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ステップ・イントゥ・インサニティ

 彼は売れない画家だ。
 平日昼過ぎの電車内で彼はクロッキー帳を抱え、居眠りしているほろ酔いの中年男性を眺めながら描く。まるで縫い付けられているかのように、クロッキー帳を左手で持ち、いつもどこかしらのポケットに入っている鉛筆を手に取り、当たりを付けて輪郭を決めていく。降車駅までは、後二駅ある。
 目的地に着くとクロッキー帳を閉じ、彼はホームに降りた。
 風が冷たく、彼は羽織ってきたジーンズジャケットのボタンを締める。
 冷凍食品工場のバイトまで、彼は公園にいることが多く、目についた人々をひたすら描いている。電車の場合はクロッキー帳を広げれば隣の客に怪訝な顔をされ、描いている対象が嫌がれば最悪の場合、痴漢みたいに扱われることもある。それでもつい、デッサンを始めてしまうのは、彼の悪癖であり、彼自身はその衝動を発作として受け入れ、諦めている。
 風は依然として冷たく、指先も鉛筆も冷たい。
 体温をこれ以上放出しないように背を丸め、ひとつのベーコンエピを分け合って食べている学生の男女二人を描いていく。水面に触れるように筆圧を弱めにしたことで、彼が描いた二人はセンチメンタルな雰囲気に仕上がった。ふたりはマフラーをもっていなく、寒そうにしていた。だから彼は描いた二人にはマフラーを巻いてあげた。彼がベンチから立ち上がる。
 ここまではアスリートでいう、ウォームアップみたいなものだ。
 彼が真に描きたいものは、他にある。
 彼は周りを散策し、再びベンチに座る。
 向かいのベンチには誰も座っていない。
 だが彼は、肩に掛けていたバッグを横に置き、中からさっきよりも大きい、A4サイズのクロッキー帳を取り出す。鉛筆を持つ。
 ベンチを描き終えると彼は誰も座ってないそのベンチの近くまで行き、背もたれに触れて、何かを探すようにぐるりと見回して、再び真向かいに座り、鉛筆を走らせた。

「お前には、見えないものが見えているんだね」

 彼がまだ幼い頃、祖父が亡くなった。通夜の翌日、彼は祖父の自室に入り、ふと背後に気配を感じた。縁側には祖父が座っていた。気がした。
 絵描きとしての彼の原風景は誰にも見えない祖父の背中だった。
 彼が人がいる絵ではなく、人がいた絵を彼が書き始めたきっかけは祖母に泣いて欲しかったからで、喪主として、参列者全員に挨拶をしなくてはならず、また、やることも多く、ろくに泣けていない祖母を彼は不憫に思ったからだった。
 だから彼はその時もっていた絵力を持ち寄って、誰もいない縁側をなるべく微細に描き、背景の一部分を消しゴムで消すことによって、祖父がいた風景を描いた。祖母にその絵を見せると、祖父を描いた空白に祖母の涙が重なった。
 彼はその時自分の力が始めて人の役に立ったように感じた。

 平日の昼過ぎの公園で誰も座っていないベンチや、その周りの景色を描きながら彼は昨日ここにどんな人が座ったのだろうと想像した。周りの風景を削り取りながら彼は小学生男児の痕跡を描いていく。輪郭だけではその人物が何をしているかが分からないため、空白の中を描くときはなるべく、淡く、霞を描くように線を必要最低限、足していく。
 そうして描き上げた絵を彼はカメラで撮り、SNSに上げた。
 賛同する声もあるが、反対する声も上がる。
 ここ最近は後者の方が多い気がしていた。

「アイツ、なんも出来ねぇけど、お化けは見えるらしいぜ」

 バイトの休憩中、座ったカウチがまだ温かく、公共の場にもかかわらず、彼の中で発作が起きた。衝動にあらがうことはできず、千切った一枚のメモ用紙にボールペンで描き始めた。
 彼は不意に背後に視線を感じ、振り返った。
 覗き込んでいた同僚は彼と目があうと素知らぬ顔でその場を去っていく。
 そして描き終えた後にロッカールームに戻ると、他の同僚と声を潜めながら彼をネタに嗤っていた。

 公園を後にして、家へ戻り、冷蔵庫の中に転がっていた魚肉ソーセージを齧りながらパンを頬張る。床に寝転がり、仮眠を取ると彼はきょうもそんな同僚たちがいる職場へ向かった。

「あなたには描きたい人がいないんですね。だから描く人間は空白で、表情がない。あなたはいろんな人間を題材として認識しているだけで、本当はまるで興味がないんだ。それって正気の沙汰じゃないですよね」

 自分のミスで、ライン作業を止めてしまった後の休憩中、彼のアカウントに一通のダイレクトメールが届いていた。
 ぬいぐるみの写真のアイコンが理性的に彼を問い詰めていた。
 言いたいことは沢山あり、端的に言えば、うるせぇんだよ。ということだった。
 でも、それを大人として、理知的に説くことはできそうになかった。
 メッセージを見た時、彼は生まれて初めて人を絞め殺したいと思った。
 だが、ソイツがどこに住んでいて、何歳で、どんな顔をしているかは分からず、ただメッセージを眺めていることしか出来なかった。
 翌朝、目が覚めると、昨日あげた絵についての批判も届いていた。
 寄せられたコメントを読んで彼は朝食をとる気力を失った。布団から起き上がることも出来ず、貴重な休日が無為に過ぎていった。
 寝込んだ日の夜更け、憤りを批判者達にぶつけると一に対して十の言葉が返ってきた。
 濁流の中で溺れているかのようにリプライが止めどない。
 必死に水を掻いても身体が沈むのは止められず、彼はその日バイトを休んだ。
 休みの連絡を入れると、いつも彼を怒鳴っているリーダーの口調が急にやわらかくなり、すんなり休みが取れた。少し安堵したが、同時にお前なんかむしろいない方がいいと言われている気がして、彼の心は更に拉げた。
 その翌日も彼は休んだ。
 理由は起きた途端に涙が流れたからだ。
 その日も彼の元には批判者達からの誹謗中傷が届いていた。
 読んで、読んで、読んでは沈んでいく。
 そして彼は自分を一番否定してくるアカウントに一通のダイレクトメールを送った。
 最初は返事がなかったがしつこく送り続けると、反応があった。
 彼は出掛ける準備をした。
 仕返しをしてやろうと画策していた。
 
 名も知らない人物に会うために新幹線のチケットを取る。
 アパートを出てから約二時間半。
 辿り着いたのは、海沿いの無人駅で、電車の扉が開くとバケツで水を掛けられたかのように海からの風が冷たく、顔を萎縮させる。
 待合に向かうと達磨ストーブがあり、僅かな熱に縋るように手を伸ばしていた少女がいた。制服姿の彼女が、彼の生きる力を今もなお、奪いつづける張本人だった。
 牙だと思って恐れていた脅威は、相対してみれば八重歯程度で、そんな幼気な悪意にしてやられたのかと思うと彼は無性に腹が立った。
 だが、その時ですら彼は何も言えなかった。
 空は曇天。
 彼女は唇を噛んで、俯いている。

 みんな何かに常に晒され続けられていて、
 笑ってるけど渇いていて、
 草臥れているから、
 だから、

 そうやって彼はいつも我慢してきた。
 そして今も、少女の抱えている苦悩を想像しちゃって、こんなことなら出掛けなければよかったと、思ったりもしている。
 砂浜には流木が横たわる。
 その先には灰色の海原が広がっていて、そんな日は船が一隻も浮かんでいない。鳶が二人ぼっちの海岸を見下ろしている。
 彼女は誘われるまま、海岸へと続く階段を下りて、座り心地の悪い流木に男と一緒に腰掛けている自分が恥ずかしかった。そんな憤りを彼にぶつけてやりたかったが、いざ自分よりも背丈の大きい男を前にすると声が出ない。
 スマートフォンを介せばあんなに饒舌に罵ることができる。
 だが、今はどんな言葉も相手に対して殺傷能力を持たない気がして、情けない。
 でも、ここで泣けば私の負け。
 自分より下だと思う人間に負けるのは、ただ負けることよりも、よっぽど惨めだから。
 そう言い聞かせながら、彼女は海を睨んでいる。
 荒む彼女の心境とは裏腹に、打ち寄せる波は穏やかだ。
 風が止むと、彼が口を開いた。

「生きるのは誰かに嫌われることでもあるんだと、僕は思うんだ。だから、これからも僕は描くよ。誰に何を言われても僕として生きていく。今は『いざ、狂気へ』って感じなんだ」

 男の横顔を見て、彼女は立ち上がり、去った。
 走りながら彼女は右腕で目を覆っていた。まるで焼かれたように目頭が熱くて、痛かったからだ。
 その痛みと、怒りは彼女を家まで一気に走らせた。
 男を憎んでいる間、全速力で走っていたにもかかわらず、不思議と息切れしていなかったことに彼女が気付いたのは、家に帰り、ベッドに横たわったときだった。

 砂浜に取り残された彼は、砂浜に腰を下ろし、流木を眺めながら描き始めた。ここから、また始めていこうと、彼の口元が綻ぶ。

 描かれたのは、流木に座り、泣きじゃくる空白と、その隣で笑い転げている空白だった。

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