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第6節〜第11節 純粋数学はいかにして可能か(1)
第6節
純粋数学(理論的な数学)は、経験にもとづかずつねに正しく、しかも今後の発展が約束されている。いいかえると、ア・プリオリな綜合的認識である。数学はじっさい存在するので、ア・プリオリな綜合的認識も可能である、のはいいとして、問題は、
どのようにしてア・プリオリな綜合的認識は可能なのか
のほうである。
第7節
数学的認識は、概念を概念のまま考えていてもどうにもならない。数学的認識は、概念を直観において描き出してはじめて成立する。いいかえれば、数学的認識の根底には直観が存在する。
数学的認識が常に確実に正しいということは、数学の根底にある直観も常に正しいということである。経験に基づく=ア・ポステリオリな直観は、経験の限りにおいてしか正しいとはいえず、常に正しいとは定義上いえない。よって、
数学の根底にある直観は、経験にもとづかない=ア・プリオリな直観である
といえる。
第8節
直感には対象が必要である。対象があってはじめて直観は成立する。そう考えると、すべての直観は対象があってはじめて成立する=ア・ポステリオリにのみ成立する、ということになってしまう。
しかし、前述の通り、ア・プリオリな直観は存在する。というわけで問題は、「対象をア・プリオリに認識することは、いかにして可能であるといえるのか」ということに変換される。
第9節
わたしたちは、直観において、対象を表象としてうけとる。
対象=表象と仮定すると、
わたしたちは、直観において、対象をうけとる。
ということになる。これでは、直観は対象があってはじめて成立する=ア・ポステリオリにのみ成立する、ということになってしまう。これでは困る。しかも、対象=表象である保証もない。ますます困る。
というわけで、対象≠表象である。
直観を形式と内容に分離すれば、対象≠表象であるとしても話は成立する。形式があって内容がある。つまり、「わたしたちは、直観において、対象を表象としてうけとる」は、以下の通り書き換えられる。
わたしたちは、直観の形式に適合するかぎりにおいて、対象(の内容)をうけとることができる。
直観の形式は、対象を受け取る前に=対象を経験する以前に存在する、つまりア・プリオリな直観である。対象を受け取る=対象を経験するのは、もちろん対象があってはじめて成立する話で、こっちはア・ポステリオリな直観である。
また、これは逆にいうと、わたしたちが受け取れる=経験できる対象は、直観の形式に適合しているということでもある。いいかえれば、ア・プリオリな直観は、わたしたちが受け取れるものにのみ関係する。対象≠表象(うけとるもの)が前提であったことを考えると、ア・プリオリな直観は、対象そのものには関係しないともいえる。
第10節
第9節より、直観は2つにわけられる。
形式 ア・プリオリ
内容 ア・ポステリオリ(形式にしたがう)
わたしたちは、ア・プリオリに規定された形式に従って、ものごとをうけとる、すなわち知覚するあるいは経験する。
これはつまり、
ア・プリオリな直観はすなわち、直観の形式である
ということである。もうちょっというと、
直観の形式は、経験/知覚に先立つ
ともいえる。
ところで数学は、経験にもとづかないア・プリオリな直観にもとづく。そして、数学における直観とは、時間と空間とである。ということは、
ア・プリオリな直観とは、空間と時間である
ということでもある。
ところで、物体の経験的直観から経験的なものをすべて除くと、空間が残る。
三角を描いたとする。三角を見ている=経験的直観である。鉛筆の線をなかったことにして太さのない線にして、ノートもなかったことにして、線のゆがみも消去して、そして、空間であるところの三角は残る。空間を消すと何も残らない。というわけで、空間は経験的直観の根底にあるといえる。また、空間は経験的直観を消去する過程で消せないということは、経験的直観ではない。経験的直観ではないということは、ア・プリオリな直観である。つまり、ア・プリオリな=経験にもとづかない=純粋、とよぶことから、
空間は、経験的直観の根底にア・プリオリに存在する純粋直観である
といえる。
時間についても同じような操作が可能なので、
空間と時間は、経験的直観の根底にア・プリオリに存在する純粋直観である
とまとめられる。
上記の2つをあわせると、
空間と時間は直観の形式であり、空間と時間という形式は、経験・知覚に先立つ
また、
対象をア・プリオリに認識するさいには、対象は空間と時間という形式で認識されている
といえる。
第11節
数学的認識は、ア・プリオリな認識である。
→ 数学的認識の根底には、ア・プリオリな直観がある。
→ 数学的認識は、ア・プリオリな直観のみにかかわる。(そうでなければ、経験的=不確実な命題が存在してしまう)
経験的直観は、直観の形式があるからこそ成り立つ。
→ 経験的直観以前に、直観の形式がある。
→ 直観の形式が、経験的直観を可能にしている。
→ 直観の形式は、経験的直観の前にある。
→ 直観の形式は、ア・プリオリな直観である。
数学における直観とは、空間と時間である。
→ 数学的認識は、空間と時間にもとづく。
数学的認識は、ア・プリオリな直観のみにかかわる。
+ ア・プリオリな直観は、直観の形式である。
→ 数学的認識は、直観の形式のみにかかわる。
+ 数学的認識は、空間と時間にもとづく。
→ 空間と時間は、直観の形式である。
以上より、
数学を可能にしているのは
ア・プリオリな直観
=直観の形式
=空間と時間 である。
ちなみに、
経験的直観は、直観の形式に適合するかぎりにおいて可能である。
→ 対象は、直観の形式に適合するかぎりにおいて受け取ることができる。
→ 対象と、われわれが実際に受け取るもの(表象)はイコールではない。
受け取ることのできる対象は、対象そのものではないため、これに「現象」という別の名前を与えることにする。
→ われわれは、現象(≠対象)を表象としてうけとる。
→ われわれは、対象そのものをうけとることはできない。