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Day by Day 2023-09-xx 医院待合室の不条理トラジコメディー
◎第一幕 非在の来院者
そもそものことの起こりは知らない。わたしがワクチン接種券と予約票をもってその医院に入っていったとき、ご老人は受付の女性に話しかけていた。
「じゃあ、券は出してなかったんだね」
「ええ、ありませんでした」
云いたいことはこれだけらしいのだが、彼は同じことを何度も確認しつづけ、わたしが予約票を提出するのを妨げつづけた。
あとから起きたことを考え合わせて事情を想像すると、このご老人はなかなか自分の順番が来ないのを不審に思い、その理由を尋ねたのだろう。そうしたら、はじめに箱に入れることになっている診察券を出しておらず、当然、非在の来診者となっていたらしい。
自分が診察券を提出したかどうかもわからなくなる状態なら、誰か付き添いがいるべきだが、独身者なのだろう、大変だねえ、と顔を見なおした。老人の年齢というのは読みにくいものだが、明らかに八十代、それも半ばあたり。帽子の下からのぞける総白髪はすでにだいぶまばらであちこちに地肌がのぞけ、冬の空き地の風景のごとし。立ったり坐ったり、話したり聞いたりに不便はないようだが、どうも認知能力は落ちているように、話ぶりからはうかがえた。
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〇第二幕 じゃあ帰っていいね?
わたしはすぐに呼ばれて接種を済ませ、待合室に戻った。アナフィラキシー・ショックなどのまずいことが起きないかの様子見でしばらく待たなくてはならない。
先ほどのご老人は、また立ち上がって受付に歩み寄り、「じゃあ、診察券はなかったんだね?」と最前と同じことを尋ね、受付の女性は我慢強く、「ありませんでした」と答えた。
こりゃ、リアル繰り返しギャグか、とわたしは吹きだしそうになって、ご老人を改めて眺めた。いや、彼はおおいなる不満を訴えているにすぎず、笑みなどこぼしてはいない。しかし、つぎの一言で、繰り返しギャグ・ルーティンは異なるループに入った。
「それじゃあ、帰っていいんだね」
「いいえ、まだお勘定をいただいていませんから、もう少し待ってください」
ああ、それでこのご老人はいつまでも待合室の中をあっちに行き、こっちに来、坐ったり、立ち上がったり、うろうろしているんだな、と納得した。
受付の女性は診察室から廻って来たカルテか何かを見ながら、PCに必要なデータを入力し、保険資格に応じて割引された診察料を請求し、そのいっぽうで、つぎつぎに来るコロナ・ワクチン予約の人の応対もしている。すごく忙しいのだ。無意味なことを繰り返し聞く変な人は、彼女の業務を頻繁に妨害し、自分で自分の順番が来るのを遅らせている。
どうせ30分待つ身だ、この芝居、最後まで見せてもらおうじゃないかと、わたしはソファに身をあずけた。ご老人は、それから四、五回、「じゃあ帰っていいね」と聞き、「いいえ、お支払いがまだですから、しばらくお待ちください」と拒絶された。まだ、自分で自分の首を絞めていることに気づいていない!
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◎第三幕 銭勘定
それから、数人の来院者が支払いを済ませたり、ワクチン接種の予約に必要な書類の提出をしたり、予約票を渡されたりした。
ようやくくだんのご老人の番が来て、よそごとながら、わたしもホッとした。これで芝居の幕が下りる――はずだったが、仁義なき戦いの山守組長=金子信雄が何があっても死なないように、このご老人も不死身だった。
「380円です」
と云われてご老人は小銭入れを出し、カウンターにバラ銭を並べ、勘定しはじめたが、年を取るとこういうことが上手くできなくなるようで、彼は、受付の人に、勘定してくれないかと頼んだ。
たかが380円払うこともままならないとは、この人の頭のぐあいはちょっとしたところに到達しているらしい。しかも、どうやら十円玉の数は8枚どころではなく、10枚以上あるようで、おはじきでもするような手つきで、彼女は勘定している。ひょっとしたら、全部十円玉で払う気なのか!
「足りませんね」
という言葉に、老人は驚かなかった。でも、わたしは驚いた。380円未満の金しか持たずに、診察を受けたに来たのか。
このあとのやり取りはもうよく覚えていない。老人は、金を出したから、もう帰っていいとみなしたらしく、そうはさせじと、受付の女性は、請求書兼領収書を取り戻し、代わりに何か紙片(金額をメモしたらしい)を渡し、今日、あとで払いに来るように、と念を押した。まあ、患者の住所氏名は記録されているのだから、後払いでもオーケーだね、とわたしも納得した。
しかし、老人は、まだくどくどと、いつくればいいのか、とか、いくら足りないのか、とか、終わったはずの診察券未提出事件を蒸し返したり、芝居がくどいすぎるぞ、とわたしは少し苛立った。
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◎第四幕 リラクタントな助け舟
老人はやっと帰った。と思ったら、また受付に戻ってきた。ここまで来ると、もう笑えない。
彼は鍵らしきものを振り回しながら、差さらないとかなんとか訴えているが、はっきりとは聞き取れず、わたしにはなんのことだかわからなかった。
「わたしはここから動けません!」
彼女はさっきまでより断固たる口調で拒否の意思を示した。我慢の限界に近づいているのはわたしにはよくわかったが、果たしてそれが老人に通じたかどうか。きっと、外で何かあったのだろう。だから、受付から動けないと拒否したわけだ。
ご老人はぶつくさつぶやきつつも諦めたようで、帰ろうと振り向いたら、そこに知り合いが坐っていたらしく、話し込みはじめた。右に曲がるか左に曲がるか予測のつかないナックルボールみたいな人だなあ、と心底呆れて見ていると、老人の向こうにいた人が立ち上がった。八十見当の老婦人。二人が一緒に受付に行き、お爺さんが、380円だ、と促し、老婦人がバッグから財布を出した。
てことは、この人はたぶん、お爺さんの女房殿。それならば、さっきからそこに坐っていたのだから、お爺さんが鍵を振り回して騒いでいる時に、声をかけて落ち着かせればいいのに、なぜ黙って坐っていたのだろう。ナックルボールのような人と何十年も暮らして、ナックルボール色に染まってしまったのか。
お爺さんの胸中は理解の射程外だが、お婆さんの、地殻を割り、マントルを貫いて、地球のコアに達するほどの痛切な「うんざり」は想像できた。また馬鹿が騒ぎを起こしている、勝手にやってろ、知ったこっちゃないわ、ぐらいの気分で、求められないかぎり、助け舟を出すつもりはなかったのではないか?
かくして幕は閉じた。二人が出ていくと、わたしの名前が呼ばれ、接種証明をもらい、やれやれ、刑務所から脱出の気分だね、と外に出たら、そこにあの二人がいた。ターミネーター・シリーズ終盤のようにくどい!
しかし、謎がひとつ解決した。お爺さんは、自転車の脇にいて、うしろのお婆さんに、この鍵がどうのこうのと、ぶつぶつ、くどくど云っていた。
お爺さん、それは無理だよ。受付の女性に、自分の自転車の鍵が差さらないなんて云ったって、相手にされるはずがないじゃないか。
小さなトラブルをふつうの人の何十倍も周囲に撒き散らし、ふつうの人の何十倍ものエネルギーを消費して、簡単な問題をゴルディアスの結び目のように絶対に解決不能な超難問に変換しながら生きる人生を思い、老いとの戦いは果てしなく厳しいぞ、と自分に言い聞かせ、草臥れて果てて帰途に就いた。
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