異界に迷い込んだような銀行跡で「余白」について考えたこと(哲学対話@Tetugakuya)
写真を撮るのが苦手だ。
心動かされる風景に出会っても、スマホを構えた途端に何か「これじゃない」というか、いま見ている風景と違うような気がする。そして結局、いつもシャッターボタンを押さずに終わってしまうのだ。
どうやっても、いま味わっているものは切り取れない。「Tetugakuya」に訪れたときも、そんなふうに感じた。
Tetugakuyaは香川県多度津町にあるサロン型喫茶で、その名に違わず哲学書の読書会や哲学対話なども開催されている。今回、このお店で開催される哲学対話の進行役として訪問することになった。
当日は滋賀から慣れない車を運転し香川まで向かった。多度津に着き、車を降りると潮の香りがする。多度津は古くから港町として栄えたそうで、Tetugakuyaの近辺もどこか懐かしい街並みが残っていた。
少し道草をして、近くにある銭湯を改修したカフェ「清水温泉」にも立ち寄る。
こういう、見るものがはっきり提示されているように思えるものに関しては写真を撮ることにあまり抵抗がない。月並みにいえば「映え」というやつだろう。
いよいよTetugakuyaへ。銀行跡を改装した店内は現在進行形で改装が進んでいるそうで、店主の杉原さんだけでなくお客さんも含めた多くの方の手によってDIYされているらしい。アンティーク調の空間と、まだ手付かずのスペースのギャップがとても印象的で面白い。
あっという間に19時になり、哲学対話の時間に。夜になると店内は薄暗くなり、さらに非日常感が増してくる。月曜夜にも関わらず、ありがたいことに多くの方にお越しいただいた。
今回のテーマは「私たちにとって余白とは何か?」
「余白製作所」という屋号で活動する私にとっても非常に興味深いテーマだ。
今回は「余白」にまつわる参加者のエピソードから、考えるべき問いをみんなで練っていくことにした。
いくつかのプロセスを経て選ばれた問いは「空白と余白は違うのか?」
例えば、スケジュール帳が真っ白だったとき、それを空白だと思うか、余白だと思うかどちらだろう?あるいは、何もない空間を余白だと捉える人もいれば、たんなる空白だと捉える人もいる。何が違うのだろう?旅行の話から、各人の部屋の本棚やTetugakuyaの内装についても話が及びつつ、議論は展開していく。
たんなる空白。それが埋まっていないと、なにか不安な気持ちになるもの。一方で、余白には何かのためにあえて空けておくという「未来」や「希望」があるような気がする。
余白が何かの「あまり」であるなら、それを成り立たせるためには「メイン」になるものが必要なのではないか?という意見も出た。余白を生み出す、その前提になる条件。
この話を聞いて、『四角形の歴史 こどもの哲学 大人の絵本』という本の一節が思い浮かんだ。
この本は、赤瀬川が風景を撮ろうとカメラのファインダーを覗いたときにふと抱いた疑問からはじまる。「犬も風景を見るのだろうか。」赤瀬川は犬は肉や電柱やご主人様などの物をみるが、その背景にある風景は見ていないのではと考える。目に入ってはいるが、見てはいないのだ、と。
それは人間も同じだったのではないだろうか、と赤瀬川は絵画の歴史を考える。洞窟の壁面に始まり、壺や皿に絵が描かれるとき、そこにはまだ風景はない。これは物体に絵を描いているからで、そこから離れて四角い画面に絵を描くようになったとき、はじめて描くもの以外の余白を、風景を知ったのではないか、と赤瀬川はいう。
この考えを借りるのなら、余白を生み出すためはフレームが必要になる、といえるだろう。さらに踏み込めば、余白を考えるということはその前提となるフレームを考えること無しにはできない、といえるかもしれない。
写真を撮るのが苦手だ、といった。
写真をとるという行為は、世界をあるフレームにそって切り取ることだと思う。「映え」のようにフレームが提示されている場合はまだいい。そうではなく、切り取るフレームを自ら選ぶとき、そこにいまだ残る世界の「汲み尽くせなさ」のようなものを、どうしても考えてしまうのかもしれない。
フレームによって切り取る前の手付かずの可能性と、フレームによって生じる余白。今回会場となったTetugakuyaという空間にも、この両面が同居しているように感じた。この二つの関係をどう考えればいいか、私にはまだ整理がついていない。とても楽しい時間でありつつも、大きな宿題をもらったようにも感じた、印象に残る対話だった。
(おわり)