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つらい湯舟

 こんにちは、はいるです。更新にだいぶ間が空いてしまいました。2021年、先が思いやられる......。さちこからは、「やっつけで書くくらいなら余裕のあるときに」と言われて、それもそうだな、と思ってやっと書きます。

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 人間というのは、何かの出来事を境に急に「つらい」に転落することがある、と思う。わたしの初めての「つらい」は失恋だった。飲み会で帰っていく友人カップルが心底妬ましく、一人帰り道をわんわん泣いて帰ったものだ。このつらさは誰にもわかるわけがない、と世の中全てを憎んでいた。
 その次の「つらい」は異動と妊娠が重なったときだ。仕事の出来なさと体調の悪さを、何のせいにも出来ず横たわって毎日泣いていた。

 「つらい」は、ある日突然やってくる。そして時間をかけて(うまくいけば)居なくなっていく。そこに確実な対処法はない。しいて言えば時間が経つことだ、と人生の中で学んだ。

 だけど、他人の「つらい」はどうだろう。

 わたしは夫が「つらい」とき躍起になって解決法を探っていた。色々な本を読み漁ったし、あの手この手で声をかけては、回復しない夫にやきもきしていた。そのうち自分や子供のことも疎かになってきて、「つらい」夫に苛立ちを感じるようになった。

 これでは本末転倒だ、と思った。そして、夫をどうにかすることをやめた。なるべく自分が楽しくいられることを目指した。それが一番家庭を楽しく出来ると思ったからだ。他人をコントロールしようとしない。自分が辛くなったらリフレッシュのために少し距離を置いて逃げてしまう。そうして自分の心身が健やかであることが、家族にとっても安心できる場になったと思う。

 何故こんなことを思い出したかといえば、友人が今まさに「つらい」の真っ只中だからだ。送られてくるラインの辛そうな文面に、またわたしは「何かしてあげなくては」というような気持ちに駆られてしまう。でもすぐにハッと気付いて、やめなければ、と思い直す。

 つらい人は、つらい湯舟に浸かっている。でも他人は、同じ湯舟には浸かってあげられない。その人にはその人の湯舟しかなくて、出るも出ないもその人が決めることだ。
 だけど側で見ていると、自分もその湯舟に浸からないといけないような気になってくる。そこから出してあげる努力をしないといけない気になってくる。そのうち、お湯が自分にもかかって、自分の湯舟の色や温度も変わってしまい、気付けば自分もつらい湯舟に入っている

 だから、他人のつらい湯舟は、遠くから見る。「まだ浸かってるな~」って思いながら、遠くにいる。でも目は離さない自分は自分の湯舟を大事にしながら。そして、大切な人が、つらい湯舟で溺れそうになってしまったら、いつでも助けられる準備をしておく。自分の心身が健康であれば、いざという時に手を差し伸べられる。

 これが正しい対処かはわからない。人の数だけ「つらい」への向き合い方はあると思う。
 でも、少なくともわたしは、自分の湯舟を大事に出来るようになってからのほうが、生きるのが楽しい

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