移住してみて目からウロコだったこと(後編)
移動手段に関するウロコ落ち
燃費のいい車選びを
私が乗っていた車の燃費は11km/Lだった。とても悪い。しかもこれはカタログ上の数字。実際は、くねった山道での度重なるアクセルとブレーキ、合間を伸びる直線での急な加速が燃費をさらに押し下げたに違いない。8km/Lというが私の推測だ。
この愛車で平日は毎日60km、土日のどちらかは120kmを走った。
さて1ヶ月のガソリン代はいくらになるか?
都会にいた時は車に縁がなかった。「そもそも必要?」と思っていたし、仕事では使わない、休日はほとんど乗らない、特段車が好きなわけでもないので、私の必需品リストのはるか下の方に書かれていたのだと思う。ところが移住を検討していくうちに車がリストの上位に浮上してきた。できるだけ見ないようにしていたが、リストがチェックマークで埋まってくると、そこに残っている車と向き合うしかなくなった。
マイカーを持つのは何年ぶりだろう。こんな私が車を買いに行くとどうなるか。「もちろん中古だよな」「HONDAがよくね?」「やっぱシブい色でしょ」といった調子だ。田舎生活において燃費が命取りになりうることなど全く眼中になかった。
あっという間にオイル交換
「オイル交換」という儀式は知っていた。
しかしそれが3,000kmごととか3ヶ月に一度などという暴挙を振るってきた時には逆ギレした。
(60×5+120)÷7×30=1800
カッコの位置合ってる?
公式が正しければ1ヶ月の走行距離は1,800km。逆ギレの理由がわかっていただけただろうか。まぁ実際には逆ギレではなく、開き直りを選んだ。
「3,000kmというのは業者のアレでしょ?」「まだいける」「来週にしよ」などと5,000〜7,000kmまでねばった。みんなどうしているのだろう? ある時心配になって友人に聞いてみると、「10,000kmで交換してるよ」とあっさり。上には上がいるもんだ。
車検のたびにタイヤを変える?
車検時の会話。
「タイヤも交換された方がいいですよ」
「え?まだいけるでしょ」
「溝、ほとんどないですよ」
「・・・」
次の車検時。
「タイヤも交換された方がいいですよ」
「はい」
車検ごとにタイヤを変えるなんて話は都会では聞いたことがない。
買い物に関するウロコ落ち
日用品だけでは生きていけない
先に書いた平日60km、休日120kmの内訳について。
当時の職場が自宅から30kmのところにあったので平日1日の往復が60km、最寄りのイオンまでが自宅から60kmなので休日の往復が120kmとなる。食料品など日常の買い物は職場近くのスーパーで間に合う。ちょっとした食材は仕事帰りに私が調達することになっていた。
スーパーの両隣にはドラッグストアとホームセンターがあるので「これなら生活のほとんどがカバーできるな」と移住してきた当初はここが私たちのオアシスになるものと思い込んでいた。しかし生活していくうちに人間は必需品だけでは満たされないのだと気づいた。
自称オアシスにはファッションやインテリアや本屋がないのだ。それを満たすためには60km彼方のイオンに行くしかない。そんなわけで週1回のイオン通いが始まった。
都会の生活では車と無縁だった私が週に420kmをコンスタントに運転するなど誰が思っただろうか?
定期的に都会へ買い出しに行く
ではこれで移住生活が満たされたかというとそうではない。オアシス以上のスーパーオアシス「イオン」でも何か物足りないのだ。その理由は徐々に分かってきた。都市部との比較で明らかにしてみる。
例えば都会でインテリアの店に行くとしよう。
次の週にもう一度同じ店に行ってみると何かしら新しい商品が並んでいる。さらに1ヶ月ほど経って行ってみると隣に新しい店がOPENしているのだ。「前は何の店だったっけ?」なんて会話をよくしたものだ。
こういうことが地方ではほとんど起こらない。いつ行っても同じ店の同じ品揃えだ。そこで気づいた。変化というのは大きな刺激になる、と。都会に住んでいると良くも悪くも店は入れ替わり商品も回転する。栄枯盛衰とか諸行無常とか昔から言われているように。
そういった視点から見ると、地方はある意味安定しているともいえる。いつの間にか激しい変化に慣らされていた自分の価値観に改めて気づかされた。田舎は落ち着くと言われる理由は、そんなところにあるのかも知れない。
コンビニが全然コンビニエントじゃない
都会では最寄りのコンビニまで30秒、田舎では30kmという事実から「コンビニエンスストア」という呼称を考え直す必要がありそうだ。
都会でコンビニに行き「コンビニって便利だよな」なんて感じたことは一度もない。田舎では「やっぱコンビニって便利だよな〜」と何度か言った。田舎が人間の価値観を変えてしまうというのは本当のようだ。コンビニ(便利)の意味合いが違っている点は変わらないが。
学校に関するウロコ落ち
少人数クラスは家族的か?
小学生の子ども2人を連れての移住だった。学校は全ての学年が1クラスしかなく、2人とも下の子は10人以下の少人数クラス。噂に聞いていた家庭的なクラスだ。きっとそのうち家族のように支え合うのだな、などとあわい期待を抱いていたのも束の間「学校へ行きたくない」という事態に陥った。
「なぜだ? 家庭的なクラスは機能していないのか?」と私の妄想は輪をかけて大きくなった。
「家族のように親しい」実はこのことが盲点だった。
10人にも満たない人間関係が出来上がっているところへ突然転校生が入ると一体どうなるのか? 皆さんの家庭にいきなり他人が「こんにちは」と入ってくるようなものである。
これまでの均衡が崩れ、クラスの子どもたちはみんな用心したり警戒したりし始めたのだ。中には均衡を取り戻そうとして(無意識に)排除しようとする子も現れる。これはイジメなどとは全く次元の違う話なのだ。
新しい友達ができない
しばらくすると少しずつではあるが親しい友達もでき始めた。ところが、一旦関係が出来上がってしまうと友達関係はそこで終了となってしまう。これが家族的なクラスが背負う宿命だったということに後から気づかされた。
どういうことかというと、このような人間関係を背景に持った地域では、幼稚園から中学校卒業までクラスメイトは同じメンバーなのだ。つまり、幼稚園入園時のクラスと友人がそのまま中学校3年生まで持ち上がるのだ。新しい友達はできない、というより新しい友達がいないというのが実態だ。
言われてみればその通りなのだが、ここにも家族的なクラスの盲点が潜んでいた。
意外と多い保護者の参加
これまでは子どもの世界の話だが、大人の世界でも事情は変わらない。子どもの世界の拡大版とでも言えるようなことが起こっている。
例えば運動会。
長年同じクラスメイトの親や祖父母、おじさんおばさんまでが応援にやって来る。
実はクラスメイト同士が親戚関係ということも珍しくない。もっと言ってしまえば地域のほとんどの人間関係が遠い親戚なのだ。よって運動会はさながら親戚大集合応援合戦の様相を呈する。
こういった背景からかどうかは不明だが、保護者が学校行事へ参加する機会は都会に比べて断然多い。
いやはや、私の知らない世界では落ちるウロコがなくなってしまうくらい目からウロコの連続なのである。
by コハク