ピエロは青い翼を抱く
2023/10/08 22:00
[From] yanagi sawa
[Sub] Re:「この庭から、星へ」
0.
私の娘はオシャレに全く興味がない。今年小学4年になる彼女に、私は化粧台を買い与え、お下がりではあるがメイク道具も貸してやった。だが、鏡に映ったのは乙女の頬ではなく、大人を気遣う口元だった。
そんな彼女がご執心なのは夫が夏の初めに本屋で買ってきた動物図鑑だ。普通は逆だろうと電話では笑った。だが、笑い事なんかではない。
なぜなら私は母親だというのに、未だ彼女のことがわからないのだから。
1.
10月31日。夕方の渋谷には若者が集り、外国人観光客が押し寄せ、キャラクターに扮して闊歩したりしている。そんな中、私は会議資料が詰まったリュックを前に抱え、電車に飛び乗り台東区へ向かっていた。
私は今、子供向けの玩具を作る会社の企画部で働いていて、大きなプロジェクトもいくつか抱えさせてもらっている。だから直帰できない道理も分かっているつもりで、決定事項は暫定事項だと上司から教わって育ってきた。だが、よりにもよってなぜ今日なのか。
満員電車の中では夕暮れも、閑静な住宅街も見えない。見えるのは夥しいほどの人の頭部で、まるでブナシメジのようにそれらは群生し、さっきから隣の中年男性がやけに近く、息も臭い。
電車内でメールの内容を確認して私はふと、思う。これくらいの意向変更なら戻らずとも対応できそうだけどね、と。
確かに顔を突き合わせて会議する時と、文章のやり取りだけの時とではコミュニケーションの密度も、情報量の多さも違う。
それにお世話になった先輩たちはこういった老人の教えをサボらず耳を傾けてきたからこそ、今のポジションとキャリアがある。そして、正直で、繊細で、時に残酷な子供たちに受け入れられるおもちゃを世に生み出せているのだろう。
私は現在、プロジェクトを同時に4件抱えている。
そんな私の出世作となったのは6年前に作った「ayumi」だ。
これはベビーカーにつける万歩計のようなもので、進んだ距離に応じてマイルのようなものが溜まり、それを支払って端末内のアバターをオシャレにしていくというスマートフォンアプリと連動した企画だった。
当時、会社は定番商品の売れ行きばかりが目立ち、新規ターゲットの開拓を模索していた。そんな中だったからこそ、子供ではなく、保護者に焦点を当てたアイデアが採用されたのだろう。
多くの先輩たちの助力で、予算が大きく膨らみ、私は「アバターに着せている服を実際に親子で着られたらどうだろうか」と考え、子供服メーカーや、女性ファッション誌に掛け合った。
その結果、アプリ内の通貨で全額を支払うことはできなかったが、正規価格より遥かに安価で、親子でオシャレが楽しめるようになった。そしてSNSが訴求の起爆剤となり、雑誌やワイドショーへ広がっていき、「ayumi」はその年、一番のヒット作となった。
部長は多忙な私をよく気遣ってくれる。それにチームのメンバーも想像力が豊かで今の椅子はとても座り心地がいい。私はこの仕事が好きで、よく顔色悪いと心配されるが今日は朝からカツ丼を食べてきて、二日酔いもない。
だが、今日ばかりはどうにも感情的なってしまう。「本当に今日やらないとダメなの」と思いながら前髪をかき乱してしまう。それでも私は本社に戻り、仕事を終えた。終えないと退勤できないからだ。
今日ばかりは、部長の「お疲れ、カツカレー」を聞き流すことができず、わざと大きな声で「じゃ、本当に食べてくださいね!」と言い返してしまった。
すると部長は「家内の実家から秋刀魚が送られてくるから無理だ」と、右手をひらひら振り、オフィスを出ていった。
その後、結局、会社の駐車場で一服を済ませた私がエンジンをかけたのは夜の9時過ぎだった。私は自宅とは真逆の方向へ車を走らせた。
2.
上野ICから首都高に乗った私は、プリウスを走らせている。満員電車での光景とは違い、窓の外は物言わぬ闇が広がっている。星もなく、だだっ広い闇を見ていると、ホワイトマーカーで何かを描きたくなる。
娘ならあの夜空に何を描くだろうかと考えてみるが、ザリガニの前脚とか言われたら怖いので、思考を止める。
最近の彼女のトレンドは節足動物らしい。
彼女は近所の中で一番、カブトムシを成虫にさせるのが上手いらしく、小学生男子から「ムシキング」というあだ名をつけられている。それを彼女は気に入っているらしいから不思議でならない。
カーナビのテレビにはスクランブル交差点が映し出されている。いくつもの点がひと所に集積し、喧騒がこれ以上広がらないように牽制している警官たちには毎度、憐れみを覚える。
雨天になることもなく、10月に入ってから熱帯夜もすっかり消え失せ、今夜は20度前後のから騒ぎ陽気だ。何が楽しくて、満員電車のような空間に人々が集まっているのか、私にはわからない。分かりたくもない。
同じ夜空であれば、今見てる方がいいと思いながら走っていると、東京湾に架かる橋梁が見えてくる。
アクアラインを進み、海ほたるのPAに入ったのが夜の10時過ぎだった。私は焦っていた。
売店で買った軽食を口に詰め込みアイスカフェオレで流し込むと、後部座席に移り、窓を全て日除カバーで覆い隠す。車内灯をつけ、量販店で買ってきたパーティー衣装が入っている包装を破る。
今から渋谷に戻るわけではないが、3750円で調達したピエロの衣装に身を包む。車内灯がスパンコールに反射し、フロントミラーに映る残業続きの顔面には似合わない浮かれっぷりが、なんともアンバランスだ。
だから、顔面も装わなければならない。
私は躊躇なくドーランを塗りたくった。
もう慣れたものであっという間に顔が真っ白に変わり、真っ赤なグロスで口の両端を長く延長する。試しに笑ってみると、どこか猟奇殺人犯じみた不健康な笑顔が映った。黄緑のアフロのかつらは頭が蒸れるので被らないが、だとしても不審者であることは間違いない。
もし、スピードを超過し、この顔がオービスに写れば、絶対にややこしいことになるため、どんなに周りから抜かされようとも、私は既定速度を遵守しなくてはならなかった。
ヤキモキしながら私は今から銀行を襲うのではなく、千葉にある夫と娘が暮らす家へ向かっている。
3.
私は近くのコインパーキングに駐車し、寝静まった家々を横目にバタバタと走って夫と娘が暮らす家に向かった。
これじゃあ、ジョーカーの冒頭だ。
汗だくのピエロは何かに追われているようで、みっともなく、頼むから誰ともすれ違いませんようにと念じながら走り、家の鍵を差し込んだ。
「ツバサもう、寝ちゃったよ」
「で、ですよね」
ちょうど洗面所から出てきた夫はバスタオルで頭をガシャガシャと拭いている。いつまでそのスウェットを履き続けるのだろうか、膝には穴があき、毛玉の数がひどい。下腹が前に会った時よりも出てきている。
「腰、良くなった?」
「全然。でも、ツバサがたまに叩いてくれるから」
「だからってさ、作家は特に腰やりやすいんだよ」
絵本作家の夫は、はいはいと言いながらリビングへ行ってしまう。その後をついていくとソファに背を預けた夫がチョコバーを齧っていた。
「ミヤコも浴びてきちゃえば?」
夫のチョコバーはもう半分になっている。
股を広げ太々しく座る夫はまるで王様で、道化師の私は余興の一つでもやってやろうかと思った。
「本当にもう、ツバサ寝てる?」
「寝てるって。起こさないでよ、明日も早いんだから」
私がピエロに扮して夫の家を訪ねてプレゼントを渡すのは毎年の恒例行事だった。普通の家庭ならばそういった日はクリスマスなのだろう。だが私はその日をこの家で迎える資格はない。
だからこそ、今日は私にとって特別な日だった。というのに、時計を見るともう11時半すぎだった。
「冴えない姿ってすごいピエロっぽいよね」
「うるさ」
「あ、そうだ。お風呂に入浴剤入れといた」
こういう気遣いができるから夫は小狡い。
「うん。ありがと」
衣装を脱ぎ、真っ赤な丸い鼻もとり、かつらもとる。汗で蒸れた髪を洗い、体を洗い、洗顔し始めると排水溝に向かって白濁した運河ができる。今日みたいな最悪の10月31日も、そうじゃない10月31日も、この河を見ていると急に我に返ってしまう。
私と夫は離婚はしていないが、別居中だ。
別に夫婦間に亀裂が生じたわけではない。どちらかといえば、見えない亀裂は私と娘の間にあるのかもしれない。あるいは私が勝手に殻にこもっているだけのなのだろうか。
真緑の浴槽に爪先から入り、足を伸ばすと自然とため息が漏れた。お湯に浸かる安らぎが凝り固まった筋肉をほぐしてくれる。本当は日本の名湯シリーズがいいのだが、ここは夫の家だ。
緑の湯を掬いながら私は娘と一緒に行った公園を思い出していた。
真緑の公園の池で子連れの鴨が泳いでいる。
私は麦茶を飲み、娘は右腕を掻きながらベンチでその様子を眺めていた。
「ねぇ、お母さん。インプリンティングって知ってる?」
当時、娘は小学1年になったばかり、対して私は32歳で、彼女は時折、こうして横文字を引っ張り出してきて、私を試す悪癖がある。
「知ってるし。隣町にできた洋菓子店でしょ?」
「お母さんは本当に面白いですねぇ」
と言って、娘は伸び切らない人差し指で公園を指差す。彼女が示した方向に鴨の親子がいる。
「インプリンティングというのはね、動物の成長過程で、特定の短期間に物事を覚えさせるとそれが長時間続くっていう学習現象のことで、例えば、あの子達。カルガモの雛が生まれてすぐに見たモノ、動いているモノ、音を出すモノの後を追っていくっていうのも、インプリンティングの一種なんだよ」
「さすが。ツバサ先生」
こうやって褒めると、彼女はわかりやすく照れる。そういったところは子供らしく素直だが、私はこのやり取りがそもそも好きではなかった。
「考えてみるとさ、私という動物が生まれた瞬間、もしお母さんじゃなくて、違うナニカを見ていたとしたら、どうなっていたのかな?」
彼女は好奇心の獣だ。
知りたいと思えば勝手に走っていなくなってしまい、思ったことは口にしてしまう。
そんなことは十分わかっていたが、彼女の中で母親の存在意義が揺らいだ気がして、私はベンチから立ち上がった。
そして酷暑の中、彼女を置き去りにし、私は家へ帰った。ほんの少し、反省して欲しいだけだったが、彼女は熱中症で倒れ、病院へ搬送させられた。
緑の湯を掬った両手が震えている。指の隙間から溢れ、量が減っていく。掬っては顔をつけ、つけてはまた掬う。
あの日も同じように私は何度も、何度も、顔を冷水で洗い続けた。病室へ駆けつけたのは結局、夫で、そして翌週、夫婦で話し合い、私は娘から離れて暮らすことを決めた。
4.
「仕事どう?」
「うん。楽しいよ」
「『大丈夫』じゃなくて、『楽しい』か。じゃあ、大丈夫そうだね」
きっとついさっきまで眠っていたのだろう。ずいぶん、寝ぼけたことを言う。首の後ろをさすりながら夫はなぜか照れていて、私は隣に腰を下ろし、足を組む。
冷凍庫を開けた時、チョコバー以外はあずきバーが冷えていた。いつ食べても石のように硬いそれはしばらくこうして持て余すのが常だ。
「アイスとビールって合うの?」
「これを知らない人は、人生の73%くらい損してると思う」
「ミヤコさん、大きく出ましたねぇ」
夫は酒を飲まないため、缶ビールが置いてあるのは今日だけだ。ちなみにチョコバーは娘の好物で、夫はゆで卵が好物だがこの日は置いていない。
あずきバーと、缶ビールと、そして卵。
普段ないものがあり、あるものがない。
毎年、そんな入れ替えを目にするたび、自分が彼らにとっての異物のように思えてしまう。
私がここで暮らしていた痕跡は今もなんとなく残っている。
寝室は出て行った時から何も変わっていなく、窓の前においたモンステラも変わらず青々しさを保っている。
「あのさ、今日泊まっていくだろ?」
「うん」
「じゃあ、明日も泊まっていきなよ」
「なんで?」
「仕事もこっから通えばいい」
「は? どうゆうこと」
「もう一回、この家で暮らそうってことだよ」
沈黙が生まれ、夫は右膝に視線を落としている。膝は小刻みに上下に揺れている。久々に私は夫が怒っているのを見た。
「娘の顔をまともに見れない女が母親に戻れると思う?」
「じゃあ、いつまでこの馬鹿げた行事を続けるんだよ」
春の始め、彼女の誕生日に化粧台をプレゼントした。最初からメイクなどできないだろうし、興味もないだろうとわかっていたため、最初は私が彼女にメイクをしてやった。
うまく隠せたし、上出来だとも思った。だが、鏡に映った彼女の笑みは私より遥かに大人びていた。
「骨になるまでだよ」
夫が鼻で私を嗤う。
「ツバサだって成長しているんだ。あの子は頭がいいし、何より優しい。だからそれなりに取り繕えてしまうんだ。僕はさ、家族の前でそんなことをし始めたらと思うと、たまらなく怖いんだよ」
私の夫は怒ると笑うのが癖だった。
「だって、」
「なんだよ。言ってみろよ」
鼻息が震えている。あんなに切り上げたくて仕方がなかった面倒の渦中に私は無性に飛び込んでしまいたくなっている。
「だって、あの子の右手が使えなくなったのは、私のせいでしょ? 私があの子の真っ当さを、人生を破壊したんだよ」
5.
6年前のことだ。私はとにかく自分の企画を成功させようと奔走していた。
新卒で今の会社に入り、入社当初、私は広報部にいた。着ぐるみを着て踊ったり、慣れないSNSを使い自社製品を宣伝したりするだけならまだ良かったが、接待役として得意先に派遣されることもあり、私はその時からずっと企画部に異動願を出していた。
入社から約、6年かかった。
収賄容疑で本社に査察が入り、現行の役員が解体され、組織が一新された年、30歳を迎えた私に突然、なんの音沙汰もなかった人事部から返事が届き、企画部に配属された。
私は広報部にいた時から業務の傍らで常にアンテナを張り、思いついた企画を片っ端からノートにまとめてきた。その中でも良さそうだと判断したものは、誰に頼まれたわけもなく企画書と発表プレゼン用のパワーポイントも作成していた。そのため、前々から育児は夫の方がよくやっていた。
念願叶いやっと企画部に配属された私は遅れてきた新人として、謙虚に取り組んだ。もちろんこの時もアイデアが浮べば、すぐにメモをした。
久々の休日、娘をベビーカーに乗せ、公園に向かおうとした時だ。通りかかった駅ビルの一階、ハイブランドの新作バッグが並ぶショーウィンドウに映る自分がなぜか老いぼれて見えた。
これじゃあ、乳母車ではなく、シルバーカーだ。
そう思ってしまうほど、背中は丸まり、顎が突き出て、そこには広報時代の私の面影すらなかった。
私はそんな見窄らしいひとりぼっちが嫌で、思わず周りを見渡すと数人の同類を見つけた。
彼女らは傷んだ赤茶の毛を後ろでざっくりまとめ、私と同様、ベビーカーを押していた。
その時、私は、愛してやまない息子や娘と一緒に時間を過ごしているはずなのに、彼女らは純粋に楽しめていないように思った。
そして思いついたのが、ayumiだった。
まるで、新しい娘が生まれたような感覚があり、私は公園に立ち寄ることなく、電車ですぐに引き返し、夫に娘を押し付けて部屋に篭った。
楽しかった。
企画にはすぐに肉がつき、血が通った。
頭の中には艶のある髪を持った母親と、長い睫毛を持った子供が互いに瞳を見つめ、微笑みを交わし、背伸びした休日を過ごす姿が膨らんだ。
私にとって、ayumiは渾身の企画で、出来上がった時、受胎したような多幸感があり、私の身体は悶え、痺れていた。
夫は取材を兼ねた打ち合わせで盛岡に行っているため、その日の晩は私と娘しかおらず、昔から好奇心が旺盛で、なんでも口に入れてしまう癖の治りが遅い娘を私は面倒だと思っていた。
私が注意すると一度をやめるが、すぐにまたやり出した。
だが、夫が諭すと娘は素直に頷き、従った。私はそんな彼女の”甘えに似た忖度”が憎らしかった。
その日は私の好物のたらこを焼き、細やかな祝杯をあげるつもりで、帰宅してから熱っぽかったらしい娘には卵粥を作ってやった。
私は調理中も、スマートフォンでクラウド共有してある企画書を眺め、見直していた。ツバサが隣でジャンプしていることも知らず、私はずっとayumiを見つめていた。
娘は頭上でぐつぐつと音を立てる片手鍋を不思議に思い、取っ手を掴もうとしていた。その時オーブントースターに呼ばれた私は娘に背を向け、焼きたらこを小鉢に移していた。
突然、彼女の泣き声が聞こえ、私は耳を塞いだ。
コンロの上にあったはずの片手鍋がなぜかひっくり返り、床には、ぐつぐつと煮えていたはずの卵粥が散乱している。叫んでいる彼女も卵粥にまみれていた。私は事態を理解できなかった。だが私は考えるよりも前に彼女を抱き抱え、すぐに風呂場で水を浴びせた。
どうしていいのかわからず、鉢植えに水をやるように頭から冷水を浴びせると、彼女は床のタイルに全身を何度も打ち付けながら、暴れ回り、叫び散らした。私はその獣を抱きしめることもなく、ただ怯え、遠ざけるように水圧を強くし、冷水を浴びせ続けるしかなかった。
それから彼女がおとなしくなると私は慌てて体を抱きしめた。
すると彼女は最初、暴れ回ったが、締め殺すように強く抱きしめているとやがて諦めたのか、何も言わなくなった。
翌日、皮膚科を受診すると顔の腫れは引くことがわかり、安堵したが、右の顔面にわずかな痕が残ることがわかった。
さらに皮膚科の勧めで形成外科を受診すると、顔を庇った右手の甲に瘢痕拘縮が見られ、完全に自由には指が動かせなくなる可能性があると説明された。
私はどうしようもない母親だ。いや母親ですらない。私はどうしようもない、本当にどうしようもない女だ。そんな女が持ち込んだ企画が、会社に大きな利益をもたらしたのは、皮肉以外何者でもない。
私はそれから娘に対し、過保護になった。溺愛なんて生易しいものではない。私は彼女の行動を、言動を、何よりも好奇心を、徹底的に潰した。
例えば、彼女が口にした素朴な疑問に対し、以前は曖昧な答えを返すか、わからないと一蹴するかだったが、疑問を持つことを禁じるために私は彼女の左頬を叱りつけながら何度も打った。保育園の遠足は危険があるので欠席させ、保育士から毎日届く連絡帳に少しでも気になる点があれば、夜中でも、構わず電話をかけた。
ayumiが軌道に乗っていくごとに私の愛はエスカレートしていった。
ツバサを見離してはならない。
私だけのツバサだ。私が育てているんだ。
ayumiのようにツバサも愛せるはずなんだ。
そう思いながら私は、別居するその日まで、無自覚に、飛び立とうとする雛鳥の翼に籠の柵を突き刺し続けていた。
6.
娘の手の甲には今も瘢痕が残っていて、当時に比べれば動くようにはなったが、いまだに箸が使えない。
「ツバサはさ、『お母さんとまた暮らしたい』って言ってるんだ。それに先生からも、ミヤコは良くなったって聞いてるよ」
「できないよ。だって、この家に住んだらあの頃の私にきっと戻る。絶対に戻ってしまう」
「『だって』って言葉、嫌いなの知ってるよね?」
夫は笑う。吊り上がった下唇が震え、引き笑いに泣き声が滲む。
「だって、」
口にしてしまった瞬間、空気が破裂した。
目を瞑ったあと、何が起きたのかと辺りを見回すと夫が「いったぁ」とぼやきながら両手を振っているので、彼が手を叩いたのだとやっと理解した。
「ごめん。ミヤコには、ミヤコのペースがあるんだもんな。そうだよな。そうなんだよな。じゃあ、今は娘の顔なんかまともに見れなくていいよ。だけど、だけどさ・・・寝顔ぐらい見て行きなよ」
夫は必死に笑いを堪える。
こちらを見ないまま、夫に、ほら、と背中を叩かれ、私はソファから立ち上がる。
娘の部屋へと続く階段を上がる。夫の仕事部屋と娘の部屋がある2階に足を踏み入れるのは久々だった。
私は娘の部屋の前に立つと膝が震え出した。ドアノブに触ると震えに自制が効かなくなり、なぜか自分が誰かに強く叱られ続けているように思え、握りしめている手が全く動かない。
すると、ひとりでにノブが傾く。勝手に空いたドアの前には娘がいた。
「ピエロさんか」
娘は右瞼を右手で擦りながら、寝ぼけているのか、譫言を呟いている。それとも譫言は仕掛けた戯事の演出の一部だろうか。
「前髪切ったの?」
眉下で綺麗に切り揃えられている。きっといい美容師がついているのだろう。控えめに言っても可愛いでしかない彼女の右顔面には赤黒い痣のような点がいくつも浮かんでいる。
「どうして切ったの?」
これさえなければ、この子はもっとかわいくなれる。私がいくらでも隠してやれるのに。
「長くて邪魔だったから」
そんな私の思いをよそに、相変わらず外見に無頓着な娘に手を握られる。私は抗うこともできず、部屋の暗がりに連れて行かれる。
言われるがままベットに寝かされ、手術台の上にいるような緊張で全身を強張らせていると彼女が傍で眠り出した。
本当に譫言だったのかと安堵すると、一気に力が抜け、身体の汗が引き、思わず額にキスをしてみようかと思ったが、倦怠感が瞼を下させた。
その夜、私は奇妙な夢を見た。
それは、
ピエロとゾンビが綱渡りをする夢だった。
踊りながら私たちは綱の上を歩く。
真下にはサーカスのテントがあり、
仄かな灯りは温かい。
二人なら、
いっそ落ちてしまおうとも、
なんとかなる気がした。
左ポケットのバイブレーションで目を覚ますとまだ朝の5時で、まるで魔法が溶けたように私は目を覚ました。
外は雨が降っていた。
出社は午後からのため、今家を出れば、自宅でもう少し寝てから出社できる。それに一度あった仕様変更がニ度起こらないとは限らない。書かなければならない報告書もまだ沢山ある。
私は、静かに寝ている娘を起こさないようにゆっくりと体を起こし、音を立てないようにつま先だけで歩き、一階のリビングへ向かう。
すると夫がソファに座ったまま、寝ていた。背もたれの縁に後頭部を乗せ、口を開けて寝ていた。
私には私の日常があるように、彼らには彼らの日常がある。生活がある。それが今日はとてつもなく寂しかった。
私は夫にも娘にも声をかけることなく、黙って家を出た。
私は車に駆け込み、ハンドルにしがみついて泣いた。
今までしてきた行いに対する後悔が涙の理由なら、どんなによかっただろうか。そんな涙はとうに枯れた。そう思って今までやり過ごしてきたし、やり過ごせていた。
一人でも多く子供の気持ちを理解しようと仕事に打ち込んできた。そうすればいつかは娘のこともわかるかもしれないと思ったからだ。そしてその時初めて、私は願っていいのだと思っていた。
だから、
だから今じゃないんだって。
それでも強請ってしまった私はこれからどう生きていけばいいのかがわからなくなった。
もし、オービスが光っていたら、鼻水を垂らし、瞼を腫らす無様な女の顔が映っていたと思う。
それから二週間ほど経った日、夫がたまたま出版社との打ち合わせで東京に来ており、出会った時を思い出しそうなほどボロい居酒屋で彼は私に短い動画を見せた。
「お母さん見てよ。ツバサね、練習してるんだ」
映っていたのは左手で湯豆腐を食べる娘の姿だった。2月に撮影したらしい。完全には運びきれず口で迎えに行って火傷しそうなところがたまらなく愛おしい。
「だって・・・だって私は・・・ふざけんな。ふざけんなよ」
「怒ってるねぇ」
夫の愉快そうな顔がとてつもなく不愉快だ。
私は声をあげて泣いていた。この子には困らされてばかりだ。
「ツバサ頑張ってるんだよ。だからってわけでもないけど、ミヤコも練習してみないか?」
私は願っていいのだろうか。強請ってもいいのだろうか。まだ何も掴めていないこんな半端な私なのに。
「うん。がんばる。お母さんがんばるから」
私は今、この両腕でツバサを抱きしめたいと思った。
process
リクエストしていただき、ありがとうございました。あなたがこの企画の第一号です。
今回は「青葉市子さんがカバーしている”サーカスナイト”を聴いて、文章を書いてください」というリクエストでした。ご期待に添えていれば、幸いです。
person
「あなたのために、物語書きます。」
オーダメイド型のショートストーリー作っています。
リクエストお待ちしております。
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