偽りのセレンディピティ。
偶然を大切にしている。
人との出会い。本との出会い。音楽との出会い。
たまたまその時間、その場所にいた瞬間しか巡り会えない。
仕事も、旅行も、恋愛も、出逢ったものはみな偶然の産物である。
「乱読のセレンディピティ」という本がある。
著者の外山滋比古は思考の整理学で知られるようになったが、専門の英文学やエッセイも膨大な数を書いている。
20代中盤の時に出逢った、読書経験の起点となった本といっても過言ではない。
私の本の読み方は乱読である。
小説、エッセイ、雑誌、ビジネス書。
すべてつまみ食いするように貪り読む。
「セレンディピティ(serendipity)=思いがけないことを発見する能力。」
手当たり次第に読み、その本で思いがけず気になったフレーズを1ページでも出逢うことができたらラッキー。
偶然の出会いを最大限に実感するために、情報のアンテナを張り巡らせている。
真水を染み渡らせるように脳の隅々まで考えを巡らせること。
常にこの感覚を持つようにしている。
朝の散歩でも街の風景は刻々と変わっていて、
たとえば新築中の一軒家の前を通ると「今日は土台までが完成している」「柱が立ったなあ」「窓枠がはまっているな」という風に昨日までの風景とは同じように見えて微妙に違う。
そういう発見が楽しいので続けられる習慣になっている。
ただ、偶然と思っていたものが実は必然(こじつけかもしれないが)だったこともある。
いきなり過去の話で恐縮だが、中学の同級生とお付き合いしたことがあった。
3年間クラスは全く違う。
相手は当時バスケ部で、背が高くスラっとしていた。
私はテニス部で、時折テニスコート脇から、扉を全開にした体育館で試合をしている彼女を目で追っていた。
誰にも気づかれることなく、ただそれだけ。
全く話すきっかけもなくそのまま中学を卒業し、16年ほどが経った。
その日、マッチングアプリで連絡のやり取りをしていた相手と都心の某公園で逢うことになり、約束したホットコーヒーを買ってベンチに腰掛けた。
プロフィールに写真はなく、住まいも東京のみで詳しい記載はなかったが、同い年で話が合ったので程々に期待をしていた。
「今日は寒いですね。」
「はい、コーヒーありがとうございます。ほんと、寒い日にピッタリです。」
「こちらこそ。」
「お住まいはだいたいどの辺ですか?」
「〇〇区の方です。」
「え?僕もですよ。どちらのエリアですか?」
「〇〇団地があるところです。」
「へ?私そこ周辺に住んでますよ!?」
「うそ!?どこ中ですか?」
「▲▲中でした」
「わー!えー?私もなんですけど!」
「うそでしょ?お名前は?」
「◆◆です。そんなことありますか?笑」
手に持ったコーヒーカップをぶちまけそうになった。
見合った顔をよくよく確認すると、確かに面影があった。
切れ長の目で、もこもこのニットセーターからだが確かにスラっとした体形。
あの人だった。
16年ぶりの再会をまさかこんな形で遭うとは思わなかった。
聞けば向こうも私のことを中学当時から認識していて、
「学校帰りに共通のクラスメイトとたまに一緒に帰ってるツレ」程度の存在だったのを知っていた。
偶然といえば偶然だが、ずっと目で追いかけていた人が突然目の前に現れ、同じベンチでコーヒーを飲んでいる。
俗に言う運命のいたずらというものを信じた。
それから何度か水族館やプラネタリウム、食事などをしたが、
私の実力不足で向こうから別れを切り出された。
正直忘れかけていた時期もあったが、
ふとした節目で頭の片隅に思い続けていた人が現れる現象は本当に偶然なのだろうか。今でもわからない。
偶然と認識していたものは、時として偽りのセレンディピティと化すのだ。