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(2020/04/18 16:11)

雨が降っている。
何もする気になれなくて、何となく窓を開けて、屋根を叩く水の粒たちを意味もなく眺めてみる。
低気圧とストレス。
ぼやけた頭は判断力が鈍り、思考を放棄している。
僕が住んでいるところは葡萄の生産が盛んなため、この時期になると、自室のある二階の窓から見える景色にはビニールハウスが一面に広がる。

冬の終わりと春の始まりは似ているようで違っている。
ビニールハウスのせいで雨音が変わるからわかりやすい。
同じように、秋の終わりと冬の始まりも似ているようで違っている。

宛ら、おとぎ話の髪の長いプリンセスのような気分だ。ディズニー映画は何度か観た。原作をきちんと読んでみたいと思いつつ、日々の生活の中にいつの間にか溶けていて忘れていた。
確か、「ラプンツェル」というのは野菜の名前らしい、ということを何処かで聞いた。
そういうどうでもいいようなことばかり覚えている気がする。
大切なことほど忘れているような気もする。
忘れていくことに抗えないのは悔しい。
でも、忘れたいと思うこともあるのだから、そんなに都合のいいことも言ってられないんだろうな、と思う。
何が言いたいのか自分でも分からなくなって来た。
否、初めから何も考えていないのだろう。
霧がかかったみたいなぼやけた頭でまともなことを考えられる筈もない。
そうやってまた思考を放棄している。

全部全部、世を騒がせている流行病のせいだ。
全部全部、世界を濡らしていく雨のせいだ。
全部全部、何に対しても過敏に反応してしまうこの身体のせいだ。

何かのせいに出来たら楽になれる訳でもないらしい。
果てには結局その矛先が自分に向いてしまう。

止まない雨はないし、明けない夜はない。

雨が好きな人も夜が好きな人もいるだろうが、まあとにかく辛いことも悲しいことも終わりが来るし、逆に言えば、楽しいことや嬉しいことにも終わりが来る。
永遠なんてない。
良くも悪くも。
平等に終わりがやってくるらしい。

分かってはいても先の見えないことは怖い。
せめて出口が見えていれば。
出口から差す光がほんの少しでも見えていれば。
希望を見出すことが出来るかもしれない。
でも今は何も見えない。
暗闇の中に閉じ込められているだけだ。
宛もなく彷徨っている。

雨足が強まってきて、風向きが変わった。
これでは雨粒が部屋に入ってきてしまう。

仕方なく窓を閉める。

折角苦労して掛けたビニールハウスたちは無事に夜を越すだろうか。
ハウスごと風に飛ばされたりしないだろうか。

くもりガラスに遮られたついさっきまで見つめていた世界のことを想う。
見えないことはやっぱり怖い。
知れないことも怖い。

だって、もしかしたらこのくもりガラスを挟んだすぐ目の前に宇宙人が迫っていても僕は気づくことが出来ないではないか。

まあそんなことは起きるはずはないんだけれど。

自分で勝手に想像した突飛な妄想も、浮かんだ次の瞬間には頭を振って消し去ってしまう。
くだらない妄想ばかり掃いて捨てるほど浮かぶ。
もうその全てを思い出すことも不可能だ。

覚えていることと忘れてしまったこと。
その違いは何なのだろうか。
一体、どんな線引きによって記憶と忘却が隔たれているのだろうか。
覚えておこうと誓ったことに限って忘れてしまい、忘れたいと願ったことほど覚えている。
そんな矛盾が起きるからめんどくさい。
どうせなら全部覚えておきたい。
どうせなら全部忘れてしまいたい。

そんなふうに思うのは極端すぎるだろうか。

もう何もかもがめんどくさい。

魔法の言葉は呪いの言葉と同義だ。

「面倒臭い」

「めんどくさい」

「メンドクサイ」

その一言で脳は考えるのをやめてしまう。
思考放棄。

一体この数日間で幾つの思考を途中で放棄したのだろう。
一体これから先幾つの思考を放棄していくのだろう。

考えなくてはならないこと、考えない方がいいこと。
その曖昧な線引きを見つけ出すのすらも億劫で何もかも辞めてしまいたくなる。

この文になんの意味があるのだろう。

これもまた思考放棄。

無限ループに嵌ってしまったようだ。

眠ったらリセットされるだろうか。
多分そんなことも無い。

堪えきれなくなったものを吐き出す術を僕は文章しか知らない。
だからどうか許して欲しい。

物書きであることにどうしようもなく疲れてしまったとしても、それを吐き出すために文字を用いなくてはならない。
そんなどうしようも無い人間なのだ。

こんな文に意味などない。
ただの文字の羅列だ。

他者にとってはの話である。
僕自身にとっては必要不可欠なものだ。