ソーセージマフィン
深夜一時過ぎの休憩室で私は食後にプリンを食べていた。
卵の味が濃厚なやつで、いつも買っているものより、色味が濃く、値段も高い。
二四歳の時に上京してきた私は、当時、賃貸管理の会社に勤めていた親戚の叔父さんを頼ってアパートを紹介して貰った。すると叔父さんは、知り合いが店長をやっているからと、雑居ビルの2階に入っている居酒屋のバイトも教えてくれて、私の東京生活はエスカレーターのように自然と始まった。
きっとその時の無知さと、怠惰によって生まれた負債を、私は今も支払わされ続けているのだろう。
そう思わないとやっていけないのは、優しそうに見えた店長が、働いてみると昭和の価値観ひきずりセクハラ親父で、更に質が悪いのは、自分の股間をスマホのカメラで撮ってバイトの子に送りつけるという性癖を、叔父さんが知らないということだ。
私はその行為を密かに、チンパニックと呼んでいる。
例外なく私も被害に遭った。
そのチンパニ事変から二年後、ほとぼりが冷めたと店長が勘違いしたのか、私と同じような兆候を辿っている新人バイトの女の子を見つけてしまった。
その子は背が低く、何か指摘されるとすぐすいませんと行ってしまうのが口癖で、何度注意しても未だに、いらっしゃいませの声は小さい。でも、休みの日に会うときちんとオシャレをしてくるし、私みたいに野暮ったくない。ちゃんと笑うし、姪っ子みたいで本当に可愛い子だ。
去年、私の尊敬していた先輩は行きつけの雑貨屋の店主と結婚して、ここから去って行った。だから私は魔の手からこの子を守らないとならないのだ。
でも、正直、目付役の先輩がいなくなった今、そんなことをしたら逆上されてなんかしてくるんじゃないかと不安でもあった。
守りたいのに、私は新人バイトひとり守れない弱い人間だった。
それでも傍にはいれた。
だから私はなるべく休みの日は彼女と遊ぶようにしていた。可愛い子だから彼氏がいると思っていたが、そんなことはなく、私が誘うと彼女はいつもすぐに頷いた。
私達は大抵カフェにいることが多く、そこでは、今はそうでもないけど昔ハマっていたアイドルグループのことを彼女が熱意と愛を眺めるのが常だった。
たまに目が怖いときもあるけど、好きなものがある女の子の話は聞いていて、楽しい。それになんといっても一生懸命話す姿は愛らしかった。
そんな彼女が勢いよく扉を開け、休憩室に飛び込んできた。
トイレに行こうと思っていた私とぶつかった彼女は、ぶら下がるかのように制服のシャツを両手で掴んできて動こうとしなかった。休憩時間は残り一〇分だったが、私は彼女の第一声を待った。
「先輩、chaseから三人脱退するの知ってます?」
「ああ、なんか今日ツイッターで見たかも」
なんだそんなことかと、安堵するのも束の間、顔を上げて目があった彼女は言葉の濁流と共に涙を流し始めた。
突然の独白が始まった。
「今までわたし、chaseの為に生きてきたんです。彼氏が出来てもすぐ嫌になっちゃうし、趣味も、何にもなかった。でも、そんな時に先輩からchaseを教えて貰って、わたし救われたんですよ。
最初は先輩が教えてくれてたから何となく聴いてました。『アイドルなんて』って軽蔑してました。
もう原因は思い出せないんですけど、わたし、横断歩道の真ん中でしゃがんじゃったことがあったんです。そしたらその時、レイ君の声がどっかから聞こえてきたんです。
そして、屋外広告越しに彼は私に微笑みかけてくれた。
勿論そんなことはないんです。でも確かにそうだったんです。
あの時、レイ君がいなかったらわたしはきっと、その場にしゃがみ込んだままで、トラックとかに撥ねられて、死んじゃってた。
だからこの命はレイ君の為に使おうと決めたんです。
そのためにまず大学をやめました。そしてシフト増やして、店長のセクハラも我慢してきた。
それは全部ライブのチケット代とグッズ代に捧げた。
預金残高はいつも四〇〇円くらいだったけどわたしにはレイ君がいた。
それにツイッターで知り合ったともだちとライブの感想とか色々話してるだけで、今日も頑張ろうと思えた。
わたしにとってchaseは生きるそのものだった。
わたしはレイ君のマネージャーでも、彼女でもないし、母親でもない。
だから来年の春に脱退する彼をおつかれさまって、抱きしめてあげることも出来ないんです。
きっとレイ君も色々悩んで結論を出したんだと分かってはいるんです。それに、生きてさえいれば、とも思うんです。アイドルじゃなくて普通の25歳として、おいしいご飯食べたり、地元の釣り好きのお友達とゆっくり時間を過ごしたりしてくれればいいなと、思ってはいるんです。
でも、もう二度とわたしに手を振ってくれていると勘違いすることはないんです。わざわざ買ったテレビもゴミになっちゃった。
勿論これからも、わたしはレイ君を一生、推し続ける。
でもさ、いきなりって。
どうしちゃったんですかね。こんなわがままだったけなわたし。
ホントさ、もうなんなの。
でも、こんな風に先輩に話してる今もちょっとだけ幸せなんです。誰かにchaseのことを、レイ君のことを、喋ってるそんな時間の中でだけ、わたしでいられている。
先輩、明日からどうやって生きていけばいいのか分かんなくなっちゃった」
長台詞を言い切ってわたしは重大なミスをしていたことに気付く。
推しの名前はレイ君ではなく、レオ君だった。
わたしは額を付けて先輩の薄い胸に埋まっている。ミスを指摘されるのが怖くて顔を上げられないけど、先輩も気付いていないようにも思える。
きっと先輩にとってはそんな程度の思い入れのグループなのだろう。
そしてそれはわたしも同じだ。
どう生きていくかがわからなくて泣いているのは本当だけど、chaseを推すのは口実のようなものだった。会っても緊張して喋れないわたしが先輩と長く一緒にいられるための道具だった。
「ごめん。もう休憩上がらないとだからさ、私行くね。明日休みだよね? どっか行こうよ。遊園地とか……どうかな?」
ぎこちなくおどける先輩は愛おしい。
永遠にわたしのものになればいいのにと思った。
わたしは遊園地でも、映画館でも、勿論ドームでもなく、ただ先輩の家に行きたかった。
真っ白なイングリッシュマフィンの上には、
焦げ付いて表面が黒い肉塊。
その上にまた真っ白なイングリッシュマフィンが乗っている。
そうやって挟まれた朝食を両手で掴み、先輩の隣で思い切り齧り付きたいと思った。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?