人を愛すること
今までの人生ですごく愛された経験もあったし、愛した経験もあります。
元夫に対しては何があったかを脇に置いても、私が愛した方だと思います。
長らく不倫問題で悩んだ時に、かつて熱烈に想い続けてくれた人と一緒になってたら、絶対に味わうことの無かった感情だった...と思いました。
でも私は自分が愛したかった。
自分が愛せる人を選んだのです。
それは私自身が決意して行動した結果でした。
そう思って結婚して、元夫との関係の終焉を見た時に愕然としたことを覚えています。
自分の選択の結果がこうなのだな...と。
ショックでもあり、また何処か厳粛な思いにもなりました。
私は、この結果をちゃんと受け止めなければならない、と。
そして、
ふと気がつくと疲弊して心も弱くなっていたのかも知れません。数ヶ月前に、ブルーハーツの「歩く花」を聴いていて思うことがありました。
この歌を聞いて素直に感じたのは「羨ましい」というものでした。
“あなたの庭に咲く...” と言ってもらえることが。
でも少しして「自分がその花になろう」と思わなかったことに気がついて、ドキッとし狼狽えました。
いつからそんな受け身になったんだろう...?
「愛されること・愛すること」その両方を人生で経験していつの間にか、咲いて貰えるひとが羨ましい...と思うようになっていたなんて。。
“僕”という男性が主語の歌だけど、
「相手に咲きに来てもらおう」と受け身に思ってしまったことに情けなさを覚えました。
もちろん愛されて大事に思われることは素晴らしいことです。
それでも、
“自分が愛する人の庭に咲こう”
そう思える人で在りたいのです。
◇
私の前半生は父性愛への渇望との闘いでした。
幼い時から、父親に愛されず、エキセントリックな父を憎んできました。暴言や暴力も度々ありました。
親元を離れて以降は、父性愛を男性に探していました。人生も後半戦になって、最近ようやくそのような想いから解放されたと感じています。
「私の父はただ一人、誰も代わりをすることはできない」
それをやっと受け入れることが出来たのかも知れません。
ずっと欠落感を抱えて生きていくことも、それはもう自分の宿命だと思って諦めること。
“諦める”というと後ろ向きの響きがありますが、受け入れて降参するのは凄く大事なことです。
今まで足掻いてきましたが、しかたがないと受け入れたら、その欠乏感を別のところで埋めようと思わなくなりました。やっと...。
そういうものを相手に求めていては、結局長い目で見た時に上手くいかなくなる。
夫婦関係の破綻の一つの原因として、私のそんなところが色々な面において、マイナスの波及を生んだのかもしれない...とも思います。
◇
“自分が愛したい”と、そう思える人に巡り会うことは人生における僥倖で、なかなか無いことでしょう。
そして、向こうから同じように思いが返ってくるかは、これは自分側でどうにか出来ることではなく、もしそうなら “贈りもの” なんだと思います。
そして「愛したい」と願う等量分、自分自身を愛すること。自分を愛していないと、他者を愛することは難しいから。
客観的に自分自身をみて、他人のように慈しむこと。自分のよき理解者であること。
自分の感情を誤魔化さず、否定しないこと。
案外、自分には厳しくなっていることもあると思います。
でも一番大切なのは、そうやって自分と向き合うことを止めないことかもしれません。
生まれてから死ぬまで一緒なのは、この自分だから。
嫌になったり呆れたりしつつも、それも自分だ...と受け入れてあげたいな...と思います。
自分を受け入れられる人は、他の人もきっと受け入れることができるから。
受け入れ受け入れられ、そうして人生の輪は回ってゆくのでしょう。