静かなストライキの起こし方 3

コモン、コモナー、コモニングをめぐって、マルクスを読みなおす

 マルクス主義研究者の斎藤幸平さんは「コモン」というものをキーワードのひとつにしてカール・マルクスの思想を読みなおしている。斎藤さんによれば、資本とはそれまで商品として扱われてこなかった公共財であるコモンを占有して商品化する運動なのだという。その典型として、かつて数度にわたってイギリスでおきた土地の囲いこみ(エンクロージャー)がある。資本家が利益追求の仮定で農民を土地から追い払い、その結果として都市に流入した農民がプロレタリアートになったのだとマルクスはいう。
 このような囲いこみは現代においても至るところで起きている。たとえば、ツイッターというプラットフォーム。近頃はいろいろな機能が制限されるなどの劣化現象(英語ではEnshittificationという)が起きているけれど、これは収益拡大のために故意に——そしてできるだけ変化を悟られないようなゆっくりとした速度で——行われているものだ。資本家は本来はだれもが自由に使えていたものへのアクセスを制限することで、つまりはもともとそこにあったはずの「富」を損なうことによって、新たな「価値」を生み出す。有料プランに登録すれば、かくかくのことができるようになります、と。このようにして資本は持つ者と持たざる者との格差の拡大させながら世界を貧しくしてゆく。
 だからこそコモンという共有材の回復が必要なのだと斎藤幸平さんはいう。ここでいうコモンは、単なる「もの(資材)」のことではない。「コモンとは自治である」という。このことは、コモンがコモンであるためにはコミュニティが必要である。あるいは、コモンとは人間同士の利害関係である、とも言えるかもしれない。だれかが自己や他者の利害のために声を挙げないかぎり、コモンは資本の運動に囲いこまれていってしまう。デヴィッド・ハーヴェイという人の言葉を借りれば、コモンは「コモニング commoning」というプロセスの中にのみあるものであると言うこともできるだろうか。
 コモニングとはさまざまな利害や権利関係の調整のプロセスのことである。そして、そのようなプロセスへの参加者は「コモナー commoner」とも呼ばれているようだ。あまり日本語には訳しにくい言葉だけれど、しいて言えば「当事者」ということになるのかもしれない。
 さて、私たちは日常のさまざまな場面でコモンをめぐるさまざまな利害関係の当事者=コモナーであらざるをえない。しかしそれと同時に、私たち自身がコモンそのものでもある。そして、私たちはしばしばそのことを忘れてしまう。
 私たちは日々、労働力を売ってもいるし、時間を消費してもいる。そして会社のような営利団体の論理に染まった私たちはともすると、自分の労働力や時間が、自分のものであるかのように錯覚してしまう。近代法的にはもちろん、その錯覚には筋が通っている。私たちは自身のために自由に労働力や時間を使うことができる。しかし、そのような労働力や時間は、同時に他者のためのものでもある。ホリエモンのように資本主義の論理を内面化した者であれば、友人といっしょにお茶をすることでさえ自分の労働力や時間の切り売りのように感じることもあるかもしれない。しかし、これは単に筋の通った錯覚にすぎない。というのも、私たちの存在は避けがたい形で他者との利害関係のなかに置かれたコモンでもあらざるをえないからだ。自身の置かれたそのような状況にコモナー(当事者)として日々むきあわざるをえない。そこから目を背けることはできない。
 このようなことは「私たち」という語の二重性の比喩を通して考えてみるとわかる。「私たち」という語は「あなたたち」との対立関係に置かれた排他的な私たちを指すことも「あなたたち」をも含んだ包摂的な私たちを指すこともできる。そこで、資本主義の論理に染まった私たちは、しばしば前者の「私たち」のために労働力や時間というコモンを使おうとする。典型的には「会社」のために。あるいは「日本国」のために。会社も日本国も基本的には自分たちの利益のみを追求して、そのためにコモンを囲いこもうとする。しかしそのような内輪空間の外にはとうぜん、もっと広い意味での「私たち」、つまり「社会」があり、私たちはつねに避けがたくそのような社会に身をおいて活動している。
 私たちはコモンとして資本主義に囲いこまれているので、ともするとそのことを忘れてしまう。しかし、コモンの回復をめぐるこれまでの議論は、日々労働者として生きている私たちコモナーの身の処し方にもそのまま跳ね返ってくるのではないだろうか。
 そこでまたいつもの結論に戻ってくる。生活保護を受けつつ「のら公務員」として「社会」のために働くのはどうか、と僕はここで考えてしまう。「のら仕事」である。これは「会社」や「国家」という視野狭窄の「私たち」の利益追求のためのものではない。そして、そのために格差を拡大に加担し、この社会を貧しくするためのものではない。そうではなく「私たち」の外側で「私たち」コモナーとしての誠実な関与を必要としている者たちのためにできることがあるのではないだろうか。

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