ファースト・ラブ
彼女の初恋は四歳で、相手は純白のニットだった。
忍び込んだ母親の衣装部屋で、彼女はそれと出逢った。サイズも、着こなせるスタイルも、何もかも足らなかったが、吸い寄せられるように手が伸び、気付けば指先はニットの触れていた。
小さな手でラックから一着手に取った。一目惚れだった。
だが、姿見の前に立ち、身体に当てると、それは全身を覆い隠した。最早、似合うとかそういった次元ではなかった。
もどかしくなった彼女はニットを床に放る。皺を伸ばすように丁寧になでつけながら広げるとフローリングの床に雪が積もったみたいに際立って見えた。
白く晴れた空から、窓ガラスを滑り落ちるようなスピードで降り始めた新雪。誰にも踏まれずそこには眩い純白が輝きを放つ。だが刻一刻と溶けていく。
儚さが彼女の頭に過ぎり、溜まらなくなり、雪原に飛び込むように彼女はそれに覆い被さった。それからお気に入りのぬいぐるみのように抱きしめてみると、カシミヤの線維の奥から、この家にはない匂いがした。
その匂いがなんだったのかが分かったのは、高校二年の頃だった。
彼女にはその時、気になる男がいた。
その男は同じ高校で、サッカー部の幽霊部員で、ひとつ年上で、聞いたことない音楽や読んだことない小説を知っていた。
男が卒業するとき彼女は人生で初めて告白をした。だが、男には既に社会人の彼女がいて、どうにもできなかった。
校門の前で泣くことしかできなく、彼女はみっともないと一秒毎に痛感しつつも、堪えられなかった。
その時、不意に顎を寄せられ、唇が重なった。
告白を断った罪悪感の穴埋めで彼女は、意中だった男と最初で最後のキスをした。タバコの匂いがした。
彼女は高校卒業後、服飾の専門学校に通い始めた。
幼いころ、彼女は人形で遊ぶとき、着させるコスチュームが少なすぎて、親にねだったことはあるが、ならいっそ、作ってしまおうとは思わなかった。またファッション誌を眺めるのは好きだったが、それはモデル自身が可愛かったからで、服には正直、興味はなかった。
それでも服飾の道に進んだのはただ、母親の衣装部屋に忍び込んだ記憶が、進路希望調査用紙を書いている時に過ぎったからだ。
専門学校に通い始めて彼女は即座に自分と周りの熱度の違いを思い知らされた。
入学式の日、居場所がなく、何となく話しかけた隣の女生徒は幼い頃から、服を作っていて、その女生徒にとってミシンは遊び相手だった。
彼女はその女生徒と仲良くはなったが、気になる男子の話から、課題の話、服の話に話題が移っていくと、責められているような気がしてならなかった。
結局、彼女は専門学校を中退し、大手のアパレル会社でアルバイトとして働き始めた。
そこで何となくつきあい始めた男の影響で、彼女はタバコを吸い始めた。そのうち、暮らしてはいけるが、生きている実感がない毎日をやり過ごすためにタバコが必需品となった。寒空の下、煙を吐き出す度に鼻先には初恋の匂いが漂った。
わたしはデザイナーでも、パタンナーでも、スタイリストでもない。時給が上がらないことに文句を言いつつも働いているただの店員だ。
思い知る度に白雪のようなニットがちらつき、初恋の煌めきが彼女を苦しめる。
彼女は初恋のために、何度でも溜息を吐き、何本でも煙を吸えるが、初恋のために泥水を啜り、血反吐を吐くことは出来なかった。
きっとそういう所だったのだろう。
と、思いながら彼女は働き続けた。
やがて付き合っていた職場の同僚と三年の交際の末、彼女は結婚した。妊娠していると分かると、すぐに会社を辞め、息子を産んだ。それからは、若いときの恋など、どうでもいいぐらい、慌ただしく、気付けば息子が四歳になっていた。
年末に入り、繁忙期を迎えた夫の帰りが遅かった為、彼女は年末は息子を連れて実家に帰っていた。
ツイードジャケットより、はんてんが似合ってきた母親と近況報告を交わし合っているとき、ふと思い出し、衣装部屋に忍び込んだときの話をした。
すると母親が立ち上がり、彼女を誘った。彼女は息子を連れながら久々に衣装部屋に入った。
母親はとっくにモデルを引退しているため、衣装部屋は物置になっていた。使わなくなった本棚や、壊れた掃除機。買ったはいいが、ほとんど使っていない調理用具やダイエット器具などが埃をかぶっていて、その奥にラックがあった。
大掃除はまだ先だが、突然始まったイベントに付き合わされ、彼女も母親の衣装部屋を整理していく。
昼過ぎから始めて一段落したのが午後六時過ぎ。
母親は腰を叩き、息子は空腹を訴えていたが、彼女はラックに掛かる服を一枚一枚見て、探し続ける。当時の彼女は、白のニットは一着しかないように見えたが、実際は似たようなニットが何着もかかっている。候補に選んだニットがどれもそんな気がして、同時にどれもそうでない気がしながら彼女は見極め続けた。
そして、肩幅と身幅が女性ものにしてはやけに広いニットを手に取った。
もう十分でしょと呆れていた母親の口が自然と開く。母親の頭には、初恋の男の顔が朧気に浮かんでいた。
「これ、持ち帰っていい?」
手にとって広げてみると彼女の、そして彼女の母親の初恋は日焼けしていて、すっかり色褪せていた。
「やめなさい、そんなの。みっともない」
「みっともないから持ち帰るんだよ」
ニットの色は純白と言うより、アイボリーに近く、彼女は初恋に腕を通して、姿見の前に立つな、もうタバコの匂いはしない。
「そう。だったら好きにしなさい」
手を後ろに組んで、母親が今へと戻っていく。息子がその後に続いても、彼女は姿見に映る自分をしばらく眺めている。
幼い頃から抱き続けていた初恋はついに、実ることなく終わった。だが、失恋したはずの彼女は満足そうに今を見つめていた。