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ニルヴァーナ
「わたしより井上さんの方がこの分野の経験ありますし、これぐらいできますって。よろしくお願いしますね」
彼女はこの日、定時でどうしても帰りたかった。
その理由はマッチングアプリで知り合った男との居酒屋デートだった。
中途採用で入ってきた3歳上の新人との何気ない会話のつもりだった。
3歳上の新人はその1週間後に過重労働を理由に会社をやめた。
部署で開いた送別会で、三歳上の新人はたらふく酒を飲み、串カツを頬張り、よく笑っていた。周りは巻き込まれるように騒ぎだし、縦に長い方卓の端で中途半端にハイボールが残ったジョッキが倒れる。彼女は三歳上の年増の女の姿を見て、とても過重労働で辞める人間だとは、どうしても思えなかった。
赤らんだ顔で大手を振って、恋人を作れと求めていないアドバイスまでされて、アパートのドアノブを握りしめる彼女はすっかり荒んでいる。
机の上には中途半端に手を着けた事務書類と、開かれたまま伏せられている少女マンガが散乱している。冷蔵庫の上にはレンジ、その隣には炊飯器。保温ランプが暗闇の中で橙に光り続けていた。米は今朝炊いたまま放置されていた。
彼女はそれに気づき、すぐに手を洗った後、油の匂いが沁み込んだスーツ姿のまま、みずみずしさを失った白飯を小分けにしていく。まるで遺言のように香る白米の湯気を嗅ぎながら、彼女は隣人の声を壁越しに聞く。
「青鳥の喉笛噛み切って、
血だらけの手で薔薇を毟る
花壇を荒らし、子供の脚骨は折る
揺り篭破壊、上層階からの人類崩壊
混凝土発破、マンション爆破
更地を、平野を私は求む
ひとり荒野を進む
不浄の地、私ここに在り」
今日も過激ぃ~。
と、思いながら、彼女は化粧を落としていく。
隣にはパンクバンドのボーカルをしている女が住んでいるらしい。彼女はこのアパートに入ってから4年目になるが、隣に住んでいる女の年齢も、顔も知らない。
担当している仕事で残業が続き、始発で帰った朝、彼女は隣人の後姿を初めて目撃した。ギターケースを背負う猫背はスカジャンを羽織っていて、右手には焼酎のワンカップをもっている。あまりにもバンドマン然としていて、千鳥足で隣の部屋に入っていくのを見送ると、彼女は思わず笑ってしまった。
シャワーを浴び終え、ドライヤーで髪を乾かす。したくもない笑みのせいですっかり疲弊した顔に化粧水の潤いを与える。
そんな間も、女は弦を弾き続けている。
女は頭に浮かんだ罵詈雑言を並べて詠みつづける。
入居してから半年後に隣人から苦情が来たため、フェンダーにアンプは繋がない。それでも声は抑えられない。誰かに両手で首を押さえつけられているような声で、まるで女郎のようにさめざめしく唄い続ける。
そんな女の声が隣室に住む彼女の手を止める。
そのワケは、
流行りのプチプラブランドの服とか、コスメとか、昨日のセクハラとか、ライクとか、ノープとか、そういったすべてを脱ぎ捨ていける予感が、涅槃へと導く言葉達が聞こえてきたからだ。
「この庭を死守する
この際で死守する
笑顔で私を蹂躙する人間には鉄バット、
鉄槌、撲殺
この庭を死守せよ
この際で死守せよ
笑顔で私を慰める人間も鉄バット、
鉄槌、撲殺
下界に吐瀉物を浴びせ、
涅槃の庭で笑ってやれ」
べったりと蝉のように白壁に貼りついた彼女は、女の声を聞いて、聴いて、涙を流した。
それは、この曲が自分のために在るように感じたからだろう。
地下室のライブハウスのステージ前には女のファンが二人いて、後は次に演奏するバンドの待ち時間を潰している客がまばらにいるだけで、ドリンクカウンターの前ではもやしみたいな男が来ているレザージャケットを自慢しながら売り子をナンパしている。
ステージで胡坐をかいて女が座る。
マイクの角度を少し下にして、女が弦を弾いた。
ステージ前にいた女子二人以外は女を見ていないが、そんなことは気にしてなどいなかった。
女はただ、自分が作った歌を歌うだけだ。
「新曲を作りました。聴いて下さい『涅槃の庭』」