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◆おそらくこれが今年最後の画像になるだろう

 得体のしれない巨大な物体が地球目がけて飛んできているとしても、確認されない限り、人類はその恐怖を認識することがない。

 知らない、ということは本当は幸せなことなんだと思うが、どうも知識知識って洗脳されがちだよな、この人間社会は。

 知識なんかよりも感情で自分の思考や行動が左右されていることのほうが重要な問題だと思うが、どうだろう…。

 厄介なのは、知識のこともそうだが、他人のことをなんでも知った気になることだ。もっと言うと、他人のことを知った気になってあれこれと誇示してくる言動や態度な。

 良いと思うよ?自分が正しいと思って言うことも、自分が相手のためを思って言うことも、本人がそうしたいんだからすればいい。でもよ、相手がそれに素直に応じないからって態度を変えたりシカトぶっこいたりするのは、それは別の問題なんだと理解する頭くらいは持とうぜ。

 感情とはいつの世もままならぬものよ。

 正しく認識すべきなのは、他人は常に身勝手な発言や行動をするのが大前提であること、そして、そのことに苛立ちや怒りを表出させることには何の意味もないこと。

 どうしてこれを正しく認識できないのか、理由があるとすればたぶんこういうことだろう。

 相手の立場に立ってモノを考えたり行動したりすることが、常に相手のためになっている、という思い込みや期待感があるからなんじゃないかね。

 自分以外の人たちを、そんなふうに単純な見方をしているから自分の感情がブレるんじゃないのかね、とオレは思うけどね。

 物事を断定して表現する定義みたいなものって、正しいと思いたくなるけれども、実際には何もかもが曖昧であることが大原則で、その時の心情や置かれている状況によっては受け容れがたい正しさみたいなものもあるでしょう。

 常に検証する意味での発言や行動をする、ということならいいんじゃないのかね。相手の心に響くものもあればそうでないものもある。いろんな人がいるんだから、一括りにした正解みたいな考え方を他者に誇示する表現はオレはあんまり好きじゃないんだよな。だけど、それをいちいちその場で否定しても批判しても意味がない。

 かといって、無理に合わせようとも思わない。あくまでも誰の言葉も他者の言葉であって、それをさ、良いと思う部分を掻い摘んで咀嚼するのは自分次第っていう考え方のほうがオレは好きだな。

 人間が他者に対して意図して働く行為というのは、見透かされたらそれまでだから、あまり多用するのはオススメはできない。なんでかって、他人のことは100%理解するのは不可能だし、知らないことの中には度肝を抜かれる過去や思想があったりするものだから、相手のことを知った気になるなんて本来おかしな話だと思うんだがね。

 見た目や第一印象で相手のことをあーだのこーだの判断する人たちっていうのはそういう見方をする人たちなんだからそれでいいじゃないの。大抵の人たちがそういう判断をするのなら、そうでない人たちとの出会いは大事にしたほうがいいね。

 時代の影響は間違いなく大きい。人はあまりにも多くを知り過ぎる、そういう時代では、自分の考え方も大衆のそれと大差ないものにしかならない。だから、ちゃんと全体を俯瞰して自分の思考を言語化する習慣が大事なんじゃないかね。誰かの考え方に乗っかるばかりでいる自分の思考が自分のものではないと気付くのは容易ではない。群れるのを好む人たちはそのほうがラクだったり得をすることがあったりするからなんだと思うけど、こういうのを嫌う人たちも当然いるわけで、誰もが同じ観念で今を生きているわけではないのよね。

 多様性とは何ぞやw未だに意味が分かりませんわ。

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