真っ当なビジネスと、その先にある「幸せ」を追い求めて 【FOURDIGIT創業ストーリー】
FOURDIGIT創業者である蛭田と村岡は、創業以前に勤めていた会社の先輩・後輩の間柄。デジタルやクリエイティブとは関わりのない会社に勤めていた二人が、未知の領域で起業に踏み切った動機とは? また、どのような戦略のもと事業を展開し、多くのメンバーと出会うに至ったのか――? 創業者にしか語りえない、FOURDIGIT誕生“前夜”、そして会社設立間もない日々に迫ります。
― ずばり、FOURDIGITを立ち上げたきっかけは何だったのですか?
蛭田:
僕はもともと、30歳で独立したいと考えていたんだけど、なかなか思うようにはいかなくて。FOURDIGITを設立したのは39歳の時です。それまでは、アメリカ発の輸入雑貨ブランドを日本で展開するビジネスに携わっていました。村ちゃんはその会社に新卒で入ってきて、6年くらい一緒に働いていたんだよね。残念ながらそのブランドは日本撤退が決まって、「独立するなら今だ」と。それが、2001年。
当時はインターネットが普及し始めて、Web制作会社があちこちで立ち上がり始めていた時代。僕自身もWebの世界にすごく可能性を感じて、そこに打って出ようと。ただ、自分で作れるわけではないから、Webの知識があった村ちゃんに「一緒にやってくれない?」と声をかけたんだよね。そこで快諾してもらえたから、FOURDIGIT設立に至ったという流れです。
村岡:
Yahoo! JAPANのサービス開始が1996年で、Googleの日本語検索サービス開始が2000年ですからね。その当時のWeb知識は、自宅の電話回線でインターネットにつないで簡単なHTMLを調べながら書いてみたことがある…というくらいの、あくまでプライベートで身につけた超初歩的なものだったんですけど(笑)。Webという領域はおもしろいし仕事にするのも楽しそうだな、というくらいの気持ちで始めました。
蛭田
事務所兼、僕の居住空間として横浜のマンションの一室を借りて、村ちゃんがそこに通ってくるスタイルでしたね。僕は歯磨きしながら室内を歩き回る癖があって、こぼした染みを踏んだ村ちゃんに怒られるっていうね(笑)。
村岡
ありましたね~。僕も近くに部屋を借りていて、半分合宿してるような状態でした。
― 設立当初の日々はどのような感じだったのでしょう。
蛭田
独立前にそれほど準備期間があったわけでもないし、お金も無かったから、横浜のオフィスにいた半年間はとにかく必死でしたね。歯医者さんとかレストランとか、色んなところに営業をして、小さい案件を受注して。知り合いの知り合い、みたいなつながりで紹介いただいて受注につなげていました。
村岡
それを調べながら手探りでつくったり、パートナーに依頼したり。今思うと、大した知見もなかったし、制作に関する情報やリファレンスが今に比べて圧倒的に少ない中で必死でした。でも、その過程も楽しんでいたように思います。
蛭田
一方で、他の競合と同じようなやり方でやっていても厳しいだろうという考えも当初からありました。技術力が秀でているわけではないのだから、特定の業界にターゲットを絞って、蓄えた知見で横展開していくカテゴリーキラーを目指そうと。この考え方にちょうどはまったのが、当時の新築マンション業界。この頃から、新築マンション一棟につきプロモーションサイトを一つ作る販促手法が採られるようになっていたんです。カテゴリーを絞った展開という意味で、これはすごく可能性があるなと。僕が昔、リクルートグループで不動産に関わる仕事をしていたことがあったので、かつての伝手を辿った結果、新築マンションのWebサイト制作の受注につながりました。それが、会社を設立して半年後くらい。
村岡
FOURDIGIT初の新築マンションサイトですね。デザイナーと3人で「こんなサイトを作りましょう!」とマンションのモデルルームまで営業に行きましたよね。クライアントさんが「そんなのできるんだ!」と、少し驚いたように言っていたのを覚えています。当時は、プロモーションサイト自体がまだまだ少なかったですからね。
蛭田
こうやって振り返ると、最初の半年間は先が全く見えない状況だったんだけど、不思議と不安はなくて、僕は毎日がとにかく楽しかった。村ちゃんはどうだったか分からないけど(笑)。
村岡
いや、楽しかったですよ。必死ではありましたが、少しずつ仕事が形になっていく中で、当時のWeb業界の勢いを身近に感じることができて面白かったです。
― 新築マンションのWebサイト制作は、その後FOURDIGITの事業の柱になっていきます。当初思い描いた通り、「カテゴリーキラー」になることができた秘訣はどこにあるのでしょうか。
蛭田
僕が営業出身だから、ということもあるのかもしれないけど、お客さんの「ビジネスゴール」は常に意識していました。お客さんのビジネスゴールを充足させるWebサイトを制作することによって対価をいただく、という考え方です。制作会社の多くは、クリエイターが立ち上げた会社である場合が多いけど、僕も村ちゃんもクリエイターではない。だから「制作」の領域では敵わないけれど、「ビジネス」の土俵でなら打ち手があるぞと。その想いがあったから、予めお客さんのビジネスゴールを明らかにした上で、それを実現するための要件をWebサイトに落とし込んでいくというアプローチを当初からとることができていた。それが強みになったかなと思いますね。
村岡
確かに、当時はそういった考えでWebサイトを制作しているところはあまりなかったかもしれないですね。見た目のカッコ良さみたいに、ひと目で分かる特徴を追求する方向になりがちだった。
蛭田
うん。僕たちは見た目ももちろん大事だけど、本筋はそこじゃないよねという認識でやっていたからね。新築マンションサイトであれば、ビジネスゴールは資料請求をしてもらうこと。そのために、情報の配置やボタンのサイズはどうあるべきなのかを考え抜いて、成果につなげる。それは今思えばユーザーへの意識や、UI/UXの考えとも近いものがあった気がします。お客さんに寄り添って、いかにビジネスに貢献するかということを追求していましたね。このスタンスは今でもFOURDIGITの制作に対する基本姿勢になっていると思います。
―初めての「メンバー」が加わったのはどのタイミングでしたか?
村岡
会社設立から半年くらい経って、横浜から南青山のオフィスに移転してからですよね。
蛭田
そうだね。横浜時代の事務所は、駅から15分くらいの長い坂道の上にあったからか、面接の約束をしても応募者が来なかったんだよね(笑)。あるお客さんからたまたま南青山のマンションの一室を紹介してもらうことができて、東京へ進出。
村岡
南青山に移転してすぐ、技術がものすごくできるメンバーが入ってくれたんですよね。一人増えただけで、できることがグッと広がったことを覚えています。
続けて現在COOの田口君も加わり、仕事もメンバーも順調に増えていきました。2LDKのマンションの一室に、最終的に15人近くいたんじゃないかな?PC機器もフル稼働でブレーカーが落ちる落ちる。誰かが電子レンジでお弁当をあたためようとすると、「ちょっと待て!」と(笑)。
で、次の北青山オフィスへと。このあたりで制作の質と幅、対応力がまた一段階グッと広がった。この頃すでに「自分たちの手で良いものをつくる」ことを素直に志向するメンバーも多く、現在のFOURDIGITに繋がるクラフトマンシップ的な思想が芽吹いてたと思います。
蛭田
新しい事業に挑戦したり、オフィスも何度か移転したりと色々なできごとがあったけれど、改めて、ずっと人に恵まれてやってきたなと思う。
村岡
節目節目で、会社の中心となって引っ張ってくれるメンバーが、仲間に加わっていますよね。
蛭田
本当にそうだよね。僕は自分が制作を手がけられないからこそ、クリエイターへのリスペクトがあるし、クリエイターにとって良い環境を作りたいという想いが常にあった。それもあって、魅力も能力もあるメンバーが集まってくれて、一人の飛び抜けた天才に依存するのではなくて、たくさんの個の力をかけ合わせて、チームの力にできるようになったんだと思います。
村岡
20年を振り返ると、創業から今日まで本当に多くの人たちの様々な関わりがあって、悲喜交々ありながらもここまで会社を継続できた。私たちもその中の一人でしかないので、改まって言葉にするのも妙な感じではありますが、これまで関わったすべての皆さんへの感謝しかないですね。
― 企業文化の面では、かなり早い段階で「理念」を明文化しています。そこにはどのような意図が込められていたのでしょう。
蛭田
メンバーが20人以上になった2004年頃に、初めて理念を掲げました。僕自身は、人に考え方を強制されるのがすごくイヤなタイプなので、朝礼で読み合わせをしたり手帳にして配ったりはしたくなかった。ただ、組織としてやっていく以上は、共通の指針があった方がより働きやすくなったり、皆が気持ちよく過ごせるだろうと。メンバーが増えて、全員と直接コミュニケーションをとるのが難しくなっていく中で、そんなことを考えて明文化したものです。
それを2008年頃に、当時のマネージャーと一度見直しをして、それまで〈Identity〉と〈Mission〉のみだったところに〈Rule〉が新しく加わった。ただ、明文化された当初から〈Identity〉と〈Mission〉の文言はほとんど同じです。最初の〈Identity〉は、「スタッフ、お客さんをはじめ、関わる人たちの幸せを追求する」。今は「スタッフ、お客さんをはじめ」というフレーズが無くなっただけ。〈Mission〉は今と同じ「仕事を通じて成長する」。
〈Identity〉も〈Mission〉も、そして後からできた〈Rule〉も、改めて作ったというより常々大切にしたいと考えてきたことだったり、社内で折に触れて言われていたこと。「自分たちの言葉」でまとめたからこそ、何年経っても通用するものになったんだろうと思います。借り物の理念じゃないから、直接的に言及する機会が年に数回だとしても、社内には緩やかに浸透している。そんな状態が、FOURDIGITらしくて良いかなと思っています。
村岡
蛭田さんは、会社を設立する前から、「真っ当にやりたい」とか、「人に利する仕事をしたい」とずっと言っていましたからね。「関わる人すべての幸せを追求する」は、理念ができる前のFOURDIGITの最初期から貫かれていると思います。
蛭田
真っ当に、倫理観を持ってやりたいという想いは強かったですね。設立間もなくて仕事があまり無い時代には、怪しい仕事の声がかかることもあったんですよ。だけど、良心に恥じることはしたくなかったから、「そんなんじゃ仕事なんてとれないよ」と迫られても絶対に受けなかった。それは、貫いてきましたね。
―最後に、FOURDIGITのこれからをともに創っていくメンバーの皆さんへ、メッセージをお願いします!
村岡
「なんか楽しそうだぞ」とデジタルの世界に飛び込んでからずいぶん経ちますが、その時代時代で新しい挑戦をする度に楽しさが更新されてきた感覚があります。常に新しいビジネスや、味わったことの無い楽しさに挑んでいけるのがこの世界の面白さなんだと思います。そういった挑戦の場にFOURDIGITが立ち続けることができたのは、人や仕事との良い「つながり」を循環しながら保ち続けることができたからこそ。そして、良い「つながり」を生んできたのが、真っ当に「関わる人すべての幸せ」を志向する、この会社のベースにある考え方なのだろうな、と。これから先も、良い「つながり」を循環し、変化し続けられる会社でありたいなと強く思っています。
蛭田
20年前、Webサイトの世界に可能性を感じてFOURDIGITを立ち上げ、今日までたくさんの挑戦をしてきました。海外展開は、ずいぶん前から思い描いてはいたものの、実現の道筋はまったく見えていなかった。ところが今は、タイとベトナムにブランチができて、現地のマーケットへのアプローチを開始しようとしています。競合となるプレイヤーも数年前とは様変わりしつつあって、今後はグローバルマーケットで勝ち抜いてきた強大な面々とも向き合っていくことになります。これほど挑戦のし甲斐がある局面は、そうそうないんじゃないかと思います。皆さん自身の成長や、仕事を通して実感する幸せを、これからのFOURDIGITの歩みと重ね合わせてもらうことができたら、これほど嬉しいことはない。そんな風に思っています。
編集・執筆 glassy&co.
撮影 吉田周平