21歳の私、
21歳の私にはたくさんの出来事があった。
小学生の私の誕生日に祖父母の家に親子の迷い猫が来て、子猫の2匹を飼うことになったのだが、その猫が死んだ。1匹は5年目の夏に行方をくらましてしまって6年目からは1匹の猫と祖父母との暮らしになっていた。
まず祖母が寝たきりになった。
そして後を追うように介護疲れと腎臓を悪くしていた祖父が倒れた。
通院中の病院での出来事だった。
私や私の弟で祖父母の通院や介護の手伝いをしていた。そんな矢先のことだった。
私は手術のできる大きい病院に緊急搬送される祖父の付き添いをすることになった。酸素チューブをつけ、車椅子に項垂れるように座る祖父を目の前ない祖母も車椅子に座って泣きながら手をさすっていた。祖父は苦しさもあっただろう、祖父も泣いていた。周りから見れば仲睦まじい老夫婦がお互いを労って、心配をしている様子にしか見えなかっただろう。
私は正直に言うと気持ち悪い光景だと思ってしまった。
どうして、と思うだろう。だって家では祖父は介護うつから祖母に暴力を振るい、祖母は怯え、夜になると狂ったように唸り、祖父はそれを叱咤し、孫の私たちが間に入ってそれをとめ、自力で動けない祖母を庇い、補助をかわるという日常があったからだ。
幸いにも弟に連絡が取れて、大学の授業を抜け出して祖母を迎えに来てもらうようお願いした。私は祖父に付き添って救急車に乗り込んだ。搬送先まで30分かかる間に父と叔母に状況説明や搬送先の病院など詳細をラインして、父には来れるなら遅くても最終便の飛行機に乗ってでも来い、と伝え、叔母には仕事から帰宅したらなるべく早く祖父母宅と病院に来てくださいと伝えた。
私は搬送先の病院で緊急手術の内容や手続きと緊急入院の手続きなどひとりで説明を聞き、記入し、手術が終わるのを待った。説明や書類の手続きをする度に娘さんですか?と聞かれた。その度に呆れたように孫ですが成人して働いているので手続きや書類関係の記入に問題はありません。と答えた。
あの時は呆れたが、今思えば、そりゃそうだろう、と思った。常識的に考えて緊急搬送についてきたり、介護をしているのは順番的に子がしているのが一般的なのだから。
手術も無事終わり、緊急透析が終わった祖父の入院準備をすることになった。父が遅れてやってきて、開口一番私に言ったのが「俺、何したらいいのか全くわからない。何を揃えたらいいのかも全然見当がつかない」だった。いい年した大人の男の人が入院に必要なものや、するべきことがわからない、なんて、と、怒りではちきれそうになるのを抑えながら「必要なものは大抵100均で揃うから取り敢えずお金、お金出して。揃えるから」と我ながら酷い言い方をしたと思う。
私自身26歳になった今、嗚呼、社会に出た時に人間そこで方向性が決まって成長しなくなるんだ、と。もちろん向上心がある人間も大勢いるだろう。でも大抵の、普通の安定を求めた人間はそこで止まってしまっていることが多くて意外にも何も出来ない事が多いのだ、と。
21歳の私は兎に角、余裕がなかった。時間にも心にも身体にも。ギリギリスレスレで毎日を過ごしていた。今よりもずっとキレやすくて、心が狭くて(今もあまり広くはないけれど)、弱くて、正義だけが正解だった。
5年の間に色んなことがあって、時間だけはとにかく腐るほど余るような生活になりつつある。
私の好きな本にも漫画にも似たような台詞があって、「何年かしたらその時の怒りや感情はどうでも良くなることが多い」みたいなのがある。確かにそうだな、と感じることが増えた。増えただけで、消えない怒りや感情もまだまだある。
いつか昔の怒りの感情が消えてくれたら、まだ少しは生きやすくなるのかな。
生きること、頑張りたくはない。けれど、生きてしまっている以上、苦しみたくはない。贅沢に聞こえるだろうし、贅沢な言葉だ。でも、望むのは悪い事じゃないだろうから、「21歳の頑張っていた私よ、5年も経てば図太くなる場合もある」と夢にでも出て言ってあげたい。おそらく、21歳の私は今よりも余裕がないから信じないだろうけれど。
おしまい。