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考えたくて取り入れる
頭の中がうるさいので、書くものが手のうちにある間はたくさん書いて、たくさん消した。今もその延長線上。
愉快な繰り返し。私の頭の中のその範囲を出ない。繰り返す無駄ごと。繰り返す暇つぶし。繰り返すただ自分の生を思うだけ。生きる理由はこじつけ。それっぽければなんでもいい。言ったもん勝ち。言いたいだけ。真実は闇の中。その中で淡く灯るもの。
まさかの春の気配(隠語ではない。まんまの意味)。まだ2月も迎えていない。空気がぼんやりとしてあたたかいのだ。
体調と頭の具合(なにせうつ病や発達障害ということになっているから)のために、視界はほんのり黒いベールがかかって見えて暗いのだけど、私の外の世界はそうでもないらしい。私にはわからないが。
精神疾患と発達障害は私の肌感では日本国内で流行している。昔より診断基準が緩くなっているように思うし、精神科にかかるハードルも下がっている。安定剤や睡眠薬を飲んでいる人がいても珍しくない。(あくまで私の肌感では。縁のない人には寝耳に水な話だろう。「頭痛や腹痛を知らない」「寝付けないことがない」という人もやっぱりいるのだ。)そのおかげで私のような脳神経や精神の構造の人も、割と珍しくもなくなって、十年ほど前よりもとやかく言われなくなった。その言葉が頭をよぎっても誰も露骨に言ったりはしない。面と向かって言ってくる人の方がおかしいのであって、誰も自らをおかしい人にはしたくないだろう。そういう社会になってきた。私も人の顔になにかを見ても以前ほどは気にしなくなった。バレないように迷惑をかけないように恥ずかしくないようにと、以前ほどは必死で振る舞うほどでもなくなった。自分の人生の理想を掲げれば、今の具合はどうでもよくはないけれど、どうにもならないのだ。
とにかくこの生まれ持った能力で遊びたい。損とか得とか楽しいとか苦しいとかどうでもよくて、ただ生まれ持ってあるもので遊んでいたい。それ以外になにが? 何かの基準で秤にかければ二者択一かその他のような答えはあるけれど、現在に関してはこうしていたいだけ。
誰かから評価を得ると嫌になってしまう。誰かが楽しんだ、面白いと感じたという事実は嬉しいけれど、人の良い感情がそばにあると嬉しい私と、脳と体の機能(能力)として行動しているこの自分は別なので、評価を得て得をしたり損をしたりする私がいても、自分には何の関係もない。関係ないはずもないのに、この頭とその感情はいつも繋がっていかない。
昼間の感情は忙しくて苦手で、昼間の人の中でも自分でいると社会的に振る舞いが良くないので、死に近い苦痛が忍び寄ってくる不安と恐怖が常にある。孤独や迫害は人を弱らせる。怯えた私が反射で笑って、必死に応答している。おかげで自分は孤独にならず、人の中で人権を得てご飯が食べられている。私が人の中で怯えているのは、自分の存在が人に知れると環境から人に阻害される自信があるからだ。でもその「自分は人に嫌われる」という揺るぎない自信のおかげで、今の私がある。こんな風に思えることも、思ったことを言葉にできることも、そのおかげだ。
誰かと話すために特化した能力だろうに、結局自分と話してる。他人のふるまいや言葉を学習できているか、まだ自信がない。
何度も思う。「そういう風に人と接することができたらいいなぁ」 何度も思うということは、思ってもできずにずっと過ごしているということだ。それをどう思えばいいかまた考えてる。
脳内の母親が「あなたは努力してもできない人だからそうなっているのだから、諦めて得意なことを伸ばしなさい」と言う。頭がズンとする。そこはもう突き詰めることができない。僕の中のタブーだ。つらくなる。何度も話したのになぜ自分の脳はそうできない。何度も心がけて何度も繰り返しているのに。なんで懲りない。
他人に褒められても好かれても落ち込む癖をやめたい、と今日は改めて思った。
既に今日の出来事を反芻して何度も見たからそこから書くのがいやになった。人に褒められてひねくれた解釈をして落ち込んだ。他人のいいところをつぶさに見つけては時間が経ってもわざわざ伝えに来るその心がけが素敵だと思った。そういう人は一度ならず何度もそうする。誰にでもそうする。見習いたい。こわーーーーーい。無理だ。こわい。私はできないままこうなった。タイミングがわからないまましどももどろでこうなった。心の中で思うだけ。数あるタイミングの中の10回に1回なんとか伝えられる程度だ。だから余計に、それを心がけて伝えていく人の勇気がどれだけすごいものか。コミュニケーションの勇気。技術。当たり障りなく、この人にこれは伝えてもいいだろう、お互いに気分が良いだろうと思って実行できる確信。経験値が物を言うのだろう。
体調が悪い時やうつの時に、精神疾患や発達障害についての動画を見漁る癖がある。
そう、ここ3日ばかりはそうだった。
その中で「ASDは対人関係に躓きやすいのでコミュニケーションを学習する機会が定型発達とどうしても差が出る」と言われていて、私に関してはそれがとても当てはまるので、ああ、私はやっぱり現代の精神医学でいうところのASDに当てはまるのか、と腑に落ちたり切なくなったり希望を得たりした。
ASD的な人が友達や仕事仲間が少ないか、というとそんなことはないと思っていて、ASD的な人が他人に気を許して自身のパーソナルな部分を他人に開示することは極稀とは思っている。独自の世界観が強すぎて、開示したところで目に見えない隔たりの壁が厚くなるような気がするのだ。行き来っているASDはその壁の存在も気づかないけれど、あくまでASD的な人はその壁に気付いてしまうので、お互いの心の平和のために時折うっすらしか開けないのだ。ASD的な人の奥深くミステリアスに思える魅力でもあるけれど。
ASDであろうと思われるひとたち二人の対談の動画で、ゲストが進行役から体を少し離して座っていて、まだ警戒と緊張している心理が体に現れていると思った。少しずつ話すにつれて表情や声色の固さが取れていき、顔と体の向きが進行役に近づいていき、振る舞いが素直なところもASDらしいなとも思った。
擬態(社交演技)が上手すぎるASDは恐らく役者か詐欺師で、心理的な動きのそれすら客観的に理解して他人を見たり自分の振る舞いを操作していそうだけれど、そうなるとその人の本質的な部分が見えず信用できない。自身がそうならないようにも気をつけている。
私はTPO、というよりは個人個人に対して振る舞いを自然と変えてしまうタイプなので、集団の中ではやりにくい。子どもの頃から遠足や班行動や誕生パーティーなど、残っている写真を見ると大人しそうに少し後ろの方で棒立ちでうっすら笑ってあらぬ方を見ている感じだった。
30を半ばも過ぎた未だに、自分が自己を解放できた場面とはどういう状況だったろうと考える。現代社会で生活する上では解放する必要性すら感じなくなってきている。核の部分なんてないような、当たり障りなく日々過ぎていくだけの私でいればいいんだろうという気もしてしまう。
ただ、閉じ込めておくと精神的ななにかが毒素のように溜まっていって苦しくなるので、定期的に毒抜きがしたい。学生の頃ほどではないけれど、今でも元気になればなるほど余計なエネルギーがあまるのか、自然な自己を出し尽くす時間がないと苦しくなる。
夢の中でそれが済めば良いのだけど、眠れないと起きている間に作業をしなくてはならない。自分を出し切る。アウトプットが圧倒的に足りない。
最近良くも悪くも元気に近づいていて、苦しい。元気だからといって、社会生活をのびのびと自分で生きられた試しがないので、どこでどうやれば自分を人の中で許されたような感触で、自分と私が繋がった生き方ができるのか、ずっとできそうでできなくて窮屈な心地でいる。
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