わたしの今のエネルギーは、蓄電池みたいだ と 思う。 自家発電は出来ない。 スイッチを入れた瞬間、頭の中でカチッ 音がする。 溜めていた物が尽きてくる。一緒にわたしも尽きていく。 溜めなければ 動けない。 空っぽになるまで動いてしまっている。 自分の中から溢れんばかりに生み出したい。 若かりし頃の満ち溢れていた自分を思い返す。 歳をとるとはこう言うことなのかなと考える。 憂いているわけではないし、 相応の付き合い方があるのも承知している。 すぎる 事がわた
子供を産み育てる一生 と言うことを 産む前も産んだ直後も、今でさえ 実のところ 全く理解していなかったのだ と思った。 でもだからこそ、何となく流れに沿って産むことができたのだろうと思う。 知っていたら、産むことなんて出来なかったろうと思う。 待ち受ける困難は見えぬほうがいい。 見えたからと言って目の前にしてみれば その景色はまた形を変えうるので 前もって見ることにそもそも何の意味もない。 終わり方がなんとも美しく儚く強い。 見終わった後止まらない涙は、痛いわけ
1日の機嫌は目覚めた瞬間に決まってしまう気がする。 今朝の朝は静かで雨の音がよく響いていた。 低音が響くどっしりとした音ではなく、 跳ねるような、かろやかな物に感じて 今日の雨は好きな雨だ。と思った。 コンクリートの濡れる匂いが好きだ。 夏の夕立はそれがより香り立つので特に好きな雨に分類する。 布の乾く匂いも好きだ。 昔ながらのクリーニング屋さんから漂うアイロンをかけている、もしくは乾燥機をかけているであろう匂いが好きで 学生時代自転車で向かう駅までの道中 クリーニ
私は今久しぶりに 寂しさ と対面している。 SNSでのみつながっている知人と再会した時のよう。知っている気になっている、知らない人。 ここ数ヶ月は、覆われ、籠り、戦っていた。 日々と、体と、心と。 故に感情は非常に偏り、寒々しかったように思う。 あたたかな時間も経てば冷めてゆく。 その温度差を慮る事が、寂しさなのだろうと思う。 しかし私は 感情を覆う皮膚が機能し温度を感じられるようになってきた事が嬉しい。 経過した時間に、寂しさを感じられる事が 嬉しいのです。
トイレットペーパーが、もうすぐなくなる。 わたしは、生活にまつわるあれこれを行うのは比較的好きな方である。 けれど、その中でも何より嫌いなのは トイレットペーパーの芯を変える事。 どんなに簡単にすっとかえられるホルダーであってもあの瞬間の あー最後だ から、 変える 一連の所作。 どうにも悔しいというか億劫というか とにかく不毛な気持ちになる。 友人知人に話してもあまり理解されない。 そんなこと?と言われるけれど、 とにかくトイレットペーパーの芯を取り替