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◆演じ続けることの代償

もう演じるのを辞めよう。

建て前で社会が回っていた時代はもう終わった。

思っていることを素直に言って圧力をかけられたり立場を奪われたり権利を制限されたりする時代はもう終わった。

もういい加減に「立場至上主義」を辞めよう。

誰もがそもそも「ひとりの人間である」ということからは逃れられない。

そして、その現実をどんなに隠して演じたとしても、それによって得たものは、本来の自分が求めたものではない結果となる場合がほとんどだということに気付こう。

私の父親はある日の電話での会話でこう言った。

私が父に「家族を養ってきたことは責務だったの?」と聞くと、「責務だ!責務だよ!」と声を荒げて繰り返すように言った。

さらに「お母さんが好きだったからお前たちは生まれたんだ」と。

どこか、うっすらと、実の子ではないのかもしれないと思ったことが何度もあって、実家を離れるまではわからなかった答えをようやく聞き出すことができた。

3人の子を育てて大学まで出したことはすごいことだったのだということはわかる。

父親は、そのことを誇示するようにこれまでに何度も口に出して言ってきた。

私の両親が親としての責務を果たしたことは事実であり、否定しようがない。

でも、三人の子供のことを愛してなどいなかった。

そのことが明確になって私がどう思ったのかというと、小さい頃から思っていたもう一つの感覚が真実味を帯びて感じられた「無」「何も無かった」ということだった。

“親が子のことを愛するのは当然だ”というのは、どこか行き過ぎた理想論のようで、これを鵜呑みにする機会は私にはなかった。

というのも、それとはかけ離れた家庭環境であったこと、昔の学校教育ではまったく未来に希望が抱けなかったこと、やりたいことも特に心の内から湧き出ることがなかったこと、いろんなことが複合的に混ざり合った状態で私が見続けてきた光景は、常に「無」だったからだ。

平成時代、世の中は目まぐるしく変化してきたし、十分なほどにモノも娯楽もエンタメも広まって、これ以上求めるものは何もないほどに「在るのが当たり前」の時代を生きてきた人たちは、“在るものに執着すること”こそが当たり前だと思い込むようになってしまったのかもしれない。

資格もそうだし、仕事もそう。給料を増やすために、生活のために、その時在る資格に、その時在る仕事に執着してきた。

でも、私からしてみれば、社会がどう変化していようと誤差の範囲内でしかなく、何をしていても人生を確定し得るものなど一つもなく、“お金さえあれば・・・”などと考えることもなく、ただ生きているだけで、多少辛いこと、きついことがあったとしても、それすらも誤差の範囲内で、特別なものでもなかった。

どう生きても人生とは言うけれども、この世界には、言うほど楽しいことも、言うほど面白いことも、言うほど気持ちいいこともないのだなと私は悟った。

社会現象的な流行りやブームも、常にそういうものを追いかけるでもなく、外側から傍観している感覚。

レジャーランド的な施設にも行きたいと思ったことがない。

如何にも「楽しい場所ですよ」みたいな夢の国のような空間は、リアルでも仮想空間でも結局のところ人工物で、素直にそこでの時間を楽しめる人たちが正常で、楽しめない人が異常ということではない。

ただ一つ言えることは、普段の窮屈な生活から離れて旅行へ行ったり、レジャーを楽しんだりすることは、その時間は楽しいかもしれないけれども、必ず普段の生活に戻る時には憂鬱な気分に苛まれることになるため、私は小さい頃も大人になってからも、自ら“どこどこへ行きたい”などと求めることはなかった。

自分のことを冷静に振り返ると心底冷めた性格だと思うけれども、自身の感性が捉えていたのは「本当はこの世界には何も無い」という真理だったのかもしれない。

コロナ禍で外食や遠出ができなくてストレスが溜まってどうのこうの・・・という世間の様子は、私個人の感性からはどうも理解できない状況で、むしろ、そんなに求めることがあるんだろうかという疑問すらも抱くほどだ。

人生について悟ったとは思わないけれども、“人生とはこうあるべきだ”みたいな考え方には常に抵抗があったように思う。

産まれて死ぬまでの間に、どれだけの富を手に入れ、どれだけのモノを手に入れ、どれだけの人脈を広げ、どれだけの快楽を感じられるか、そんなことは私の欲するところではなかったということだけは悟った。

何をやっていても没頭することはなかったし、他人が何をしているか、他人が何を持っているかなどといったことも全く気にすることもなかった。

総じて私が思う人生というのは、単なる“暇つぶし”なのかもしれないということ。

世間的には“欲のない人間はダメだ”などと言われることもあるけれども、余計なお世話だと言いたい。

よくよく考えてみてもらいたい。

前提認識として「この世には何も無いのだ」と思っている状態で求めることと言えば、食事と入浴と睡眠と排泄くらいで、あとは全て暇つぶし。

その上で慌ただしくしている世間の動きを見ているわけだけれども、偏に価値観の違いと言い切るにはあまりにも次元が違うと感じても不思議はないと思うのだが、皆さんはどう考える?

この世には何もないのだという認識でいれば、不必要に他人と争うこともないだろうに、なぜ人は争うのかを考えてみてもよくわからない。

社会の前提かのように競争を煽るような仕組みも、秀才同士の争いと凡人同士の争いとでは質が違うだろうし、秀才と凡人の争いに意味があるのかどうかも疑わしい。

身長が高いとか低いとか、見た目がイケメンかブサイクか、経済力があるかないか、そういうことでその人への評価が変化する。

私は男性だから、女性の化粧事情はまったくわからないけれども、「化粧をすることは女性としてのエチケットだ」みたいなのって未だになくならないけれども、なんでなんだろうね。

挙句の果てには、美容整形をするしないの話も取りざたされるようになって、今では整形そのものが社会的に受容されるようになってきている。

法に触れない限り、何をするでも人の自由意思に委ねられているわけで、その点については何も問題はないように思う。

でもね、そこまでして着飾って、本来の自分を隠して生きるだけの価値って何だと思う?

数十年、それでうまく世間を渡り歩いて一定以上満足するかもしれないけれども、いつかどこかで、突然に、ドッと「長年演じ続けてきた自分の心」が疲労感に耐えきれなくなってしまうのではないだろうか。

芸能人、俳優、歌手、タレント、企業の社長、警察、消防、自衛隊、弁護士など、いろんな肩書で多くの人たちが演じていて経済が回ってきているけれども、メディアが報道するパワハラ、セクハラ、横領、収賄、薬物、その他諸々のトラブルは、社会が抑止することのできないアレルギー反応のようなものではないだろうか。

無論、一つ一つの加害行為や法令違反は罰せられなければならないとは思うけれども、そこに至るまでの要因は無視できるのだろうか。

立場至上主義の下、長い年月をかけて本来の自分を押し殺して演じ続ける人たちで回る社会は、毎月、毎年、国内のあちこちでその代償を支払っているのかもしれない。

何もないこの社会で、個人が演じ続けて得るものの価値と将来払うことになる代償とを天秤にかけて、人が生涯かけて演じ続けることの代償について議論が進むことを願う。

そこに多くの人たちが意識を向けない限り、社会は未曽有の危機に瀕することになる。

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