
マインドフルネス瞑想の3大誤解
マインドフルネスでは禅と同様に目標を定めないとか、何もしないのがマインドフルネスと言われたり、その一方ではリラクセーション法や呼吸法の一つだと思われている面もあります。
確かにリラックスはするけれど、その先がよく分からないといった人は実際、多いのではないでしょうか。そこで、マインドフルネスを取り巻く大きな誤解を3つほど取り上げ、マインドフルネスへの理解を深めたいと思います。
1. 雑念が浮かぶのはダメなのか
マインドフルネスはけっこうもの誤解されていることが多くて、そんないくつかの誤解が日本には多い気がします。そのことが瞑想に取り組んだり、深めたりしていく障害にもなっているようです。
欧米各国では瞑想人口が15〜20%程度まで普及していると思いますが、日本はおそらくは3%に満たないのではないでしょうか。仏教徒が8400万人(宗教年鑑,2022)もいるのに、です。
日本ではマインドフルネスが広がらないのはもしかしたら仏教国である故の誤解の多さ故なのかもしれません。
マインドフルネス瞑想でいちばんよくある誤解は①「雑念が浮かんではダメだ」と思うことでしょう。
次に出てくるのが②無にならないといけないと考えることです。そして、③判断や評価をしてはいけないという解釈の課題があります。
だいたいこの3つが大きな誤解を生んでいて、大きな壁になっていると思うのです。これらでっかい壁を「マインドフルネス瞑想の3大誤解」と、私は呼んでいます。
◎雑念は必ず浮かんでくるもの
まず、雑念は必ず浮かぶものと考えたほうがよいですね。
雑念が浮かばなくなる人はまずいません。瞑想を繰り返していると雑念が減ってきたり、ときには出なくなったりすることは確かにありますが、そんなことはどちらでもよいのです。
「雑念が出た」からと言って、そのことを否定したり、ダメだと思ったりすると瞑想はとっても辛いものになっちゃいます。自分は瞑想に向いてないとか考えたりするのです。そんなことを思う必要はまったくありません。
日常生活を送っていると、必ず「未完了」な出来事が起こります。
あの後はどうなったのかな? 中途半端になっていること、うまくできなくて後悔していること、気になりながら手がついていないこと、結論が見えないといったことばかりです。
たまにスッキリ片付くと、どれだけ気持ちのいいことでしょうか!
ともかくも、それら未完の出来事、たくさんのことが何度もリフレインされます。
そのおかげで忘れ物に「はっ!」と気づいて助かったり、余計なことを思い出して、落ち込んだりもしますね。
そんな数々の「気になること」が脳の中でブレイバックしているのが雑念です。これは脳にあるフェイルセーフ装置みたいなものだと思って下さい。
ちょっと「うっとうしい」のですけど、雑念のお陰様でどれだけ助かったことかと振り返るのは、私だけじゃないと思います。
瞑想をしているときには雑念がどんどんと出てくるように感じるかもしれませんが、例えば仕事をしている途中、通勤電車の中や場合によっては、ビジネスの交渉中でさえ、「あれ!忘れていた」と、気になっていることがふと頭に浮かぶことがあるでしょう。
このように今、目の前にある課題とはまったく別のことを考えたり、気持ちが向いたりしちゃうわけですが、ハーバード大学の研究によれば、なんと約47%もの時間は目の前のこととは別のことを考えているそうです。

仕事をしていても、ご飯を食べていても、誰かとおしゃべりをしていても、エッチなことをしているときでさえ、平均すると約半分の時間は目の前こととは別のことを考えちゃっているわけです。これがいわば雑念ですね。
◎それた注意を戻すことが大切
自分の意識はこんなにフワフワとさまようのに、そのことにほとんど私たちは気づいていないだけなのです。
例えば、次の食事のときにちょっとだけ試してみてください。たったの5分でよいので、食事のことだけに注意を集中してみましょう!
ほとんどの人は、おそらくは1分もしないうちに、必ずといっていいほど食事から注意が逸れるはずです。
例えば、食事から連想したこと、食後の予定、食事前に起きたことを思い出す、いくつもの出来事に注意はフラフラと出かけます。
しかし、そんなことに私たちはあまり気づいていません。「ちょっとどこを見ているの?」と、学校の先生から注意されるまで、自分が窓の外を眺めていたことにすら気づいていません。
自分の注意がどこに向いているのか、自分が何に気づいているのか、そんなことに私たちはまったく気づいていないのです。その証拠が皆さんの「雑念ばかり出ました」という感想です。
「それ、いつまのあなたそのものですよ」ってことですね。
例えば、マインドフルネスでの呼吸瞑想では呼吸の感覚に注意を集中してもらいます。そして、「呼吸から意識がそれた」と気づいたら、また呼吸に注意を戻すように伝えます。
すると、「呼吸から注意が逸れるのは失敗だ」「集中力が足りない」「だから勉強もちゃんとできないのだ〜」とかとか、思うわけです。
そして、また失敗したと自分をいじめちゃう。ほとんどの人がだいたいこうなります。
でもね、これは呼吸にちゃんと注意を向けようとしているから「注意がそれた」と気づくわけです。ここが大切ですね。しっかり瞑想をしようとしているわけです。
ご飯をちゃんと味わって食べようと意識すれば、そこから意識がそれたことに気づきます。まったく同じです。
そして、私たちの注意は必ずそれるものなのです。逆に、それないでいたら大変ですね。「仕事に集中していたから、火事になったことに気づかなかったよ」となれば、あの世行きですね。
ここで大切なのは①注意がそれたことに気づくことなのです。次に、②それた注意をまた元に戻すことが重要です。
この「気づいて戻すこと」が集中力のトレーニングとなります。「心の筋トレ」にも、腹筋や腕立て伏せみたいに繰り返しが必要です。そのタイミングを作ってくれるのが「雑念」ってやつです。
雑念に気づく・戻す、気づく・戻す、気づく・戻すと繰り返すことが「心の筋力トレーニング」となります。
瞑想を続けていると、雑念は確かに減ってはきますが、それはあくまでも結果であって、目指すものではありません。瞑想中はむしろ雑念が浮かんだことに気づいた自分を褒めてあげて、注意を戻せることを誇りに感じてください。
2.「無」にならなくちゃいけない?
いやー、マインドフルネスでは「無」にならなくても、いいですよ。いや、そんなのムリムリ、もっと気楽にやりましょう! ところで「無」になるって、どうなること??
◎いったい何が「無」になるのか
瞑想会に初めて参加した方では、「無になれませんでした」との感想がよく出てきます。禅の影響なのでしょうか、「無念無双」なんて言葉もありますね。
ところで「無になる」とは、どうなることなのでしょうかな?
皆さんが何を指して「無になれない」と感想を述べておられるのか、時々、質問してみますが、ご本人もよく分からないことが多いようです(笑)。
おそらく、先の雑念が湧くことを指しておられるのかなと想像します。あるいは、自身の何某かの欲望や執着を断ち切れないといったことを思っている方もいるかもしれません。
いずれにしても、この生身の肉体を持つ我々、そう簡単には「無」にはなれないでしょう。
ちなみに「無我」という言葉がありますけれど、この「無我」の状態を目指すのが禅だと思っている人もいるのかもしれません。これも正しいとも、間違いともいえない微妙な課題です。
よく「無我の境地」といわれます。おそらくは「我」への執着をなくした状態のことで、「我執」のない状態、つまり自分の思いや欲望に囚われてはいない状態ということなのでしょう
この「私心」のない状態、「無心」の状態を「無我」といったりもするようですね。そして、一切の欲望を断ち切るとなれば、即身成仏となるのでしょうか。
いや、そんなことマインドフルネスの教室で教えたりはしません。
心が乱れないとか、無心になるとかいう意味で「無」になれないと言われのかもしれませんが、5分や10分の瞑想、あるいは1日や2日くらいの瞑想で、欲望を手放したり、自身の価値観を離れたりすることなど、無理ですね。
私なんか、かれこれ20年以上になりますがまったくできません。

たまに、「小西さんは悟ってないのですか?」なんて、イヤなことを聞いてくる人がいます。「そんなの無理ですよ」と返事をすると、ちょっとつまらなそうにされますね。
修行者となるなら分かりませんけど、 心のケアや心の安定のために「無心」になる必要などありませんし、なれるはずもないでしょう。「無心でござる」みたいな達磨さんの絵を見て、そうならないといけないと思うのでしょうか。
そもそも「無我」の意味も、もともとは先ほどの「無心」の状態のことではありません。
仏教用語に「諸法無我(しょほうむが)」という言葉がありますね。「諸法」というのは、この世に存在する一切のものですね。
あらゆる存在すべては「無我」であるというのが「諸法無我」の意味で、この「我」というのはバラモン教でのアートマンのことを指し、「独立した不変の実体」を意味します。このアートマンに否定の接頭語をつけた“アナートマン”が無我の元の言葉ですね。
釈尊は「アートマンなんてないよ(無我)とか、「それはアートマンではないよ(非我)」と、言いました。
そんな「永遠の実体なんてありゃせんわ」というのがお釈迦さまの発見です。
ですから「諸法無我」とは、この世界のすべての存在は、周囲との関係で成り立っている、相互に変化しあいながら存在していることを表しているようです。なので「無我」は目指す状態ではありません。誰だって「無我」なのです。
あなたも私も、生まれたばかりの赤ちゃんも、石ころも、ミミズだって、オケラ、アメンボだって、みんな、みんな「無我」、「諸法無我」なのです。
「無我」になろうと努力する必要は1ミリもありません。
これら「雑念が浮かぶのでダメだ」という誤解と、「無にならないといけない」という2つの誤解は日本人の「禅」についての理解や誤解と関係しているように感じます。
この2つの誤解から、マインドフルネス瞑想について誤った概念は広がり、とてもできそうにもないことを目指す結果となっています。
そりゃーイヤにもなっちゃいますね。しかめっつらして、何年も壁に向かって坐っていたりすると、脚は痛くなるし、退屈だし、何の生産性があるのかよく分からない。それでいて、「何もするな、ただ坐ってなさい」とか言われても、ね。
「そんなのムリ、ムリ」とたくさんの人が思うのもムリはありません。
◎無になる意味とは
仏教では輪廻転生なんて言いますけどこの仕組みが12縁起ですね。無明から始まり、(途中は覚えてないです)老死で終わるのですが、この「死」の後に無明がまたぐるぐるとスタートするわけです。因果というか、原因があって結果に至るのですが、「死」至るときにこのボディやこの世界への執着が残り、その想いが次の世代の無明に引き継がれるというわけです。
というわけですから、何の執着も、心の作用も一切を残しちゃいけない。「無」になることで輪廻転生しなくなるよ、この世の苦しみから解放(解脱)されますということですね。
禅定はいくつかの段階に分かれますけど,最終的には滅尽定(めつじんじょう)を目指します。これは心や感覚、意識などの働きが完全に止まる状態のことで、ほとんど失神しているようなものです。そうなれば、縁起は働かなくなり、解脱できるわけですね。
言ってみれば、これが「無」になるってことなのでしょうか。
ですから無我というのも、「執着のない状態」という意味で使われる場合と、「アートマンのような存在はない」という意味とあり、だいぶニュアンスは異なります。
いずれにしても、これは仏教世界のお話であり、マインドフルネスは「無」になることを目指すわけではありませんし、「無」とは何かの定義もしません。
3.怪しさ満点の「気づき」とは
マインドフルネスは「無」を目指さないなら何を目指すのか? 究極は何も目指さない、目的を手放すトレーニングとも言えますが、これだけだと何だかよくわかりませんね。
一言でポイントを述べると、「あるがままに気づくこと」がマインドフルネスです。でも、これだけだとやはり分かりませんね。
◎気づきとはなんだろう?
この「無」なのか、「気づき」なのかの実はかなり大きいのです。
とっても重要、かつ本質に迫る課題なのですけれど、少し後回しにさせてもらって、まずは「気づき」について簡単に触れましょう。
「気づき」なんて言われても、だいたいの人は何のことだか分からず、困っちゃいますよね。この何だか微妙かつ怪しさを醸し出しています。
もしかすると、かつてあった「自己啓発セミナー」なんかを連想させちゃったりする人もいるかもしれません。
人生の課題に気づくとか、仕事の意味に気づいたとか、何だか大きな「気づき」のことをイメージされる方も多いかと思います。
生きる意味を見出したとか、そんな感じですよね。
しかし、マインドフルネスの「気づき」というのは、こんな大層なものではなく、もっとシンプルです。
むしろ余分なものをどんどんと削ぎ落としたいちばんシンプルな「知覚すること」そのものですね。
音に気づくとか、花が咲いていると気づくとか、風が冷たいと気づいたなど、ただ五感で感じて、気づくことそのものを指します。
実はこのようにシンプルだからこそ、気づきはちょっと厄介でもあるのです。珍しいわけでもなんでもなくて、そこらじゅうに転がっている普通の気づきのことです。
水をこぼしたときに、「ちょっと気をつけなさいよ」なんて言われる、日常的な気づきなのですね。
うっかりさんは、「気をつけなさい」とか言われちゃったりするわけですが、英語で言うと、これは「Be mindful」になります。

ですから、マインドフルネスとかいうと、「心がいっぱい」ということで、「優しさや思いやりに溢れている」といったイメージを持つかもしれませんが、「よく気がつく」とか、「注意深い」といった方が近いですね。
いずれにしても、あまり大層な「気づき」でもないので、何が目的なのか、どうすればいいのか、よく分からなくなっちゃいます。
ポイントをまとめると、自分自身やこの世界の状態に「あるがままに気づくこと」ということになります。
◎あるがままに気づく
この「あるがままに気づく」というのが、なかなかの曲者です。というのも普段の私たちは、あるがままに気づいていないということになります。
ここに私たちのエゴが関係してくるというわけです。
わかりやすく言えば、「欲に目が眩んでいる」ということですね。難しくいえば、「自分なりの価値観や考え方から物事を判断している」ということになるでしょう。いってみれば、これが偏見や先入観と紙一重ですね。
何の偏見もなく、まっさらな目で、あるがままに物事を観察するなど、果たして可能なのでしょうか。
ここに、3番目の「評価や判断をしない」という課題が出てきます。
評価や判断をしないというのは、まさに「あるがままに気づく」というのと同じ意味です。
私たちはどうしてもここに「我見」や「我執」が働いちゃうわけです。仏教的にはそれを「無明」といって、私たちは「妄想」の中にいます。そんな視界にかかるモヤ、霧を晴らして、物事を素直にあるがままに観ることが智慧となります。
ところで、先述したように、禅のいう「無」と、マインドフルネスの「気づき」には実は大きな違いがあります。
仏教瞑想は、集中型のサマタ瞑想(止瞑想)と観察型のヴィパッサナー瞑想(観瞑想)の2つに大きく分かれます。これらを止観といったりもします。
この集中型がいわゆる禅定とかサマディと言われるタイプの瞑想で、心の動きを止滅させます。
いわば「無」となる瞑想です。心の動きを止滅させることで輪廻から解脱するのが元々の意味です(日本の禅では必ずしもそんなふうに考えません)。
もう一方の観察型の瞑想、ヴィパッサナーというのは、パリー語のパッサーナ(passanā:見る、観察する)に、ヴィ(vi:特別な,優れた、よく)という接頭語にをつけた言葉で、「物事を正しく観る」「あるがままの観察」といった意味となります。
このヴィパッサナー瞑想を現代風にアレンジしていったのが、いわゆる「マインドフルネス瞑想」というわけです。
ですから、禅でいう「無」には輪廻から解脱するという目的がありました。執着を離れるとか、自己意識がなくなるという意味での「無我」だったりします。
一方、あるがままの状態を観察する「気づきの瞑想」では、五感に入ってくる情報そのまんまに気づいている状態であり、これは完全に目覚めている状態です。無になっているわけでもなんでもありせん。五感は明瞭に働いています。
とはいえ、ここに「我見」はありません。自分なりの価値観や欲の視点はなく、その意味での「無我」の視点からの観察となるわけです。
このことが無明の克服、真理を知ることによる苦しみからの解放、いってみれば「究極のストレス対処法」となるのです。
4.評価や判断をしてはいけないのか?
いよいよ3つ目の「判断しない」という誤解について述べたいと思います。「えー? でも、ジョン・カバット-ジン博士も“判断しない”って、言ってるじゃないの。それなのに、誤解ってわけ?」。そんな声が聞こえそうです。
◎判断してはいけないことが深刻な壁となる
この3番目の誤解はけっこう深刻です。マインドフルネスに取り組むたくさんの人たちの長年の悩みの種となっているでしょう。私も、かつて10年以上は悩んで、苦しみ、考え込んでいました。
マインドフルネスでは「評価や判断をしちゃいけない」と、よく言われます。マインドフルネスの神様みたいなジョン・カバット-ジン博士がそう定義したのですから、ほとんどの人は文句なんか言えませんよね。みんなひたすら頑張ります。
けれど、「評価や判断を手放す」ってことは、本当に難しいのです。これも「無」になるのとちょっと関連していそうです。
ところで、何の評価や判断もしないで生活することなど、そもそも不可能です。人間ですから好き嫌いはあって当然ですし、良いとか悪いといった判断もせず、落ちている団子を拾って食べるわけにもいきません。信号が赤なのに「止まる」という判断もせずに道路を渡れば、それこそ車に轢かれて「無」になっちゃうでしょう。
判断することをマインドフルネスは否定しているわけではありません。そんなことをしたら、明日から、いや今日からもう生きてはいけません。
そもそも何かの行動をする場合には、そこには必ず目的があり、判断や評価が必ず伴います。
これは避け得られません。判断することなく、私たちほんの一歩たりとも、歩くことさえ叶わないでしょう。
このことに、たぶん誰も反論できないと思います。
それなのに「判断しない」なんていう無茶ぶりをされて、マジにそれに取り組もうとすればするほど、私たちは悩んでしまい、場合によっては瞑想に取り組むほどストレスをためちゃうなんてことにもなりかねません(はい、笑いごとです)。
◎ジョンのいう「判断しない」とは?
では、ジョン・カバット-ジン博士の定義は間違っているのかといえば、もちろんそんなことはありません(恐れ多い)。
私も10数年前に直接、面と向かって、彼から聞きました。「判断はしていい」のだと・・・。当たり前ですね。
とはいえ、やはり何だかよく分からなくて、その後も悩み続けました。
ちなみにマインドフルネスでは何だかよく分からないことがよく出てきます。説明を聞いても分からないのですけど、あるとき、ふと腑に落ちるんですね。そんなことがよく起こります。
それはともかく、おそらくここには2つの大きな課題があります。この2つを理解していただければ、心の負担はかなり楽になると思います。
1つ目は「判断しない」ということの意味ですが、カバット-ジンは英語で “non-judgmentally” と表現しています。
この言葉は実は日本語の「判断」とはややニュアンスが異なっており、審判や価値判断といった意味となります。これが誤解の始まりだと思います。

日本語では「これは“りんご”だ」とか「“車の音”だ」といった事実の認識や「信号が赤だ」といった識別についても「判断」という言葉を使います。遠くから鳥の鳴き声が聞こえて、「あっ鳥がいる」と思います。私たちはこれも「判断」だと考えますが、これは英語の“Judgement” ではないのです。
音はただの音として受け取り、鳥の鳴き声であるといったことも思い浮かばず、ただの音として捉えるといった考え方も確かにあります。けれど、これは至難の技、マインドフルネスでそこまでやる必要はありません。この言葉の問題が1つ目の課題です。
とりあえずは、ジョン・カバット-ジンのいう「判断しない」というのは、良い/悪い、好き/嫌い、正/誤、善/悪など、いわゆる価値判断をしないと考えてください。
虫の音を聞いて、秋の情緒を感じる人もいれば、「うるさいなあ」と思う人もいる。この虫の音をまでは事実の認識として、その後に好き/嫌いといった判断をしないとまず考えておいてください。
◎「現成公案」の示す意味
曹洞宗の開祖、道元禅師の著書『正法眼蔵』の最初に出てくるのが「現成公案」です。
この「現成」や「公案」や『正法眼蔵』を解説できるほど私は理解していませんが、このタイトルがちょっと気になるのです。
まず、「現成」とは、「目の前に、ありのまま現れること」を意味します。
後ろの「公案」は、「国家の法令のこと」を指しています。禅問答に出てくる問いかけのことを公案とも言いますけれど、原義は「法令」のことです。
法令ですから「公案」に対して、あれやこれやと文句を言っても無駄です。ルールに対して好き嫌いを言ったり、個人的な視点から正しいとか間違いだと主張したりしても仕方がありません。
つまり、公案とは「個人的な感情や価値観を挟むことなく、守るべきこと」を意味するわけです。
というわけで、この二つの言葉からなる「現成公案」は、「目の前にあることそのまま、あるがままの真理であり、そこに私的な価値判断を加えない」という意味となります。
まさに、マインドフルネスの定義と同じだといってもよいでしょう。このことに気づいたとき、私はちょっとびっくりしました。
また、現成公案には、かの有名な「仏道をならふといふは、自己をならふなり」とありますが、仏道は「自分自身を知ること」だというわけです。
この「自己をならふといふは、自己をわするるなり」と続くわけですが、自分自身に執着しては自分のことが理解できないわけですね。自身の価値観を保留することが大切であり、判断評価を置いておくわけです。
そして、自己をわするるといふは、「万法に証せらるるなり」と言います。
自己にこだわらないからこそ、そこで得られるものには普遍性があり、万法(この世の全て)によって自己という存在が示されることとなる。
このことは「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と書かれています。自己も他己も同じように、心の自由を得ることとなる。
今のところはこんなふうに理解をしていますが、「身心脱落」というのがまだ腑に落ちてはいません。
いずれにしても、「現成公案」はこんなふうに書かれており、マインドフルネスでも同様、出来事を「あるがまま」に観察しようとすればするほど、自身の執着に気づき、その囚われから少しずつ開放されることで、心の自由を得ます。
マインドフルネスの考え方は、実は「曹洞禅とかなり近い」のではないかと想像しています。
5.「質の高い判断」のためのマインドフルネス
判断しないってことを言葉の意味から考えましたが、今度は時間軸に沿って検討したいと思います。判断はいつどのようにするのか? これは自動思考とも関わってくる課題です。
◎マインドフルネスは判断することを否定しない
先ほど述べたように、「マインドフルネス」は判断することを否定していませんが、カバット-ジンは明確に “non-judgmentally” と述べていますし、彼の発言のなかでは、“present moment” (今、この瞬間)と同じくらいよく出てくる大切な言葉です。
では、この言葉をどのように理解すればいいのでしょう。
ここでは時間軸からまず検討します。虫の音が聞こえてくるのは、空気の振動が鼓膜に当たるからです。単なる物理現象です。
それに対して、過去の記憶と照らし合わせて、「虫の音」だと認識するとともに、「うるさいなあ」とか、「秋だな」といった印象が浮かんできて、そこにはもう判断が入ってきます。その後、さらに連想が進むわけですね。
その「秋」から恋人とのデートや紅葉を連想するかもしれないし、「うるさい」から何か別の騒々しいことをイメージするかもしれません。人の記憶は連想ゲームのように展開していきます。すると私たちはもう思考のなかに埋没しています。
マインドフルネスの「判断しない」という意味をもう少し詳しく表現すれば、「感情に流されたり、過去の経験や先入観に囚われたりすることなく、客観的かつ冷静な視点から出来事を観察すること」だと考えてよいかと思います。
ここで大切なのは、その判断がどれだけ個人的な体験に影響されているのかどうかです。「虫の音」という事実の認識(Recognition)はあっても、その後に展開する「好き/嫌い」などのジャッジメントの要素の入っていないところがマインドフルネスとなります。
これだけでもだいぶ気持ちは楽になりますよね。
この「マインドフルネスのプロセス」を経ることで、私たちは事実に基づいた「質の高い判断」が可能となります。
判断の段階は、あくまでもマインドフルネスを経た後にやってくるのです。「判断という行為はマインドフルネスには含まない」と言った方が分かりやすいのかもしれませんね。
繰り返しますが、「質の高い判断」を行うために「判断をしないマインドフルネスのプロセス」が必要です。
これはとっても大切なポイントです。ここさえ理解できれば、マインドフルネスの「判断しない」に戸惑わなくなるでしょう。
◎色眼鏡を少しずつ外していく
「質の高い判断」には、色眼鏡で物事を見ないということ、つまり客観的な視点で物事を観察することが必要だ、と表現すれば誰もが納得されると思います。
ある意味、当たり前なので、「そりゃ,そうだ」で終わりそうですけれど、ただそういうことだと、まずは捉えてみると、そう難しくは感じないでしょう。
なのに、音が聞こえてきた途端に「虫の音だ」、「車の音だ」と判断しちゃった、「○○さんの声だと思った」、「これじゃ、ダメだ」と思っていると、とてもとても身が持ちませんし、トレーニングは進みません。ダメダメ、ダメばかり出されると、トレーニングできませんね。
そこはそれと認識して、ただそのまま受け取ります。「○○さんの声はうるさいなあ。あの人はいつも声が大きくて苦手だなあ」といった価値判断が出てきても、自分が「価値判断をしたな」と気づいて、それをとりあえずは棚上げしておくわけです。これって、自分が判断したと気づけば、棚上げもできますね。
とはいえ、そう簡単ではありません。客観的な視点から、出来事を「あるがままに観る」ということを心掛けていると、そこに自分の色眼鏡がどうしても入ってきてしまうことに気づくでしょう。
最初はこの「気づき」が大切です。次第に少しずつ、気づくことで「色眼鏡を外す」ことができるようになります。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。まあ、いいかといった「ネガティブ・ケイパビリティ(不確実で曖昧な状況に耐える納涼→判断を保留する能力)が身についてきます。
「誰もがみんな苦手というわけではない。大きな声だからこそ、いいことだってたくさんある」といった別の見方ができることにも気づきます。
これも価値判断の一つといえば、それまでですが、これはもう自動思考ではありません。自分の判断を観察した上で、その判断を保留しつつ、一般化した視線から観察できているのです。

最初から「色眼鏡をかけて観てはいけない」といっても無理です。「あれ? 色眼鏡で観ちゃったな」と気づくことができれば、自身の認知を修正することができます。
これで十分だと考えてよいと思います。それぐらいに考えることで、少しずつマインドフルネスの精度は高まっていくでしょう。
★ ★ ★
マインドフルネスの意義はどこにあるのか? 話があちらこちらへと散らばったので、ここで少しまとめます。ズバリ! 重要なポイントだけ述べますね。
①自動思考&自動行動に気づくこと
②自動行動に至る前にいったん保留・観察すること
③その間に冷静さや客観性を取り戻し、広い視野からの意識的な
行動選択を可能にすること
ちなみに①の自動思考の多くにネガティブなものが含まれるため、ここからストレスは増大します。
②というマインドフルなBeing モードを経ることで、自動行動は阻止され、より適応的な行動(ストレス対処)が可能となります。
マインドフルネスは気持ちの冷静さや客観性を必要とするものであり、その状態そのものにリラクセーション効果があります。
6.マインドフルネスを実現するために
この話題、思ったより長くなってしまいましたが、そろそろ終わりにしたいですね。理屈が多くなったので、最後は具体的なノウハウにしましょう。
◎では実際、どうすればいいのか?
ここまで理屈中心に述べてきましたが、いよいよ現実の生活でどのようにマインドフルネスを使っていけばいいのかを書いてみたいと思います。
まず①「あるがままの観察を心がけます。これが判断しないということ。好き嫌いや良い悪いなど、過去の体験に囚われないということであり、自動思考という習慣行動を止めることです。
とはいえ、私たちは自分の経験のフィルターを通じて、②物事を評価し、判断しちゃいます。それが自動思考なわけですし、③自動的に行動しちゃっているからこそ、修正が難しくなります。
私たちの自動思考は、過去の「学習の成果」です。自動的に思考し、行動できるからこそ、エネルギーロスの少ない素早い判断と行動が可能になっています。ただ、このオートマ機能の精度が課題となります。いざというときに暴走してもらっては大事故になりますね。
さて、脳はとても大量のエネルギーを消費する臓器ですから、効率的に使わないといけません。過去の経験を活かさず、前回と同じことなのにちっとも効率がアップしないと「学習能力がない」といわれちゃいます。
一方、マインドフルネスは「初心」で物事を観察することです。過去に経験したことであっても、まるで初めての出来事のように接して、過去の経験に囚われずに「あるがままに観察する」わけです。
このマインドフルネスの知恵を元に私たちは行動を起こすことになります。それが予断や偏見のない判断や行動ではありますが、見方を変えると「学習能力のない行動」となるわけですね。
ですから、マインドフルな行動はとても効率が悪いわけです。燃費が悪くてハイスペックなフェラーリみたいな「脳」という臓器を無駄遣いすることになります。
こんなマインドフルネスをいつも使っていれば当然のことながら、効率は落ちます。「ここぞ!」という必要なタイミングでこそ、使う必要があるわけです。
◎いちばんの課題はマニュアル操作への切り替え
もう答えは出ました。ターゲットは自動操縦ですが、何でもマニュアル操作にするのは脳の無駄遣いです。
自動操縦では問題が起きるような場合にだけ、マニュアル操作(Being モード)に切り替えるのが理想的です。これこそがマインドフルネスの成果であり、目指すところでしょう。
それには、前述したように①日常生活のほとんどが自動操縦(Doing モード)になっていることに気づくことが必要です。
次は必要に応じて、②マニュアル操作へ切り替えます。自動操縦をいったん保留し、マインドフルに観察する(Beingモード)ことで、感情はクールダウンし、私的な価値判断や解釈から私たちは自由になります。
そして広い視野から、③より最適な行動を選択し、ことを進めます。これがマインドフルネスのプロセスを経た「質の高い判断」ということになります。
こうした「質の高い判断」を行う上で、最大の課題は「必要に応じて自動操縦を保留し、Being モードで切り替えることです。この一点さえ突破できれば、他は自動的に流れるといっても良いでしょう。
この手法として、例えばSTOP法やRAIN法、あるいはSOBER法などいくつかの方法が提案されていますが、基本はどれもほぼ同じです。