Day by Day 2023-10-12 My Autumn Almanac: 背高泡立草かく戦えり
四季がある国は少ない、しばしば、三季や二季だったりするものだというが、アメリカのポピュラーソングを聴いていると、春、夏、冬の歌は数多くあるのに、秋の歌というのがほとんど存在しないことに気づく。
イギリスには、レイ・デイヴィスや(アイリッシュだが)ヴァン・モリソンのようにたくさん秋の歌を書いた人がいるのに、アメリカのソングライターでそういう人は思いつかない。「枯葉」(Autumn Leaves)の英語詞はジョニー・マーサーによるものだが、あれは原曲はフランス。フリーハンドで出てくる米国製秋の歌はAutamn in New Yorkしかない。
日本も秋がなくなるんじゃないか、と今年は感じる。この数日は寒い日と暑い日がまだらになっているが、秋日和と云える日は数えるほどだ。
◎人間界という自然環境
今日は外に出たとたん、金木犀の香りがして、ああ、さすがに秋が来たな、と感じた。色づきはじめた柿も多い、でも、百日紅もまだ花をつけている株があるし、西洋夾竹桃も白花はけっこう咲いているし、しまいには、二輪だけ花を残した凌霄花に出くわし、今年のモンスターのような夏が町を蹂躙した傷跡を見る思いだった。
運河を渡る橋のたもとには白粉花が咲いていた。昔はそこらじゅうに咲いていたが、近ごろはあまり見ない。植物に流行り廃りがあるのは妙なことにも思うが、人が植栽するものなのだから、人間界の他の諸々と同じように、もてはやされるものあり、忘れられるものありで当然なのだろう、と思ったら、なんだか嫌な気分になってきた。
いや、人間が手を出さない、山野に自生する植物でも、気候や周囲の植生、昆虫を含む動物相の変化の影響で、盛ったり、滅んだりするな、と思い直した。
いやいや、そもそも、人間は自分たちの営為を特別なものとみなし、自然と人工を截然と区別したがるが、一歩後ろに下がり、地球の外から見れば、人間もまた他の動植物同様、「自然界」を構成するパーツであり、その建築物はハチの巣、アリの巣、鳥の巣のように、「自然」の一部に過ぎない。だから、究極においては、人為による変化も他の要因による変化も同じことだ。
白粉花は、人間が好まなくなるという「自然界の変動」の結果、減ってしまったのだろう。
◎キャベツ対小菜蛾:植物の戦略
そんなとりとめのないことを考えつつ歩いていたら、背高泡立草に出くわした。これまた、諸行無常の花。子供の時、背高泡立草などという言葉を聞いたこともなければ、姿を見たこともなかった。いったい、いつからこんな植物を見かけるようになったのやら。
70年代半ばだったか、矢作俊彦の小説でこの植物のことを読んだような記憶がある。空地の荒れぐあいの描写にあったのじゃないだろうか。背高、と云われて、ああ、あの黄色い花かとすぐに想像がついたのだったような。まあ、こういうのは偽記憶だったりするのはよくあることで、ひょっとしたら、秋の麒麟草と書いてあっただけかもしれない。
どうであれ、気づいたら、そこらじゅうに背高泡立草が繁茂していた。
以前、植物の生存戦略というのを読んだことがある。小菜蛾〔コナガ〕という蛾がいる。「菜」という文字が示すように、アブラナ(油菜)科の植物、たとえばキャベツやブロッコリーなどに卵を植えつけ、幼虫は葉を食って成長する。農業の世界では、農薬耐性がある非常に困った害虫として有名らしく、さまざまな対策が取られていると聞く。
しかし、それとは別に、キャベツ自身も小菜蛾撃退戦略を持っているという。
小菜蛾繭蜂〔コナガマユバチ〕(小繭蜂ともいうそうな)という蜂がいる。これが小菜蛾の幼虫に卵を植えつけるという、悪人の上前をはねる極悪人的存在で、これにやられれば、小菜蛾繭蜂の幼虫は、リドリー・スコット『エイリアン』で、あの兜蟹みたいなエイリアンの幼体に寄生されたトム・スケリット(いや、ジョン・ハートのほうだったっけ?)のように死んでしまう。
キャベツは小菜蛾というギャングを撃退するために、においを発して、この小菜蛾繭蜂という他の組織に属すギャングを誘引し、小菜蛾繭蜂の撃退を試みるのだとか。黒澤明『七人の侍』のぺザントたちと同じ戦略というか、ダシール・ハメット『赤い収穫』タイプの、悪をもって悪を制するプロットである。いや、キャベツはもちろん、小菜蛾も繭蜂も、善悪の観念とは無関係だが!
◎失敗は成功の母、成功は失敗の父:背高泡立草の隆盛と没落
背高泡立草の生存戦略は、キャベツとはだいぶ異なる。背高泡立草は、その根から地中にcis-DME(シス・デヒドロマトリカリエステル)なる化学物質を放出し、薄〔すすき〕などの競合する植物の生育を抑制してみずからの生育環境を広げ、20世紀終盤には、空き地や河原などにおける圧倒的に優勢な勢力となった。
一時は花粉症の原因植物という誤解もあって嫌われたそうだが、わたしは花粉症ではないので、その点を気にしたことはない。ただ人の背よりも高く伸び、無暗に蔓延り、他を圧する勢いなのが気に入らなかっただけだ。くすんだ黄色もすかないし、ディテールが雑で、いかにも垢抜けない姿なのも鬱陶しい。
ところが、十数年前、ふと、背高泡立草があまり見当たらなくなり、昔のような薄の草原が復活したことに気づいた。そればかりではない、薄のあいだに、矮小な黄色い花をつける植物があり、よく見れば、それは背高泡立草が縮んだ姿だった。膝ぐらいしかない植物に「背高」などという名前は、もやはまったく似つかわしくない。
いったい、何が起こったのかと思い、調べて、そもそも背高泡立草があそこまで繁茂した理由が、他の植物には不都合な物質を発して、地域を少しずつ制圧していったことだったのを知った。
そして、彼らが「背低」泡立草になり、薄に領土を奪い返された原因も、侵略に使ったその化学兵器それ自体だった。自分が発する化学物質に自家中毒し、生育を阻害され、衰退したのだという。思わず笑ったが、しかし、まるで人間界と同じだな、と思い当たった瞬間、笑いは引っ込んだ。
◎愚劣な無限サイクル
歴史を見ると、他者を征服、支配するために使った軍備、兵器はしばしばその使用者自身にも害をなす。それぞれ考えは異なるだろうけれど、たとえば、わたしは、徳川幕府を倒したのは、戦国末期を戦い抜くのに利用した幕府の軍隊それ自体だったと思う。天下を取る原動力となった旗本八万旗が、幕府財政の癌となり、最終的にその首を絞めたのだ。
他国の歴史を見ても、そういうことは頻繁に起きている。ナポレオンの治世を見ても、20世紀前半のドイツの有為転変を見ても、そう思う。身を守り、他者を攻撃するための武力が、最終的に命取りになっている。
日本の近代もそうだ。欧米列強の牙から身を守るためのものだった「富国強兵」が、外に向かう力となり、それが制御できなくなって版図を広げた結果、紛争が引き起こされ、最終的に敗れて、アメリカの事実上の属国となった。
背高泡立草を見ていると、厭な気分になる。侵略された事実も厭だし、一度は成功したかに見えた侵略が止まり、衰退したことも、やはり日本の近代史に連絡してしまうところが気色悪い。
調べてみると、自家中毒によって衰退した背高泡立草が、じつは、最近、また勢力を盛り返しているのだそうだ。まったく気に入らない。どの世界でも愚かな輪廻がまだつづいている。