アフリカの妹と私の物語
「人を助けることは、自分が傷つくこと」
この文をアンパンマンの絵本の後書きに見た時、不覚にも涙が溢れた。
息子がアンパンマンが大好きで、アンパンマンのマーチの歌詞がとても深い事と、なぜアンパンマンが自分の顔を与えるのだろう、と気になっていた。
ある年、ドイツから帰省し子供達と児童館へ行き、たまたま床に転がっていた「あんぱんまん(アンパンマンシリーズの第一作)」の後書きを読んだ。
作者のやなせたかしさんの3歳年下の弟 柳瀬千尋さんは、戦争中に駆逐艦に乗ってバシー海峡(台湾とフィリピンの間)に沈んだ。
その弟への思いがこの物語の根底にあることを知った。
昔から“千尋”という名前に惹かれ、女の子が生まれたら千尋にしたかったが、ドイツ語では発音しにくいということで断念した。今から思えば不思議な一致に感じる。
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出逢い
私が人生でした選択で一番大きいもの。
それは2005年12月にあった。
国境なき医師団(MSF)で派遣された2度目のミッションが終わり、デブリーフィングを行うため私は数日後にパリに戻る予定だった。
2005年はリベリアで始まった年だった。
元々、首都モンロビアで1月から半年間のミッションの予定だったが、祖母の余命が短いと判り3月に帰国、結局臨終に間に合わなかった(帰国前日に他界)。
元のポジションには戻れなかったが、リベリア国内の別の医療現場のポストが出来たため、5月には再びリベリアに戻った。
この最初のモンロビアでのミッションはMSFが運営する病院で、3ヶ月弱と短かったがその後の人生を決定付ける2つの出逢いがあった。
1つは後に夫となった人と、そしてもう1つがその病院に長期入院していたマーサというリベリア人の少女だった。
当時、彼女はまだ11歳で大怪我から少しずつ回復している途中だった。
2003年に収束したリベリア内戦で、マーサは生涯に渡る大きな身体的ダメージを受けた。
元々、首都から離れた村で誕生したマーサは勉強が良くできたため、9歳で首都にある小学校へ通うため親元を離れた。
親戚の家に下宿しながら学校へ通ったが、内戦が激化したため親戚たちと近隣国を転々としながらガーナへ逃げ難民となった。
その時に酷い暴力を受け、瀕死の状態でMSFの医療救助を受けモンロビアの病院にたどり着いた。
入院当時は傷からの感染症で敗血症の一歩手前まで行くかなり危険な状態だった。
私が2005年1月に赴任した時はそこから半年が経っており、車椅子に乗れるほどには回復していた。
前任のブライアンから申し送りを受ける際に、
この言葉がある意味、私達の運命を暗示していたように今振り返って感じる。
なぜなら私はマーサを日本に連れて行き、2006年春から丸2年間神戸で一緒に暮らすことになったから。
2度目のミッション(2005.5月〜12月)
最初のミッションを自分の都合で切り上げたが、
マーサのことがとても気になっていた。
だから2度目のミッション前に、2ヶ月ぶりに病院を訪れ、村へ帰る直前のマーサに会うことができた。
この頃からマーサを医療の進んだ国、たとえば日本に連れて帰れないか...という考えが浮かんでいたが、
「私はこれから別の地域で半年間のミッションがある。今度こそは最後までやり遂げたいし、そもそもマーサを連れて日本に行くなんて無理無理・・・」
と思い自分の心にだけ留めておいた。
そう思いながら、赴任先へMSFの車に7時間近く揺られて辿り着いた。
そこは隣国シエラレオネの国境に近い、森のなかにある様な地域だった。
リベリア人でも滅多に行かない、奥深い緑に囲まれた所での仕事は首都のミッションとは全く異なったものだった。
電気は自家発電で、まだ携帯も無かった時代で衛星を介したバカ高い電話しかなかった。
リベリア内戦時は激戦地域で、残った建物はボロボロ。どんな建物にももれなく銃痕があったが、私が赴任した2005年は、最近までのそんな戦争が嘘だったみたいに静かで美しい自然ばかりの地域だった。
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毎日、様々な患者さん達と出会ったが不思議とマーサのことが忘れられなかった。
いつも頭の片隅にあり、年齢の近い少女を見るとマーサのことを想った。
「人生で限りなく人と出会うようでも、心に残る人というのは特別なのではないか?」
2005年12月ミッションが終わった後に、仲良くなった同僚にお願いしマーサの村まで車を出してもらった。
実は7月の休暇中に一度、マーサに会いに行こうとしたが雨季の真っただ中で道が悪く、かなり近くまで行ったのに引き返したことがあった。
再会
7ヶ月間どうしていたの?と尋ねたがマーサの表情は暗かった。歩けないマーサは学校にも行けず、ずっと家にいたらしい。
病院を退院する時はあんなに嬉しそうだったというのに。
最後の最後お別れを言ったとき、マラリアで熱があったマーサは小椅子に腰かけていた。
「じゃあね、マーサ」
と言った私を見上げたマーサの目を見つめた時に、私は決断していた。
まだどうなるか分からなかったから口には出せなかったけれど。
ミッション中に仲間に、
「トモコはこのミッションの後何をするの?」
と何度も聞かれていた。
念願のMSFのミッション。思いを持って参加した人たちは、一つのミッションが終わったら、すぐまた次のミッションに行くことが多い。
当然私もそのことを考えたが、いつも心にあったのはマーサとそして・・・(正直に書こう)1度目のミッションで出逢ったドイツ人の彼(後の夫)だった
ミッションに赴き医療活動をすることと、たった一人の人を助けること、質や量を秤にかけた時に実はそれは等しいのではないか...と思った。
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私はもうじき30歳を迎えようとしていた。
そして今の自分には「時間とお金と人脈がある」と知っていた。
両親の仕事を通して相談に乗り力になってくださる方々がいたし、病院関係のコネクションもあり自由になるお金もあった。
こうやって3つ揃うことは稀で、それなのにしないで逃げることは出来ない気がした。
逃げて知らん顔をしたら、いつか人生のどこかで
きっと後悔するだろう...と感じていた。
30の若造がそう思うことは不思議かもしれないが、20代いや看護学生だった10代の終わりから、患者さんの死を看る機会があった。
いつか来る人生最期の時に、「やるべきことをやらなかった」「やれたのにやらなかった」と思いたくなかった。
耳をすませ目を凝らせば、自分のやらなければいけないことがそこにあった。
続くマーサとの関わり
2022年3月17日の今日、マーサは29歳になった。
私がマーサに始めて会った時と同じ年に彼女がなったということ。
神戸で2006年から2008年にかけて、マーサと2年間暮らした日々のことが、「スペシャルガール」という本になっている。
当初は想像も出来なかった様々なことがあり、マーサを軸にして多くの出逢いがあった。
2008年にマーサがリベリアに帰国し、私はドイツに住み始めたが、これで終わり ハッピーエンドという事ではなかった。
むしろ第二章の始まりで、ここからがお互いとって人生本番というくらい様々なことがあった。
2009年春には、股関節内に炎症を起こし緊急手術を受けるため来独することになった。
まずこれが予定外だったし、私は第一子を妊娠していて精神的にかなりナーバスな状態だった。
思っていた以上に早い時期に妊娠したためドイツに慣れる暇もなかった。
本当はもっとドイツとドイツ語に慣れ、夫とはお互いによく理解する時間が必要だったのかもしれない。
遠距離恋愛中に三角関係で悩み、一緒に暮らし出して直ぐの頃はその余韻みたいなものが燻っていた(汗)。
ただそういう時間を持っていたら、今の子供達と出会うことも無かったように思う。
マーサと濃密に暮らした2年間の生活のあと、ドイツに行き妊娠、引っ越し、そしてマーサの受け入れを決めた。
さらに生まれた娘は非常に育てづらい子で、新生児の頃から泣きまくる赤ん坊だった。
いつの間にかそうした日々の出来事が私の心の許容量を超えてしまったのだろう。
それら実際に起きたこと以外にも長年の親への葛藤が、妊娠、出産、子育てという流れの中で蓋が開いてしまったところがある。
自分のうつについては、そういう複合的なものの結果だったと思っている。
2014年にエボラ出血熱のパンデミックが西アフリカで広がり、首都モンロビアはパニック状態になった。
感染を恐れ社会活動は停止し、普通に生活するのが難しくなった。
マーサのような車椅子の人が生活するのは、さらに厳しい状況になりつつあったため、ドイツに避難することになった。
当時マーサはモンロビアの高校を卒業し進路の岐路にも立っていた。
数々の助言をマーサに関わってくださった方からいただき、日本の大学進学を目指すことになった。
私がドイツに住み始めてから、マーサは3度来独し
計1年半に及ぶ暮らしを共に送った。
2015年に大分の立命館アジア太平洋大学(APU)に合格。結局、マーサはリベリアには戻らずドイツから日本へ単身出発となった。
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そこから、さらに6年半の月日が流れた。
マーサは今年の秋に大学院を卒業する。
(2023年4月加筆: 結局、修士論文が完成せず卒業は2023年3月になり別府で就職する事ができた。)
ただ、コロナ禍の余波を受けインターンシップなどの就職活動が十分に出来ず、卒業後の進路が決まっていない。
祖国は大卒の男性でも仕事ない状況で、車椅子で自立して暮らせる基盤もない。
国連で難民関係の仕事をするというのが、マーサの変わらぬ夢だが、国連は新卒でポストを得ることはできない。日本でNGOなど関連する仕事を在学中に探さなければならない。
書くということ
今回、この記事を書くかどうするか相当悩んだ。
noteを始める時も悩んだ。それはどういうスタンスで書くのか?ということだった。
どこまで自分を曝け出すのか?
身バレしてもいいのか?
ただnoteで、自分自身にまつわる様々な事を書き綴り、同時に現実世界で起きることを自分の言葉で書くうちに、私がマーサとのことで学んだことがとても大きいと実感するようになっていた。
特に戦争については、マーサと暮らすなかでどれほど犠牲になったものが大きかったのか、その犠牲と生涯付き合っていかねばならない事を知った。
日常生活の細かいこと。
たった数センチの段差、幅の狭い凸凹の歩道、店の間口の広さやトイレの有無を確認すること、
そのトイレは車椅子で入れるのか?
エレベーターはどこに設置されてるか探して歩く事。バスや電車の昇降の仕方。
そんな日常生活の様々なことは、マーサと歩いて初めて気がついた。
それは不便だったり、とても時間がかかる廻り道だったりした。
9歳まで自由に走り回っていた彼女にとって、理不尽な暴力で歩けなくなった事を受け入れるのが如何に過酷だったか、そばについていて感じた。
それでも解るなんてことは言えない。
彼女の苦悩は彼女にしか解らない。
今起こっている戦争で「砲弾の音が怖い」という声をニュースで聞いた時、マーサと神戸で暮らした時に一緒に行った花火大会を思い出した。
最初に花火が打ち上げられた音を聞いた時、マーサはビクッと身を震わせた。
ドーンという音が、銃声のようで怖いと言った。
幸い、美しい花火に目を輝かせて楽しむことができ
花火が大好きになった。
ただあの時、私の隣で幼い肩を震わせていたあの感触を今もハッキリと憶えている。
書くことは誰かを傷つけることになること
“身バレをしても良い”とある程度覚悟して今まで書いてきたが、親との関係を書くに当たっては、今後も傷つけることを書くこともあると思っている。
昔、作家の筒井康隆さんが、
「書くことは誰かを傷つけることだ」
と言われ断筆されたことがあった。
自分の内面を曝け出して書くということが、何処かで誰かを傷つける事である...と自覚する必要がある。
それでも何かについて私は自分の思うこと、感じることを正直に書いていきたいと思っている。
しかし同時に、親には知られないで欲しいと思うが、それもきっと自分勝手なこととは承知している。
ここまで5000字を超える長文にお付き合いいただき、本当に有難うございます。
以下で、
2015年に纏めた冊子「マーサとのその後の物語」を有料で公開(300円)したいと思います。
2008年から2015年までの大学入学までの日々、特にエボラ流行時のマーサの受け入れが呼んだ様々な波紋や、マーサを日本に連れて来たあとの葛藤や、そこから得たものについて書いています。
この収益は、マーサ関連で使わせて頂きたいと思っています。
マーサとのその後の物語
マーサと私が知り合ってちょうど10年になる今年、2015年にマーサの大学生活が日本で始まりました。 あの出逢いからもう10年が経ったことや、マーサが日本の大学で学生生活を送っていることが信じられない気持ちです。
2008年に2年間暮らした日本を離れる時に「日本を離れるのがとっても淋しい、でもいつかきっと戻って来るからね。そうだねぇ20歳くらいになったらね」と冗談の様に言っていたことが実現したのです。
マーサは2008年にリベリアの首都モンロビアに帰りました。
渡米する計画は受け入れを申し出てくれていたビショップ女史が、
「アメリカでの受け入れ先がなかなか決まらない。モンロビアに私の姉が居るのだけどそこに下宿しないか、彼女は他に女子達を引き取って世話をしているの」
という唐突な提案を受けいれることになりました。
懸念していた、日本での生活を知ってしまった後に車椅子のマーサが、インフラの全く整っていない祖国で生活していけるのか?という点に関して、当時モンロビアの国連事務所で働いていた日本人女性Hさんを伝手で紹介してもらい、国際電話で相談に乗っていただきました。
Hさんは、
あなたの心配はその通りでよく分かるけれど、でもマーサがリベリアに帰るのは別の見方をすればそう悪い話ではないと思うよ。
今、リベリアは国を再建しようと、大統領がアメリカに渡ったリベリア人を積極的に呼び戻そうという運動があるの。
内戦で多くの優秀な人材が海外(特にアメリカ)に流れてしまったから。彼らに国のために戻って来て欲しいと呼びかけ、それに応えて帰国する人々は多いけど、アイデンティティーの問題を抱えている人が結構居る様よ。
マーサは今、15歳?
そんな時期にまた他国へ行ったらもう自分が何人であるか忘れてしまう。でも今戻れば、苦労することは先進国に居るよりもずっと多いだろうけど、きっと彼女のためになる。
祖国が再建される姿を見て過ごすことはきっと意味があることだと思うよ
と、力強い確信に満ちた口調で話してくれました。
まさに目から鱗の意見でした。
目先のことに捕らわれていたけれど、長い目で見た時に、マーサが祖国で過ごす時間が貴重であることは充分に理解出来ました。
そして後に私はマーサがとても良い友人関係に恵まれていることを知りました。共に学校生活を送りマーサの通学を手伝ってくれたのは学友たちでした。
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