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幼少期の話1
ご無沙汰しています。
加納鎖ゐ子です。
小学3年生のころまで、私は愛知は三河、豊橋市に家族5人で住んでいました。
4月から、別の市に引っ越しすることがわかって、今まで仲良くしてくれていた友と離れ、新たな環境に胸を躍らせていました。新しいおうちはちいさな借家で、初めてお家を見たときは一軒家だわーい!と兄弟3人で喜んでかくれんぼをよくしてました。
小一時間ほど新居で遊んだあと、そういえば…と前の家からここへ移動するときも、今もいない存在に気づいて
「おとうさんは?」
とお母さんに聞きました。
お母さんの表情が変わって、私たち兄弟3人を呼んで正座させ
「これからお父さんはいません、名字もーーーーに変わります」
と伝えられました。(母親の姓だけどw)全く聞いたことのない名字を言われそこから頭が真っ白になってしまった。
弟も妹もよくわかっていなかったし私自身「離婚」という単語も意味も知らなかったけど、「お父さんはもういない」という漠然とした不安や恐怖でみんなで泣いたのを覚えています。
そこから母親の名字になり、家族4人での生活が始まりました。
部屋が狭すぎて豊橋から持ってきたソファベッドは伸ばしてベッドにすることができず、2mくらいあるバカでかい木でできたテーブルも一度も使わず壁に立てかけていました。
…てかそれ豊橋に置いていけばよかったのにな。持ってきた家具全部バカでかかったんだよね。お母さんはかなり天然だと思う。
部屋が狭すぎたのか、環境が大きく変わった為のストレスなのか1.5あった私の視力も数か月で眼鏡が必要になるほど落ちました。みんな!目は大切にしたほうがいいぜ
後から聞いた話ですが父親とは離婚をする1年前から別居していたらしい。気づかないうちらもすごいなと思うんだけど…父は某会社の営業さんでまあ、忙しいんだろうと…思ってたんだよね当時は!!うちらが起きる前には仕事に行っちゃうし、うちらが寝る時間より遅く帰ってきてたし。
父はバンドをやっていたので土日も出かけてしまうし。別居前からほとんど家にいない存在だったんです。
父親とは離婚後も1か月に一度くらいは会っていました。そういう約束だったらしいです。毎月どこかの日曜日に待ち合わせして1日中公園とかで遊んでた。お父さんの車トヨタのノアだったんだけど毎回私車酔いで吐いてた。そんなことしか思い出せね~
あの時何思ってたんだろう、私ね、昔の記憶がほとんどないんですよ。脳のスペックがあまりに極小で、嫌な出来事を記憶から削除してしまうのね。いじめられてた時の記憶もなくて…頑張って思い出そうと今この文書いててなんか涙が止まらないんですけど寂しかったのかな。片親の家族なんて私たち以外にもいっぱい居るのは分かってるしどんなに幸せそうな家庭も大体はでかい事情抱えてる。でも当事者はうちらしかいないじゃん。だから辛くてしょうがなかった。何より妹と弟に悲しい思いさせないようお姉ちゃんとして頑張ろうとしてた。お母さんの財布からお金盗ってスーパーで毎日アイス5個買ってきて兄弟で分けて食べたり。頑張り方がどう考えても間違ってる。あのお金は大事だったのに無駄にアイス食べてお母さんごめんね
借家に住んでた頃は玄関(ドアがガラスの田舎でよく見るやつ)から脱衣所が丸見えだったり、家に蛇が出たりお母さんの下着を盗む泥棒が出たりしたけど楽しかった。
以前(引っ越し前)の生活感覚のまま、習い事や塾に行きたいとわがまま言ったりした。ちゃんと通わせてくれたよ。そのお金は一生懸命お母さんが働いて捻出したものだと思うと、今な~~~~~~~~んにも身に付いてないことに申し訳なさを感じて思考を止めたくなる。
自分只管屑だなって思うときある。でもお母さんをもうこれ以上悲しませたくない。私は生きる。ぜったい。お母さんあの時引き留めてくれてありがとう。もう死にたいと思わないよ。これから壁にぶつかってもがむしゃらに自分の忍道信じてナルト走りするから。
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