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完璧主義と希死念慮

上記の記事に触発されたので、自分の希死念慮について書いてみる。

双極性障害2型と診断を受けて、10年ほどになる。
毎日の記録をこまめにつけているわけではないし、鬱でこの期間の記憶は明瞭に思い出せない。
ただ、ずっと暗くて、周囲の人々よりずっと下の、深い深い穴のようなところにずっといたような気がする。

精神障害になって、希死念慮という言葉を知った。
私の中の希死念慮は、「自分はこの世にいてはならない」「自分がいないことで世界は循環していく」「周囲の人を不幸にしているのは自分である」という『確信』が私を追い立てて、すでに気力もない自分に対して、自分の内なる声がひどく追い立ててくる感覚だ。
到底出られるとも思えない穴の中に、大きめの石や、時にはナイフのようなものが投げ込まれる。
投げ込んでいる人を確認すると、それは自分のような気がするものの、遠すぎて判別がつかない。
一人のような気もするし、大勢のような気もする。
それでも、とにかく私に対して自死を求める人間がいるのだと理解する。
即死はしない。当たると痛くて涙が少し出るようなものが投げ込まれるだけで、あとはとにかく「いなくなれ」「いなくなれ」という声が聞こえる。
涙でぼやけた目では、先ほどの人間らしい人は、どうも家族や恋人のようにも思えてくる。
家族や恋人、友人たちに愛が深いから、大好きだからこそ、より自死が正しく、最高の愛情表現になりえてしまう。
そんな感覚を約10年引きずって、ここまで来た。

「完璧主義の方に失礼だから、私は完璧主義ではない」と言い続けてきた。
先日、その感覚こそが完璧主義だと自覚した。
趣味でやっている絵やカラオケに対して、お金になるわけでもないのを理解しつつも「どうしてこんなに下手なんだ」と憤り、無理に練習を重ね、趣味から嫌いなものに転じさせてしまう。
カラオケは1曲1曲録音し、あまりの音痴さに苦しくなり、一度カラオケルームの中で自傷行為をするほどだった。
就労をしていない期間は「稼いでいないのだから有意義な事だけしなければならない」と思い、アニメや映画、ゲームなどを封じ(というかやっていても不安になって続けられなかった)、勉強や絵(少しだけお金になったことがあるので)を毎日嫌でも練習して、家事やジムなど「周囲から褒められること」だけやっていた。それが当たり前だと思っていた。
もちろん続くわけがなく(2か月程度しか続かなかった)、先日の希死念慮につながる。

先日、目標にしていたオープン就労の給料について調べてみた。
思っていたより少なく、これでは結婚などを考えるのは難しいなと思い、そうなると、今まで考えていた楽しい人生計画がとん挫することを直感した。
「一緒になる恋人に迷惑をかける」
「とはいえ一人で暮らしていくこともできない」
「自立ができない」
「もういい年齢なのに」
「じゃあ死ななければならない」
「死ね、死ね、死ななきゃ、早く、早く、早く」

初めて首吊り用のロープを買った。
到着する日に合わせて、地元のダムを検索し、キャッシュカードやパスワードを書いた紙などを残して出ていくことを確認。
最後に恋人や家族には会えるようにして、感謝を伝え、家に誰もいない時に出ていこうと思った。
暗く寒い、悲しい場所で、たくさんの愛を想いながら自殺しようと思った。

本当は死にたくない。
死ななければいけないという義務があるだけで、できるなら死にたくない。
時々楽しいことをして、信頼できる人と一緒に生きていきたい。
でも、自分にはその価値はない。

生きていてほしいと言われても、その人の迷惑になってしまう。
生きていていいんだよと言われても、相手が優しさを裏切ることを私はしでかしてしまう。
死んだら悲しいよと言われても、人の記憶が薄れていくことを知っている。

未だにやさしい言葉をかけられても、心の中の声がどうしても強くて、それはひょっとしたら目の前の人間の本心を教えてくれているのかも、とさえ思ってしまう。
精神障害を抱えた人にはみんな幸せに生きていてほしい。
でも、精神障害を抱えた私は、絶対に死ななければならない。

私という枷が外れたら、みんな幸せになるだろう。
ロープは没収され、しばらく何もしない日が続いた。
休んだところで希死念慮は消えてくれない。
それどころか「死ねばよかったのに」と、その声は日に日に大きくなっていく。

10年も耐えたならもういい気もする。
希死念慮の悪いところは、希死念慮だけでは死ねないところだ。
ただ、数度行った自殺未遂の、薬を大量に飲んで、戻れないことをしてしまった絶望と、「私はどうしても生きたかったんだ」という後悔を思い出し、これでも踏みとどまる回数は増えた。
「生きたかった」と思い、何度も生き残れたのは良かったと思う。
それでも、完治しない精神障害や変わらない自分は、やはりこの世から早急にいなくなった方がいいと思う。

ずっと好きな人がそばにいてくれるとも限らない、不安定な世界で、より不安定な私が生きていくのは難しい。
今のところ服薬治療しかしていない。薬もどんどん変わっている。
良くなっているような、悪くなっているような。
ずっとこのままなのだろうか?これは何かの償いなのだろうか?

「こう生きていかなくてはならない」という完璧主義に、希死念慮はとっても、相性が悪い。(良いともいえるのかもしれない)
「まあいいか」「負け犬でもいいや」と思えばいいと何度も思ったが、いざという時にそんな突貫工事のコマンドは出てこない。

この先どうやって生きていけばいいか分からない。
どうやって生きていけばいいのだろう。
泣きながら眠剤を飲んで昼から寝る日が増えている。
寝ることだけが唯一感情を手放せる瞬間だ。
不眠症だから昼寝も難しい。眠剤が無いと寝られない。
八方ふさがりだ。

いいこともあった。
精神障害になってから漫画や映画、アニメなどにワクワクすることがなくなってしまった。
調べてみると「鬱になると感情を抑制するため起こる」と書いてあった。
文字を読むこともできなくなっていたから、漫画や本を楽しむことも減っていた。
しかし、つい先日アニメや漫画を読んだら、記憶も残るようになっていて、面白いと思えるようなっていたのだ。
10年ぶりに感情に色がついたようでうれしかった。
嬉しすぎて、30分ほど号泣してしまった。
楽しさを感じることができない不安も根底にはあったのだろう。
楽しさを享受せず、辛いことばかりを自分に押し付けていたことも反省しなければならないと思った。

希死念慮をなくすには、己のことを「ありのままでいい」と思う心が必要だ。
私自身「ありのままを愛してもらいたい!」みたいなのが苦手なのだが、完璧主義の私には多少そういう許し?甘さ?みたいなのはあった方が丁度いいかもしれない。
ハズビンホテル4話で「俺たちは負け犬、それでもいいさ」みたいなメッセージがあるが、酒浸りだったあの日々を考えれば、私は多少更生できていると思う。

今こうして書いている間も「どうしてロープを人に渡したんだ」「あの時死ねば周りが楽だったのに」という声が聞こえてくる。
穴はどれだけ深いか分からない。何度ももがいたけど、もうもがくのも疲れた。
いつまで休んでいいかもわからない。いつまで生きるのかもわからない。
やはり死んだ方がいいとも思う。
でも、生きなければならないと思う。
涙があふれるほど死への恐怖を感じるなら、生きればいいと思う。


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