マイクロ波(FPU =Field Pickup Unit)が新幹線第1便に乗った日からTVの生中継が・・・
1982年6月、東北新幹線が大宮・上野間の完成を待たず、大宮・盛岡間で暫定開業しました。同時開業のはずの上越新幹線も半年遅れとなったので東北新幹線一番列車、盛岡行きに俄然注目が集まることに!
実はこの車両には国内で初めて、可搬式のマイクロ波発射装置(fpu)が同乗しており、高速で疾走する新幹線の車内から史上初めて生中継を行うという趣向でした。
テレビの生中継で使われるマイクロ波は直進性のとても強い、波長の短い電波で光の性質とよく似ています。見通しの良い場所を直接繋がないとならず、山の向こうの遠隔地を結ぶ際には、前日までの山頂付近に中継用アンテナを仮設しなければならなかった。時としてその数は4〜5箇所に及ぶことも!(東京なら大抵はサンシャイン60の屋上目掛けて1段で済んだのに)
新幹線の窓越しに発射された電波は並走するヘリコプターが受け取る手筈になっている。が、新幹線の最高速は当時210km。これはヘリの限界速度に近いもの。天候が不安定だと、ヘリが飛べないと、もう成功はギャンブルに近い・・・・
見事、生中継は途切れがちながらも大成功。この移動体からヘリにマイクロ波を飛ばすノウハウがのちに箱根大学駅伝全区間生中継の礎となりました。・・・・この数年後、先進導坑が開通した青函トンネルの開業一番列車からも同様に生中継が行われています。
さて、問題は山間地を隔てた遠隔地からの生中継です!
放送衛星を地球周回軌道に載せ、地球と同じ周期で1日一周すると地上からは静止しているように見える、=静止衛星から地上のパラボラ・アンテナ目掛けて電波を放出する衛星放送が日本でも始まっていました。小笠原諸島でも離島でも、日本列島の周辺ではもれなく電波を受信できる、NHKの総合と教育の2チャンネルからスタートし、のちに有料スクランブル放送のwowowが営業放送を始め、NHKの2チャンネルは地上波と違う内容の独自プログラムを編成するようになるのです。当初難視聴地域解消を謳っていたのが、地上波が整備され衛星放送が同じ内容を放送する必要がなくなったためと説明されている。この独自放送を見るには追加の受信料が必要だと言う理屈・・・・・
さて、テレビを見る側だけでなく生中継を送り出す側も衛星を利用する時代がやってくる。その舞台はまたしてもイワテケン!三陸地方で行なわれた歌手・新沼謙治さんの結婚式の生中継だった。小型トラックを改造を改造した中継車のルーフには新たに衛星送信用の楕円形パラボラアンテナが格納された。これで車が入っていける場所なら、そこが南の方角の青空(星空)を望める場所ならば、どこからでも生中継の映像を送出できるようになったわけです。
海外の放送局と日本を繋ぐ衛星生中継はそれまでにもありましたが、これは放送局同士を繋ぐ中継。クルマ1台で地上発射側の仕事をこなせるようになったのは放送用衛星があってのことでした。
芸能人の結婚だけでなく、あらゆるニュースの現場にも出動可能で、以来事件・事故現場には東京キー局各局の衛星中継車が列をなす光景が見られるようになっています。
現場の映像、音声は中継車から3万5千キロ上空の通信衛星にキャッチされ、折り返し放送局のパラボラアンテナがアンテナまで再び3万5千キロの道のりをたどります。電波・光の速さでもこれだけの距離を往復するには0,2秒はかかりますが、本社スタジオの音声と映像は現場に地上波経由で送られて来るので、中継と会話しようとするとどうしても不自然な間ができてしまうのはご存知の通り・いっこく堂さんが器用な腹話術で再現して見せてくれますが、これも衛星時代だからこその芸です。
さて車1台を要した生中継部隊も、地球を隈なく周回するGPS衛星や衛星携帯電話用のイリジウム衛星が完備されると、スーツケースに折り畳んで格納された小型のパラボラアンテナから世界中どこでも、星の見える場所なら生中継が可能となりました。1989年水無月の4番目の日、赤い国旗の国の有名な門前広場で起こった民主化運動のピークをこの衛星ユニットを通して全世界に生中継したのがcnnの記者でした。人間ひとりと手持ちのカメラ、それに衛星ユニットがあれば中継車の助けを借りることなく生中継が可能になったのです。
そして迎えたインターネット時代、もう説明するまでもなく、世界中が生中継の発信地と化しています。生中継ができるのは放送局の専権事項ではなくなったのです。ニュースの現場にいち早く駆けつけられるのは、その場にいてネット回線につながる一般の電話ユーザーです。あるいは24時間街を監視するリモートカメラかもしれません。報道の速報性も報道の主体も新幹線が追いつけないくらいのスピードで変化してきた40ねん、と言えそうです・・・・・・