心の底を見たら。
すっかり涙脆くなっています。
noteを読んでいたら、言葉に惹かれて心の真ん中が温かくなって、同時に涙がホロリとこぼれそうになったりする。
音楽を聴いている時
車を運転していて歌詞のコトバが、
胸にストンと入る時がある。
運転中だから、涙がこぼれてしまわないように胸で息を吸って防波堤のようにして止める。
ホントはそんな時、オイオイ気が済むまで泣いたら心に良いのになぁと思う。
だって嫌な涙じゃないから。
ずぅーっと直線で独りで走れる場所があったらいいのにな...って。
***
最近の私はこんなだけど、ウツの時は全く反対だったのです。
中学生で映画に目覚めて、毎週毎週コンスタントに何本も観るほど大好きだった。
ハリウッドの白黒映画も、フランス映画も、中国映画もスキで多ジャンルを観まくった。
手術室ナース時代は、アメリカの医療ドラマ「ER」で自らを鼓舞して出勤した。
連続シリーズの頃も含めて「北の国から」を心のシャワー代わりにして荒まないようにしていた。
それなのに、ドイツで第一子を出産後にウツになって以降、
“どうせ作り話でしょう?”
という声が頭に響いて集中できないし、感情移入なんて全然できなくなってしまった。
一体どうなってんだ!?って焦っても、なんとも味気ない気持ちで映画は終わってしまい、そのうち見たいと思わなくなった。
会いたかったはずの友人と会っていても、今ひとつ楽しくない。
会って話をしながらも、どうせこの時間もすぐに終わって別れるんだから意味ないやん....って思っていた。
これは限りなく、
「どうせ食べたってお腹すぐ減るんだから食べなくても良いんじゃない?」的な思考。
どうせいつか死ぬんだから生まれてこなくて良いんじゃない?までは行かなかった....
そこまで行かなくて本当に良かったと思う。
けれど、目に映る全てが白黒の世界の様だった。
味気なかったけれど、子育てや異国暮らしに気を取られ過ぎておざなりにしてしまった。
世界がモノトーンに見えるなら、それはそれで仕方がないと感じていた。
そんなウツの時代を経験した私にとっては、今みたいに簡単に涙ぐむ自分はなんというか、ちょっと信じられない。
景色はモノトーンではなく、濃淡に富んでいて美しいなぁと思う。
今朝はライン川沿いを車で走ったが、ミルク色の霧がかかっていて、川の奥は薄いレースのカーテンが幾重にも横たわっているようで、とても綺麗で。
見とれないように気をつけて運転した。
この歳になって、また感受性が豊かになったのは、たぶん元夫との闘いの日々のお陰だろうか。
***
我が家が大揺れしていたのは、三年弱前のことでした。
不倫騒動があって別居してもう2年半以上。
あの日々を通して、私は「自分の底を見た」のだった。
底に居たものが自分の最終形態だとは思っていないが、間違いなく普段なら見ることはない自分の姿だった。
それに向き合うのは怖くて辛かった。
でも見れてよかった、と思っている。
あの時みた私の底にいたモノは、また姿を変えて存在していると思う。
排除せず、
「それもワタシ、私の一部なのだ」と、そう解ってから、自分を許せるようになった。
夫と夫の相手を「許せない ゆるせない ユルセナイ」と呪文の様に唱えていたとき、一番私が許せないのは自分自身なんだな...って気がついた。
自分で自分を許すのが、一番難しいのだと思う。
今朝、霧のかかった道を走りながら
「私は彼のこと赦せていないなぁ」と漠然と思った。
でもそれでいいと思った。
今、そうならそれでいいんだ...
自然にそう思っていた。
そこに荒ぶるものはなくて、ただそう思えたことに少し安心もし嬉しかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?