
13. 終わりかけの人生で見た希望の光
かつて、やたらと瞑想の実践を勧められる事が続いた時期があった。
既に実践していたにも関わらず、多方面から同時期に勧められるということ
は、やり方が間違っているのだろうか?と不安になるほどだったので、瞑想
本を買ったほどだ。
実践してみると、静けさを確保した中で胡坐をかくように座って呼吸を整え
るのが理想的なスタイルであることはわかったが、手作り作家さんや演奏家
スポーツ選手にダンサー等々、何であれ没頭している時は、瞑想が起こって
いるであろう確信を持つようになった。
何故なら、瞑想を目的として環境を整えた場合以外の入浴中や食器を洗って
いるような時でも瞑想が起こったからだ。
こうなってくると意識的に瞑想をする機会は減り、ここ数年に至っては瞑想
らしい瞑想もしていなかった。
ところが、めいこさんの動画を見るようになると、あの頃と同じように多方
面からの瞑想押し現象が起こり始めた。
そこで、毎朝実践しているストレッチの後に瞑想を意識して呼吸を整え始め
たら・・・・
早っ!!!
2回目の深呼吸の段階でイメージが差し込まれてきた。
一言で例えるなら、この世的には山の上にあるお寺の境内というのが最も近
いかもしれない。
木々が生い茂る中に突如として現れるそれは、寸分たがわぬ四角形の石畳が
敷き詰められており、そこより更に高い階層へと続いているであろう石階の
中央には菱形の角を緩やかにしたような、はたまた蛇の鱗のような形状にく
り抜いて設けられた玉座(?)と思しきものがあり、それに沿うように緩やか
なカーブを描いている石段の美しさ全体が芸術作品と化していた。
石段中央にあるものを玉座と認識したのは、そこが見晴台のように境内、更
には眼下を一望できる構造であることと、そこには、この世の蓮の花を幾重
にも重ねたような大きなピンク色の花が台座のように置かれていたからだ。
鳥の囀りひとつ聞こえない静けさが支配する中、石畳のシルバーグレー、そ
れを取り囲む木々のグリーンが大半を占める中でゴージャスなオーラを放つ
ピンクの大輪は圧巻だ。
美しい‥‥!
この領域にやってくるのは久しぶりだな‥
初めて見た景色にも関わらず、何なら懐かしむほどにこの領域を知っている
と思ったのを不思議に思っていると、一瞬で景色を変えてしまうことなど造
作もない領域ゆえだと内奥から解説がやってきた。
台座を見上げつつ、もう少し近づこうと石段を見上げると上空から見ている
よりもはるかに高い場所にあり、これを一段ずつ上がって行くと考えただけ
で萎えかけると、「なんで一段ずつ上がる氣でおるねん。」と半ば呆れたよ
うな声が自分の中で響くと同時に軽く石畳を蹴って飛び上がった。
ぁぁ そうだ。
飛べたんだった。(照)
これはもう、「飯はまだかい?」「ヤだねぇ さっき食っただろ。」級、
もしくは、「ねぇねぇねぇ ボールペンがないんだけど‥」「その手に持っ
てるのはナニ?」級に恥ずかしい場面で、忘れていることが多すぎるという
のが実感として今でも残っている。
そして、飛べることを思い出したとたんボディがグリーンターラ菩薩を彷彿
とさせるものに変化し、それまでと比較にならないほどカラダが軽く‥
ん? ぃゃ、物質としての存在感が数段薄まった?
ぁぁ、カラダが半透明になったような感覚だ。なったことないけど。
自由自在の浮遊で高低差を楽しんでいる様を傍から見れば、グリーンターラ
菩薩というより一反木綿なことだろう。
もっと上の階層には行かなくて良いのか?と問うてみたら、この先どれほど
の階層があろうとも戻るべき場所はただ一つだから興味が無いと言い切った
のを聞いて、今度こそ本当に放蕩を返上して還る氣なのだと口角がニヤリと
上がった。
これをnoteに記すべく、グリーンターラ菩薩の画像を提供してくれているサ
イトを探したりしている中で、タラ(多羅)は『救いがたき有情(うじょう)
をも救わん』と、聖なる女性の姿をとり、顕現した仏母(ぶつも)で、苦し
みの中にいる有情のあまりの多さに観世音菩薩が涙を流し、そのしずくから
蓮華が咲き出で、そこから生まれたのがターラ菩薩で、左目から生まれた緑
ターラは活動的な面が強調されており、何時でも救済に出かけられるように
との理由から右足を前に出していることと、招福・財運などの願望成就に効
果をもたらす菩薩であることがわかった。
ちなみに、右目の涙から生まれたのがホワイトターラで、他に黄・赤・青
ターラがいることもわかった。
不思議とハートをロックオンされちゃうのがたいてい観音様だった理由はこ
こにあったのかもしれない。
今度こそ還れる!
これが此処での希望の光。