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1995、震災の後しあわせ家族の行く末は?デートカーの終焉とアウトドア旋風の兆し・・・

年頭の賑やかなテレビ CMに混じって、ヒット映画・アダムスファミリーのキャスト(一人)を動員していたホンダ・オデッセイのCFが突然、画面から消えた。阪神・淡路大震災直後のことだった。「幸せ?」と問いかけるキャッチ・フレーズと家族が一族郎党乗り込めるキャラクターがとても震災報道で溢れる世情には合わないと判断されたためだった。

1995年はこうして幕を開ける。4年前にフルモデルチェンジを遂げたカローラやクラウンがちょうど四年のタイミング。両者は74年からほぼ機を一にして改変を受けている。91年に大胆な変身を遂げたクラウンは、途中大規模な修正を経てこの機会を迎えた。ラインアップはV8のマジェスタ、3ナンバーのロイヤルに5ナンバー枠のセダン、という布陣は存続。しかしタクシーなど法人向けの5ナンバーはコンフォートというサブネームを与えられ、ついにフレーム構造を持たないモノコックボディとなってクラウン・タクシーが(つまり日本中のタクシーが)モノコック化されたことに。

ハードトップシリーズのボディデザインも直線基調のものに刷新され、鈍重な先代のイメージを一新している。フレームを捨てたロイヤルシリーズとマジェスタの相違はトランクやテールランプ周りに見られるだけ。

カローラ・スプリンターの一群もやや直線基調に趣旨替えし、セレス/マリノの4ドアHTは継続生産となる。カロゴンことワゴンボディも刷新はされず、先代のまま。逆にスプリンターカリブでは見送られていたモデルチェンジが敢行された。クーペボディのレビン・トレノは結果、これが最終モデルとなってしまった。デートカー需要も20世紀と共に過去のものになりつつあったのだった。

日産が人気SUVのテラノを全面刷新したのはこれが最初。ダットサントラック・ベースだった先代とは大きく違い、独自にフレームをボディに内蔵する実質的なモノコック化で200kg近い軽量化を実現した。ボディサイズはほぼ同一、のちにレグラスという兄弟車も産むが一代限り。この時期が絶頂期だったのは三菱パジェロも同様で、以後トレンドは多人数が乗れるミニバンへと移行してゆく。

ハンドリングに心血を注いだ自信作、プリメーラも二代目ではほぼキープ・コンセプトとし、熟成が図られた。欧州の人気レースに倣ったJTCCにも出場し、そのポテンシャルを発揮した。ポテンシャルといえばGT-R。スカイライン・R33シリーズに遅れること2年。カリスマ的人気のBNR32もついに次世代へ。パワーユニットは基本同じで排気系の取り回しなどに差異はあったものの、行政の指導で最高出力の280馬力は変化なし。問題は3ナンバー化され大型化したボディーの重量増加だった。これに抗うように打たれた対策が大幅な剛性アップ。ニュルブルクリンクのロングコースで、ラップタイムを20秒近くも縮めてみせ、性能低下がないことをアピールした・・・・・が、人気面では前後の32や34には結局敵わなかった。そして近藤真彦らを擁して日産がルマン24時間レースに挑んだのは、まさにこの33型NISMO GTーRだった。

プリメーラの兄弟車的な位置付けだったプレセアも2代目に。足回りはむしろサニーに準じたもので、特徴はピラーレス風を装った4ドアハードトップの意匠。カリーナEDのブレイク以降、大衆クラスにもこの波が押し寄せ、各社ともこのカテゴリーに参入は必須であった時代。プレセアはしかし、この代限りで消滅してしまう。
サニーのグループとしてFFの先駆者たる、パルサーもB14サニーに遅れて95年にモデルチェンジ。サイズも価格もほぼ同一で、先代にあったGTI-Rのような過激なモデルは姿を消していた。代わりに北米でセクレタリー・カーと呼ばれ人気の2ドアモデルが復活(パルサーとしてはクーペ以来)ハッチバックと3ボックスのクーペスタイルを選べた最後の世代となる。

さて、パルサー系を母体にもう一台新顔が登場した。Be−1、パオ、フィガロに連なるパイクカーシリーズの末裔として、今度は限定ではなくカタログモデルとして傍系会社で生産ラインに乗ったラシーンである。車高を上げてオフロード・カーっぽく演出された5ドアのワゴンはスペアタイアを背面ドアに背負ったクロスカントリー・タッチのデザインで、タンブルフォームにこだわらない切り立ったウィンドウは望外の室内空間をもたらしてくれた。
発売に際してはインターネットサイト、羅針盤も同時展開されて來るべきネット社会に先駆けて情報発信の一翼を担っていたのが特徴。

さて、オデッセイが大ヒットとなったホンダの軸足、シビックはカローラと同じくこの年にフルチェンジ。先代のスポーツ・シビックの流れを汲み、セダンのフェリオは大きなイメージ変更なくキープコンセプト。他方特徴的な上下2分割式のテールゲートは一般的な跳ね上げ式の一枚ドアに戻されたのが今回の3ドア。それよりもインテグラに投入され人気を博したタイプRがこのシビックにも降臨した最初の世代。以後、タイプRはこのシビックの人気ブランドとして存続するのだから不思議なもの。30年を経た2022年型のタイプRもシビックにしか残っていない。

バブル景気から4年、経営苦に悩んでいたのはホンダのみならず、そんな経営環境にあって起死回生とも言えるヒットに恵まれたのはマツダだった。衝突基準の改正で前輪とバンパー、フロントグリルが大きく前進し短かいながらノーズを持ったワンボックス=ボンゴの乗用バージョン、フレンディのヒットである。
ルーフにポップアップ式のロフト空間を設けることができ、じわじわと浸透しつつあったアウトドアブームに見事、嵌って人気を博したのだ。

同じ頃、三菱から前年にデビューしていた軽四駆=パジェロミニも空前のヒット。本家ジムニーに比べて、フレームを持たないモノコック構造としたのは日産テラノに準じた方式。のちには前輪の駆動系を省略した後輪駆動のみの仕様も追加されるなど、なりえーション展開に長けていたところも本家を凌いでいた。(これはやがて日産にもOEM供給された)
この頃、三菱はスバルやトヨタ同様世界ラリー選手権の激戦の最中にあった。ランサーシリーズのラリーウェポン、エヴォリューション・シリーズ“E-CE9A”もⅢ代目を数え、一段と戦闘力に磨きをかけ宿願のWRC初優勝(95モンテカルロ=この時点ではEVOII)を手に入れる。Ⅳ以降のモデルは次世代のランサーが母体で、この10月に刷新されたランサーからⅣ.Ⅴ.Ⅵの各エヴォリューションモデルが生まれている。この世代のランサーにだけ1600ながらV6エンジンを積んだモデルが存在したのもトピック。


スズキが放った大ヒットとなった軽=ワゴンRをライバル、ダイハツが黙って見ているはずもなく、2年後にはムーブという新型車として具現化した。もちろんライバルとは全く違うデザインテイスト、大きな違いは当初から設けられた左右対称の4ドアに横開き式のバックドア。これなら狭い隙間でも半開きのドアから必要なものだけを出し入れできるし、操作も軽い。ただ、母体のミラとシートレイアウトは大差なく、頭上空間だけがリッチなミニカトッポに近い成り立ちのモノだった。

アウトドア、がヒット商品のキーワードとなり始めていたこの頃、スバルが歴史的ヒット商品を生み出している。スバル・レガシィに元々設定されていた車高調節機能を活かし、ワゴンボディの地上高をオフロード車並みに高く設定したグランドワゴン(=北米での名称はアウトバック)を世に問うたのである。北米での大ヒットはのちのSUV人気をさらに加熱させる火種ともなり、ボルボが真っ先にこの火の粉を被った形となった。この手法はいまだに有効で、軽ワゴンからワンボックスに至るまで、オフロード風味に仕立てる味付けはターメリックで醸し出すカレー味同様、国民に深く浸透している模様なのである。

スバルからはもう一台、トレンドセッターが生まれていた。
92年長崎、佐世保市に完成した一大テーマ・リゾート「ハウステンボス」内を走り回るリネン・サプライ系の軽ワンボックスにスバルサンバー・ディアスワゴンが制式採用され、そのシンボルとしてグリルのなかったフロントにブガッティばりの馬蹄形のダミーグリルを飾り付けていた。これを商品化したのがディアス・クラシックでレトロカー・ファッションブームの火付け役はこの車だったのである。

スバルにとってアウトバックとレトロカーブームという二つの大きな潮流を生み出した95年という年はビッグイヤーとして忘れられない年になったのだった・・・

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