的に抗うことを避けるように働きます。また、そういう自分の弱さを否定することさえも見て見ぬフリをしてしまうこともきっとあるでしょう。
その結果、いじめられた側は悲しい思いや辛い思いをして、場合によってはその心が憎悪の念に支配されてしまう人もいるでしょうし、環境を変えれば解決するはずなのに死ねば楽になると思って命を絶つ人も出ます。
正義という言葉を掲げれば、誰かにとっては悪でも、自分たちにとっては正義になります。非常に都合の良い言葉です。ですから、正義には常に誰かにとっては悪なのだという切っても切り離せない性質が潜在するということを忘れてはならないのです。
日本史で言うところの戦国時代であれば、一体誰が善人で誰が悪人で、どうして戦が起こり、どうして領土を侵略し蹂躙行為が許されたのかを想像しても、別に誰が善人で誰が悪人だったかということでもないし、戦わなければ殺されるし豊かな暮らしができないというのが当時の常態であったため、武士が刀を振るうことも当たり前だったわけです。
正常性バイアスとは、正義に潜在する悪を暈(ぼか)して見えにくくする効果や自分たちのやっていることは正しいのだと信じ込ませる効果があります。また、罪を犯した人間の善行がどうあれ、過去に罪を犯した人間だということでそういう人間を遠ざて差別することも当然のこととして認識されています。
毎度毎度芸能人やタレントの過去をほじくり返して報道するメディアの行いは、仕事であり報道の自由とはいえ100%の善行とは到底言い難いものがあります。むしろ、悪意さえ感じさせる突撃取材も散見されます。お昼の報道番組が大好きな人たちにとっては面白いかもしれませんが、不倫やら浮気やらを小馬鹿にするように報道するメディアの姿には程度の低さを感じざるを得ません。
そうした有象無象の集まりが社会であって、グレーでもあって、決して正義だけでは回すことはできないし、悪が存在することで守られている人たちが非常に多いと言えます。(※だからと言って、悪そのものを擁護する気はありません。)
とある悪が消滅したとしても、別の悪が沸いてきて、時代の流れと共に種類は増え、巧妙化していくと同時に、警察の捜査技術も進化しています。近年では、街の防犯カメラが大活躍ですね。犯行時刻や証言などからおおよその人物の特定がすぐにできるようになっていて、裁判所が令状を出して警察が逮捕するまでにあまり時間がかからなくなってきています。
社会にとって、人々にとって最も醜悪な存在は、やはり正義のヒーローぶっている極悪人でしょうね。表の顔と裏の顔がこうも真逆だと、人格もそれに則しているのではないかとも考えられます。
いろんな人々が居ますけれども、好い人ぶっている人間ややたらと自慢する人間ほど要注意なのは今も昔も変わりません。ただ、そういう人間でも完全な悪人ではないということです。だからこそ、人間にとってもっとも脅威的存在は人間以外に存在しないのです。
※これにてChapter1は終了し、次回はChapter2へ移行します。お楽しみに♪
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