100年前・お花を巡る物語り〜牧野富太郎が繋いだ須川長之助の功績とマキシモビッチの想い〜
牧野富太郎のことは、多くの方がご存知のことと思います。
このnoteは、現在の岩手県紫波郡紫波町で生まれた農家の長男で、植物学者・マキシモビッチ(マクシモービチ)との運命的な出会いによって、植物界に大きな功績を残した「須川長之助」の物語です。
■幕末・開国・明治維新〜激動の時代に
マクシモービチというロシア人の植物学者は、牧野富太郎(以下、牧野)ら明治初期の日本の植物学者からとても慕われて、多くの人を育て、現代の植物相の礎を築いた方です。
時代は幕末・開国・明治維新。サムライ文化から近代国家へ変化する激動期、開国直後の日本にやって来たマキシモービチ。
「日本が開国した」知らせを聞いた彼は、朝鮮へ向かう船を急遽、函館に向けさせ上陸しました。1860年のことでした。
■マキシモービチと須川長之助
須川長之助(以下、長之助)は、牧野が入山する1903年から遡ること37年も前の1866年に、早池峰山に入山した記録があります。慶応2年、江戸時代のことです。
目的は植物採取で、それを命じたのはロシアに帰国していたマキシモービチでした。
宣教師として函館にいた頃のマキシモービチですが、開国直後の日本は外国人の行動制限が厳しく、肩身の狭い思いをしていました。
そんな彼には、自分のミッションを成し遂げるための相棒、信頼の置ける日本人として、自由の効く長之助の存在がありました。
函館で、アメリカ商人から追い出されて途方に暮れていた長之助。偶然にも忍び込んだ教会でマキシモービチと出会います。
そして身辺の世話人となった彼を自らの右腕と認め、信じ、同行させ、時には任せて、学歴もない農家出の若者に、厳しく植物学の手ほどきをしました。
周囲からはロシア人のスパイだとか、売国奴だとかひどい仕打ちを受けながらも、堂々と活動したマキシモービチと忠実に従った長之助。
マキシモービチは長之助の功績を讃えて、新種のいくつかに彼の愛称である『チョウノスキー』を献名しています。学者でもない長之助に対して、この対応は異例で、二人の人柄が伺える感動的な逸話です。
■マキシモービチの死
日本の植物調査に異常ともいえる情熱を傾けていたマキシモービチ。年間の調査費は当時のお金で150円から200円。現代の価値に換算すれば400万円とも。そんな巨額を投じてまで『日本植物誌』を完成させることを目標にしていました。
しかし1891年に急逝し、全巻完成は叶わぬ夢となります。
「マキシモさん」、「チョウノスキー」と呼びあった2人の30年にも渡る交流が途絶えてしまうと、長之助は花の採取をパタッと止めてしまいます。以降亡くなるまで、実家の農業に専心しました。
隠居したあとは植物学を活かして薬草を作ったり、かつての植物採取のアルバムを眺めることもあったと云います。そうして、マキシモービチとの思い出を回顧していました。
マキシモービチの訃報は長之助だけではなく彼を慕っていた多くの方を驚かせ、また悲しませました。牧野もまたその一人でした。マキシモービチの元に、留学を考えていたのです。
■牧野富太郎の気概
記録では牧野は2度、1903年と1905年に早池峰を訪れています。1905年の訪問時は、以下のメンバーで訪れました。
1.牧野富太郎
(43才、東京理科大学、博士)
2.加藤泰秋
(59才、貴族、子爵)
3.三瀬直衛
(子爵の秘書)
4.田中貢一
(24才、植物学者、東京理科大学)
5.山田玄太郎
(32才、盛岡高等農林学校、教授)
6.沢田兼吉
(22才、盛岡高等農林学校、教授)
加藤泰秋が「陸中の高山に、何やら珍しい花があると聞く」と興味を示したことが、遠征の発端でした。植物学で右に出るものの居ない牧野に声をかけ、田中も同伴することに。
現地、岩手県の道案内には、宮沢賢治も後に通うことになる盛岡高等農林学校の山田を指名しました。山田はまだ赴任して浅いため、地元により詳しい若手の教授、沢田を同行させることにします。
こうして最強の植物採取地チームが結成されました。
大洲藩主を勤め武功もあり、天皇に近い貴族である加藤がいれば、便宜・融通がきいた事でしょう。また、金銭的な支援もあったと思われます。
田中、山田、沢田の若手3名は、この経験もあってか、後世に名を残す偉人となります。
隠居生活の須川はこのとき63才。訪問客は少なくなかった須川家でしたので、牧野も調査に当たり、接点はあったことでしょう。
早池峰の調査を終えた彼は、翌1906年の『園芸の友』で39科123種もの植物を附録しました。これは『早池峰山最初の文献』とされています。
採取・同定の確実性はもちろん、それを雑誌の掲載に合わせて報告書を上げる期日は決まっています。
そんな偉業を成し遂げた牧野でしたが、マキシモービチ亡き直後の彼は、生きる目標を失うくらいに落胆していました。マキシモービチや長之助とも深い親交があったからです。
「あの山は珍しい花が沢山あるらしい」と学者の間で噂になっていた早池峰。生前のマキシモービチの思いを、長之助の馴染みの早池峰で実現してくれたような気概を感じます。
この調査において発見されたハコベの新種は、加藤泰秋子爵に献名してカトウハコベと命名されました。これも素敵なお話です。
牧野のこの気概の背景には、また一つ感動の物語がありました。
■幻の花『ドリアス・チョウノスキー』
世界的には、すでに分布地が確認されている高山植物でしたが、長之助が日本で初めて採取した花があります。学名をドリアス・オクトペタラと言います。
しかし後の調査で、これは『同一品種』ではなく『変種』であることがわかりました。
命名『ドリアス・チョウノスキー』として発表する準備をしていたマキシモービチですが、残念なことに、発表前に病気で亡くなります。そしてこの名前が世に出ることは叶わず、幻の花となりました。
そんな悲運の花に奇跡が起こります。偶然にも牧野の元に、長之助のその採集品が回ってきたのです。それを手にした彼は『これが日本にあったのか…』と述べています。彼は長之助の偉業を信じていました。その確証を今、手にしたのです。
■牧野の決断
牧野はずっと思い続けていました。
学名では、マキシモービチらによって長之助に献名された「チョウノスキー」が付く花はありますが、ここ日本では、学名など日本人に馴染みのある物ではありません。放っておけば他の誰かが和名をつけたことでしょう。
比較的恵まれた環境で育った牧野とは反対の人生を歩んだ長之助。貧しい百姓の家で生まれました。文字も書けず、若くして丁稚奉公に出された彼は、集落の恥晒しとまで言われましたが、遂には集落の、そして町の偉人として「長之助さん」と親しまれる人になりました。
マキシモービチ亡き後の長之助は、アルバムを開いて思い出に耽ったりして、マキシモービチとの日々を追体験しているようでした。
時には厳しいマキシモービチでしたが、長之助の功績を自分に事のように喜び評価してくれたと云います。長之助にとって、自分の存在価値を認めてくれた唯一の人物でした。
(今この手元にあるドリアス・チョウノスキーの標本は、偶然ではなく必然かもしれない。長之助さんの地道な努力の賜物であり、マキシモービチの悲願でもあるこの花に、名前を)
牧野は、彼の手元にある標本を見てそんな使命を感じたかも知れません。
長之助の手で採取されて、マキシモービチの没後4年を経て牧野の手元に巡ってきたドリアス・オクトペタラの標本は、1895年「チョウノスケソウ」という和名を与えられました。
このとき長之助53歳。この報せに彼は『おれハ、たいしたごどしてね(私は大したことはしていないよ)』と恥ずかしがったかも知れませんね。
牧野のマキシモービチへの想い、須川長之助の幻の採取品との出会いが、その後の加藤泰秋の呼びかけによる早池峰山への植物採集調査(1905年)にも、繋がっていきます。尊敬していたマキシモービチの悲願でもあったからです。
チョウノスケソウという名前に込められたたくさんの思いは、これまでも、これからも、ずっと変わらずに咲き続けて欲しい。
そして、この数奇なる運命の美しい物語を、未来へ遺していきたい。
100年経っても変わらないもの
長之助は、マキシモービチに褒められることが何より嬉しかったと、回顧しています。牧野富太郎と1903年に早池峰に入った若き山田玄太郎は、須川長之助とも親交がありました。その山田玄太郎の盛岡農学校時代の教え子が、宮沢賢治です。
そして、宮沢賢治はこの岩手を独特の世界観で表現しました。功績はここで語るまでもないでしょう。彼が早池峰を訪れて残してくれた詩は、まさしく、それこそ早池峰という清らかなものです。ぜひ、探してみてください。
あの人変だねと言われても、私欲ではなく、自分を高め、人のために行動できること。朗らかであること。否定せず認めてあげられること。須川長之助と宮沢賢治、どこか似ています。
聖人のように今は思われていますが、『沈黙』のキチジローのような、人間の弱さが彼らの起源。
彼らの共通の舞台である早池峰で、往年の思いを馳せながら空気を感じられることを、私はとても幸せに思います。
時間を見つけて、チョウノスケソウを見に行くことが私の次の目標で、その写真をnoteにアップしたら、やっとこのnoteも完成です。
以下、長之助さんの記念碑を訪れたときのスナップです。
※タイトル画像のお花は、早池峰山で出会ったミヤマアズマギクです。