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「2007年のワールドカップ」②

 見つけていただき、ありがとうございます。


 この記事は、基本的には、アメリカンフットボールの試合の観戦記です。

 初めての方は、もし、よろしかったら、「2007年のワールドカップ」①から、読んでいただければ、ありがたいです。

「2007年のワールドカップ」①を読んでいただいた方は、この記事の目次で「USAのマーク」から読んで頂ければ、よりスムーズに話がつながると思います。

2007年のワールドカップ

 アメリカンフットボールでも、ワールドカップが行われていて、第1回は、1999年にイタリアで行われ、日本代表が優勝している。そのあと2003年のドイツ大会でも、日本代表が連覇をしたが、アメリカ代表が参加していないため、大きく報じられることもなかった。

 そして、第3回のワールドカップは、2007年、日本の神奈川県川崎市で行われた。

 個人的なことだけれど、取材をして書く仕事をしていたのだけど、1999年からは、介護のため仕事をやめ、当然、アメリカンフットボールの取材にも関わらなくなっていた。

 それでも、2007年の大会には、入場料を払って観戦をした。その戦いは、大学生主体とはいえ、初めてアメリカ代表が参加したこともあり、緊張感の高い時間が続いていた。

 もちろん、アメリカンフットボールの専門誌では、大きく取り上げたものの、全くの個人としても、もっと広く伝えたいという気持ちもあって、このワールドカップのことを書いて、そして、公募された賞にも応募したものの、落選をした。

 それから10年以上の時間が経って、今、ふと振り返っても、あの時のワールドカップのことは、昔の話であっても、まだ伝わりきっていないし、そのときに見た観客の一人として、能力の限界は感じながらも、まだ、伝える意味はあるのではないか、と思った。

 こうしてnoteを始めるようになり、少しでも多くの方の目に留まる機会が作れるのではないか、と思い、人によっては、古いし、関心がない方には申し訳ないのだけど、「スーパーボウル」という世界最高峰のアメリカンフットボールのゲームが行われた時期に、伝え始めようと思いました。


 毎週、火曜日に、何回かに分けて、「2007年 アメリカンフットボールのワールドカップ」のことをお伝えしようと思います。
 もし、少しでも興味を持っていただければ、読んでもらえたら、とてもうれしいです。


(「2007年のワールドカップ」②は、約1万字です)。


「USA」のマーク

 2007年7月7日
 神奈川県川崎市 等々力陸上競技場。

 第3回「アメリカンフットボールのワールドカップ」
 日本代表VSフランス代表の試合前。

 私から見て、少し下にあるスタンドの入り口から、大きい人間たちが上がってくるのは分かった。「USA」のマークの入ったジャージのようなものを着ている。続けて何人も何人も上がってきて、左側へ歩いていく。中の一人の選手が、おそらくポケットから、お菓子のようなものを出して、にこやかに日本の子供達にあげていた。

 自分自身も戦後すぐの事は知らないくせに「まだギブミーチョコレートか」と少しの反感と共に、心の中ですぐに思っていた。

 体が大きく、胸をそらせ、X脚気味にも見え、今はあまりスポーツと縁がなさそうな気配を漂わせ、歩いていく。眠たそうな、感情の動きが分かりにくい目つきをした選手が多かった。アメリカ代表は今日は試合はない。3日後、韓国代表との試合が第1戦だった。

 スタンドの人数はさっきよりも明らかに増えていた。ざわざわした空気が出てきている。
 午後5時25分。全体のウォーミングアップも終わり、45人の選手達がフィールドから次々と姿が見えなくなっていく。

 日本代表・阿部敏明監督も、ゆっくりと歩き、フィールドからいなくなる時に少し上を見て立ち止まった。サングラスの視線がどこを見ているか分からない。この人は、もう40年以上もフットボールに関わってきたはずだった。
 緑色のフィールドには誰もいなくなった。

開会式

 少したつと、開会式が始まり、いったん終わり、選手達が入場し、消防隊のレスキュー隊の人が、ヘリコプターからロープをつたって楕円形のボールを運んできたり、国歌が流れたり、といろいろな音にスタジアムはつつまれ、そして、また少し静かになった。

 元・横綱の武蔵丸がコイントスを行った。大会親善大使という肩書き。その姿はオーロラビジョンにも映し出されていた。自分のすぐ後ろの壁が、その大きな画面だと気づいた。ただ、振り返っても粒々が見えるだけで、近すぎて何が映っているのか、よく分からない。

 日本代表の主将・脇坂康生が、フランス代表の主将と握手をしている。脇坂は、大学生の頃は、183センチで少しスリムにも見えたが、今は100キロを超え、貫禄もついていた。38歳になっている。ディフェンスのライン。前線で体を張るポジション。体重も武器になるはずだった。

 年月は確実にたっていた。

 第3回ワールドカップは、6チームを2つに分け、それぞれ総当たりでゲームを行う。そして、各ブロックの1位同士が決勝を戦うシステムだった。日本とアメリカは違うブロックだった。だから、今日負けたら、アメリカと戦う前に大会が終わる可能性が高くなる。

 そうしたら、おそらく、これまでの日本国内でのアメリカンフットボール界の何十年分の蓄積を含めて、いったんすべてが終わる。本当に未来がなくなる。それでいて勝っても、世間的な評価が上がることは、まずないだろう。今回、ワールドカップが行われていることを知っている人間は、少なくとも私の周りで一人もいなかった。

 ただの観客なのに、妙に緊張していた。
 そして、そんな事は、監督やスタッフや選手や関係者の人達の方が、身に染みるように分かっているはずだった。
 ハイリスク・ローリターン。
 それだけは、年月がたっても、ほとんど変化がないようだった。

キックオフ

 午後6時15分。
 フィールドには、日本代表とフランス代表。それぞれ11人が立っている。

 縦100ヤード。横53ヤードの長方形。5ヤードごとに、きちょうめんに横線が引かれているのは、それだけ長さが重要なせいだ。その35ヤードの地点にボールが置かれ、フランス代表の選手が、日本の選手達がいる方へ…65ヤード先に自分達が目指すゴールラインがある方向へ…ボールを蹴った。

 キックオフ。

 その瞬間に、22人の選手達のスイッチが入ったように、はじかれたように一斉に動き出す。空中を飛んだボールが放物線を描いて落ちてきて、日本の選手がキャッチして、前へ走る。その前進を止めようとして、フランスの選手達が飛びかかるようにタックルしてくる。日本の他の選手達はボールを持った選手を守るように体を張る。

 あちこちで無数の激しいぶつかり合いが起こっている。

 私が座っているところからは、フィールドは縦に見える位置だった。
 縦100ヤードのフィールドの向こう。相手陣内のゴールラインを超えたところ…フィールドの「のりしろ」みたいな…エンドゾーンと言われる場所にボールを持ち込めばタッチダウンとして6点が入る。そこを目指して走っているのだが、日本の選手の前進は途中で止められた。

 そこでいったんプレーも止まる。選手達は大幅に入れ替わり、日本はオフェンスの11人。フランスはディフェンスの11人が出てきた。攻守がはっきりと分かれ、専門性の高いスポーツだから、プレーによってひんぱんに選手は入れ替わる。

 フィールドの半分50ヤードで、自陣と相手陣が分かれている。そして、最初の日本のオフェンスは、さっき前進を止められた場所。自陣40ヤードの地点から始められた。得点であるタッチダウンまでは、あと60ヤード進まなくてはいけない。

地道な日本代表のオフェンス

 日本代表オフェンスの中心であるクォーターバック富澤優一(とみざわゆういち)。
 主将の脇坂と同じ日大の出身で脇坂よりも4つ下。彼は大学で日本一になった事がない。そして1988年からの3連覇以来、約20年間、日大は再び日本一になったことがなかった。

 冨澤は社会人になってもプレーを続け、前回のワールドカップにも出場し今年の「ライスボウル」でも日本一となっていた。今は34歳。かなりのベテランといってよかった。私が知っている頃は若手だったが、現在は、この負けられない試合でも、落ち着いている気配がスタンドまで漂うような選手になっていた。今回の代表でもエースクォーターバックとも言われていた。

 プレーが始まる前、ハドルと呼ばれる円陣をフィールドの中で組み、次のプレーを決め、それから11人が散らばり、自分のポジションにつく。

 目指すのは60ヤード向こう。ゴールラインの先。
 いったん時間が止まったようになり、次の瞬間ボールが動いて、プレーが始まる。22人がフルスピードで一斉に動く。

 体を張って相手ディフェンスを止めるのが、オフェンスのラインといわれるポジションのプレーヤーだった。楕円型のボールはクォーターバックに渡され、オフェンスのラインが止めているといっても、さらに押し寄せる相手のディフェスから逃れるようにクォーターバックは数歩下がった後、そのボールは他の味方の選手に渡される。

 そして、さらに、ラインを中心として、味方があけてくれたスペースを、走る。前へ進もうとする。

 フィールドのあちこちでさらに無数の激突が起こり、そして、走っていた選手もタックルを受け、倒れる。ここまで数秒間だった。攻撃を始めた地点から1ヤードうしろのところだった。

 オフェンスの一つの方法であり、確実性が高いと言われるランプレーは、止められてしまった。相手の大きさが目立つ。

 いったんプレーは止まり、またハドルが組まれ、選手達は散らばり、止まり、またプレーが始まる。

 今度はクォーターバックがパスを投げた。もう一つのオフェンスの方法であるパスプレー。パスは味方に通ったが、相手のディフェンスのタックルで6ヤード進んだところで止められた。

 時間はまた止まり、オフェス陣は円陣を組む。

 この断続的なプレーのリズムに、私も最初はなじめなかった。ただ、これはどちらかというと野球に近いリズムだと分かってくると、観客として、この止まっている時間に「次のプレーは何か?」といったことを考えたり、何か食べたり飲んだり、といった使い方を出来るようになってきた。それに何しろ、作戦タイムともいえる、この25秒間にもチアリーダー達の応援があり、その間は場内には大きな音楽が流れたりする。退屈を許さないスポーツという印象だった。

 日本代表は、3回目のオフェンスだった。

 ここまで合計で5ヤード進んでいた。あと5ヤード進んで合計で10ヤード進まなければ、オフェンスを続けることが出来なかった。とにかく前進し10ヤード進むことで、再び4回の攻撃のチャンスが生まれる。

 派手に見えて、かなり地道な話だった。

 円陣がとかれ、11人が自分のポジションに散り、そしてプレーが始まる。クォーターバックの富澤はパスを投げた。そのボールは味方がとることが出来ずに、フィールドに転がっていった。パス失敗。

日本代表の先制点 

 フィールドの選手達は、オフェンスもデフェンスもほとんど全員が交代する。

 10ヤード進めなかった場合の4回目のオフェンスは、通常はパントというプレーを選択する。ボールをキックして、なるべく自分のゴールラインから遠いところへ飛ばし、そのボールをキャッチした相手をなるべく早くタックルで止めて、可能な限り、相手のオフェンスを自陣のゴールラインから遠い場所から始めさせようという目的だった。

 オフェンスが進まないほど、このプレーを多く見ることになる。そして観客としては「パントか…」と、次の相手のオフェンスに対して、すでに気持ちが向かっていたりする。

 日本代表の選手が蹴った楕円形のボールは舞い上がり、意志を持っているようにライン際に落ち、相手のゴールラインまで10ヤードという地点でラインをわった。コントロールされた絶妙のパントだった。どちらかというと通好みのプレーに拍手が起こった。

 フランス代表の最初のオフェンス。
 プレーが始まる。

 ボールはクォーターバックに渡り、少し下がって、次のプレー…おそらくパスを投げようとしているところに、明らかにスリムに見える日本代表のプレーヤー達が早送りの映像のように素早く集まっていき、相手のクォーターバックは、それに飲み込まれていった。

 フランスの選手は動けなくなり、そこにさらにタックルが来て、ボールを持ったまま倒れた。その場所は、フランス陣のゴールラインの向こう…エンドゾーンといわれる地点…普通は、ここに相手がボールを持ち込むとタッチダウン(6点)になる場所だった。

 オフェンスがボールを持ったまま、この場所で、相手のディフェンスに倒されると、セイフティといわれるプレー。ディフェンスが得点となるプレーだった。 

 2対0。

 意外な形で日本が先制した。

ベテランの観客

 私が座っているスタンドの席から通路をはさんで少し左上に、5人くらいの初老といっていい男性達がいた。もしかしたら昔はフットボールの選手だったかもしれない、という雰囲気だった。そうでなくても、もう50年以上は、このスポーツを見てきたのではないか?と思える声が聞こえてくる。

 試合開始直後は、「なめているとやられるぞ」と怒鳴り、それから時間がたち、セイフティに始まり、タッチダウン、フィールドゴール、と日本代表が得点を重ね、だんだんと点が開いていくと、アルコールも進んでいるせいか声もさっきより大きくなり応援と微妙に違う方向へ話は進んでいるようだった。

 フランス代表って、フットボールを知らないんじゃないか。
 でかいけどな。
 なにしろ、サッカーの国だから。
 ヨーロッパはだいたいそうなんだろ?
 フットボールやってるやつなんて、変わりもんなんだろ。

 そうした会話が聞こえてきた。
 でも、いいプレーに対しては反応も早かった。 

 前半は、24対0と日本代表がリードして、終わった。

ハーフタイム

 少し下の通路を「USA」と大きな文字の入った一群が、今度は左側からやってきて、出口へ向かう階段を下がっていく。相変わらず眠たそうな目つきをした選手が多い気がした。

 余裕だけでなく、あの感じは、テレビで見た格闘技のヒョードルという選手の目と似ているように思えた。眠たそうにも見える目つきのまま、長いリーチの固そうで強いパンチで、相手の気持ちが折れるまでずっと淡々と殴り続け、テレビ画面でさえ、冷たさが伝わってくるような気配を思い出した。長い列を作って、次々と階段を降りていき、「USA」の選手達はスタンドからいなくなった。

 ハーフタイムになった。
 アメリカンフットボールでは、この時間帯も無駄にしない。ハーフタイムショーと言われる華やかなイベントを行うのが普通で、だから、退屈を許されない時間が、やはりあわただしく流れていく。

 アメリカのプロナンバーワンを決める試合「スーパーボウル」では何年か前のハーフタイムショーでジャネット・ジャクソンが歌い、踊り、さらには胸まで見せてしまって、けっこうな騒動になったらしい。それだけ想像以上にアメリカの中では注目度が高いということなのだろう。その空気を本当の意味で分かるのは、日本人では難しいかもしれない、と私は今では思うようになった。

 日本VSフランスハーフタイムでもショーが始まっていた。この大会のために、という事で作られた曲を、この大会のために、という事で選ばれた若い女性のアイドルグループが歌っている。そのあと、さらに小さな子供達が出てきて、満面の笑みを浮かべて踊っている。

 そして、普段はそれぞれの社会人のチームのチアリーダー達も集まり、踊っている。遠いスタンドから見ていても、私が日常的に取材していた約10年前と比べて、動きのキレのようなものが増している気がした。

 この年月の間に、かつて社会人のチアをしていた女性がアメリカに渡り、プロチームのチアリーダーとして活躍し、そして帰国するという、おそらくとんでもない飛躍的な出来事もあったし、想像以上に様々な進歩をしているのだろう、と思わせた。

 何しろ、ここにいるチアリーダーのおなかは見事に引き締まっていた。少し縦線が入っている人も少なくなかった。特に女性で、ここまでにするには相当のトレーニングが必要なことは推測できた。だから、他のトレーニングもかなりのものだろう、と思えた。

 チアというのは、チアガールではなく、チアリーダーなんです。応援をリードするのが役目ですから。

 もう10年以上も前に、チアの女性にそう言われたことを思い出した。
 時間は確実に流れていた。

フランス戦終了

 そして、後半が始まった。

 アメリカンフットボールは、第1クォーターから第4クォーターまで、時間帯は4つに区切られている。そして、後半の第3クォーターが終わる時、日本はまたタッチダウンを決めて、39対0にリードを広げていた。

 大量リードだった。

 その頃、また「USA」の人間が、動いて帰ろうとしていた。今度は、コーチングスタッフのようだ。プレーヤー達は帰って行ったのだけど、彼らは、まだいたようだ。白髪が目立ち、鋭い目つきのまま、冷静な表情で去っていった。

 アメリカンフットボールは、戦略的なスポーツで、コーチの能力の差が、他の競技よりも、より重要になると言われている。そして、その「USA」のコーチングスタッフのたたずまいは、やっぱり、底知れない分析力を持っているようで、選手達よりも長く試合を見ていた慎重さも、観客としては勝手に脅威を感じた。

 試合は、しばらく得点が入らなくなる。スタジアムの空気が少しだれてきたように思えた。試合が、今までよりも遠くに感じてくる。

 斜め後ろの初老の男性陣は、いつのまにかいなくなっていた。勝負が決まったら、さっさと帰るところに年季を感じた。すぐそばの席のカップルが立ち上がる時、「もっと接戦が見たかったな」と女性がつぶやくように言った。男性は現役の選手のようだった。

 最後は日本のタッチダウンで試合が終わった。
 午後8時45分。48対0。圧勝だった。

 やっと始まった。
 たぶん、私だけでなく、この日集まった1万人を超える観客の多くは、そんな事を思っていたはずだ。
 試合後の全員が集まるハドルは数分で終わった。中心には阿部敏彰監督がいた。

日本代表・阿部監督

 阿部敏彰監督は、日大の出身だった。2年生から試合に出場し、4年生の時には主将として、大学日本一を決める「甲子園ボウル」に関東代表として出て、3連覇を達成した。

 1963年に大学を卒業し、母校のコーチ、大阪大の初代監督をへて、1970年にシルバースターを結成した。このクラブチームは長く「社会人最強」と言われ続けていた。同時に「無冠の帝王」という言い方もされていた。

 大学には「甲子園ボウル」というゲームがあったが、1980年代初頭にかけて、社会人アメリカンフットボール界は環境が整っていなかった。当時を知る人は「河川敷で関係者だけが見守るようなリーグ戦」という言い方をしていたくらいだったから、「公式」の日本一を決めるようなゲーム自体が存在しなかったといっていい。

 そんな中、シルバースターはクラブチームとして…日本のアメリカンフットボール界では、クラブチームというと、自分達で資金もなんとかする自主運営の組織という意味合いが、特に昔は強いのだが…機会があれば勝ち続け、「最強」と言われ続けていた。

 1980年代初頭「ライスボウル」が、学生代表と、社会人代表が戦って「公式」に日本一を決めるゲームになることが決まった。

 そこには日本のアメリカンフットボール界の様々な思惑があったらしい。話題を集め、社会的に認知を高め、大学生のアメリカンフットボール選手の就職状況もよくする。

 その目的を考えると、シルバースターの存在は、チーム自体には全く罪がなく、他のチームよりも努力を続けているから「最強」でいたはずなのに、クラブチームという事で微妙な立場になっていた。

 企業チームが社会人代表になった方が、目的に合っている、と考えられたからだ。いろいろな混乱がアメリカンフットボール協会の内部でもあったようだ。

シルバースターの苦闘

 そして、結果として、シルバースターには「ライスボウル」への出場権自体が与えられなかった。その強さを見せる機会そのものを奪われた。理不尽な話だった。シルバースターは空中分解しそうだった。まだ出来るはずの選手達が次々とやめていった、と聞いたことがある。

「ライスボウル」は、1984年の1月3日に「第1回日本選手権」として社会人代表・レナウンと、学生代表・京都大学が接戦を演じ、京都大学が最初の日本一となった。

 レナウンは早朝練習中心の「純アマ」という立場でありながら、それからも社会人で6連覇を達成し、1度は「ライスボウル」で学生代表にも勝ち日本一となり、一つの時代を築いていた。

 そうした実績が、1980年代後半のバブルの頃には企業チームを中心に、数年で社会人で50チームも誕生するという「ブーム」につながる要因にもなったのは、おそらく間違いなかった。


 シルバースターには苦闘の時代が続いた。それは、監督を務める阿部敏明氏にとっても苦しい時代だったと思う。

 毎年、今年はライスに出られるかもしれない、と噂が流れ、でも直前になると、それがなくなる事が何回か繰り返された。そして出場権が正式に得られたのは第5回大会からだった。もう遅い。ピークは過ぎた。当時の選手の一人は、そう思ったと聞いた。

 最初の挑戦はレナウンに逆転負けをし、その後は関西の企業チーム・松下電工に負けた。その中で、自主運営に限界を感じ、現在までも続くアサヒビールというスポンサーを迎え、関東の大学出身者が多かったチームに京都大学出身の東海辰弥たちも入部させた。

 変化のたびに、シルバースターのチーム内では、いろいろな反対の声もあったが、勝つために、という目的で最終的には阿部監督が決定した、という。

 1989年のシーズンには初めて「公式」に社会人ナンバーワンになり、1992年・1993年のシーズンには2年続けて、「ライスボウル」でも勝ち、2連覇を飾る。社会人では、初めてのことだった。

日本代表監督

 その後、1998年に日本代表が初めて「公式」に組まれて以来、1999年の「第1回ワールドカップ」も、2003年の「第2回ワールドカップ」の時も代表の監督は阿部監督だった。

 そういう時間の中で社会人アメリカンフットボール界は、バブル崩壊後、毎年のようにチームが減っていった。レナウンも廃部となった。一時期は100を超えた加盟数が、約60に減少していった。

 そういう時代の中で「第3回ワールドカップ」の日本開催が決まる。代表監督は「もっと若い人に」という事で、阿部監督がいったんは辞退した。しかし、その後、協会でも満場一致で「阿部監督に」という要請があり、それを受けた、という経緯は雑誌などで知った。

 考えてみれば、今もシルバースターの監督をつとめていて、協会に対して、いろいろな思いはあるのかもしれないが、そういう話は、取材をしていた頃も聞いたことはなかった。私がライターをしていた時、阿部監督に取材を申し込むと、平日でも、いつも快く受けてくれ、待ち合わせの場所に一人で現れ、質問に丁寧に答えてくれた。

 今から振り返れば、それはアメリカンフットボールというスポーツのためだったのだろう、と分かる気がする。だから今も代表の監督をつとめているのだろう。

 67歳になるのに、そして、こちらの思い込みのせいかもしれないけれど、久々にスタジアムで見て、その姿に妙な濁りを感じないのも、自分ためではなく、すべてはアメリカンフットボールのため、という気持ちが今も強いせいだと、勝手ながら思っていた。

ワールドカップ決勝

 2007年7月15日。
 家を出てくる直前に見た天気予報でも、台風の進路はまっすぐこっちに向かっていた。どうして、この日なんだろう?とは、やっぱり思った。

 この前と、同じ駅で降りて、同じ道を通って、午後2時少し前に等々力陸上競技場に着いた。入り口のところには「傘をささないでください」という注意書きがある。メインスタンドの指定席の上にも屋根がないのに。

 スタジアムには、この前と同じ入り口から入り、ゆるやかにカーブしたコンクリートで囲まれた通路を歩き、チケットを見せて階段を登りスタジアムに入り、この前と同じところに座ろうとしたら、そんなに混んでいないのに、すでに座っている人がいた。

 そこから、さらに少し上の、この前ベテランの観客がいたところあたりに座った。上には一応屋根があり、後ろのすきまからは20メートルくらいあって、ここなら雨が吹き込んできても届かない、と思った。

 少し下の通路のところに、3枚のうちらわしきものに「WE」「♥」「USA」と手製の応援グッズを掲げて、笑っている、3人の外国人がいる。

 アメリカ代表は、このスタンドからは、日本の選手達の向こうの、遠くのサイドでウォーミングアップをしている。ネイビーブルーをベースに赤のラインが入ったユニフォーム。日本の選手達よりも、遠いから小さく見えるはずなのに、大きく、早く、なにより強く見えた。

 1週間前、すぐ近くを歩いていた「USA」の集団とは全く違って見える。今回、第3回のワールドカップになって、やっとアメリカが出てきた。プロのプレーヤーはいないらしいが、約140年のアメリカンフットボールの歴史の中でも、「アメリカ代表」が公式に組まれ、他の国の代表と戦うのは史上初のことらしい。

 第1戦に韓国と戦い、77対0。第2戦はドイツ代表を相手に33対7と圧勝して、今日の決勝戦に進んできた。

 アップをいったん終えたアメリカ代表は、控え室に下がってから、再びフィールドに出てきて、日本代表を見ている。ヘルメットを斜めに頭にのせるような姿が、余裕とかではなく、ごく自然に感じた。球技の中では異例なヘルメットを、100年以上かぶり続けてきた、といった蓄積が、大げさかもしれないが、見えた気までした。

ハイリスク・ローリターン

 雨は、今までもかなり降ったはずなのに、スタンドから見た限りでは、思った以上にフィールドの状態も良さそうだった。水がたまっている場所は、少なくともここからは見えない。

 フィールドでは、いつものように薄いサングラスをして、日本代表の阿部監督がアメリカ代表の方を見ていた。この人にとっては、アメリカという存在は複雑なものかもしれない。昔はあこがれだったとしても、今は戦う相手でもある。ずっと日本でのトップチームを率いてきて、様々なことがあり、2回のワールドカップでは優勝し、そして、今回になり、やっと「公式」にアメリカ代表チームと戦う機会がやってきた。

 負けたら、おそらく次はない。勝ったとしても、日本の社会的にはそれほど大きい反響は呼ばないだろう。今回のアメリカ代表は、大学を卒業する年を迎えてプロのドラフトにかからなかった選手達だった。本当のベストとはいえない、みたいな見方をされがちだった。

 ハイリスク・ローリターン。ある意味では、すごく不利な戦い。
 それは、10年前とあまり変わっていないかもしれない。

 だけど、もちろん、そんなことは身にしみるように全部分かっていて、それでいて負けられない戦いに、阿部監督もコーチ陣もスタッフも選手達も、すべてを出そうとしているのだろう。21世紀の今では、もしかしたら珍しい、ただ勝つことだけを求めるような、そんな純度の高い戦いが目の前で行われようとしているのかもしれない。

 日本代表は、第2戦のスウェーデン戦も48対0で勝って、ここに来た。

待たれていた試合

 午後2時40分。
 日本代表のプレーヤー達は、緑のフィールドから控え室へ引き上げて行く。阿部監督もスタッフと共に歩き、茶色いトラックを横切ろうとして、急に歩く方向を変えスタンドへ向かった。そこに小さい子供がいた。近づいて、握手をしている。

 日本代表がいなくなったフィールドに来て、アメリカのキッキングチームがボールを蹴って、調整をしていた。これで、アメリカ代表は、どちらのサイドでもキックのアップをしたことになる。

 午後2時50分。
 緑のフィールドの上に誰もいない。
 風が、さらに強くなってきた。

 チアリーダーがフィールドの中で移動を始め、選手達が入ってくる場所に集まっていく。白と黒の縦縞の審判団も場内に入ってきた。観客も、その場所へ、波のように動いていく。キックオフが間近に迫る。

 選手達が入ってきた。

 声だけでない音と共に、スタンドよりも、もっと下の方から盛り上がるように登っていくものがある先頭は阿部監督だった。私も、背中に何かが駆け上がってくるのを感じていた。

 この日をずっと待っていた。

 思いとか、願いとか、そんな形になりにくいものが、このスタンドを、そしてフィールドまで満たしているように思えた。台風が直撃する、といわれる状況で、ここにいる1万人以上の観客には、やはり、何か覚悟みたいなものがあるようにさえ思えた。

 それは感傷的すぎるのかもしれないが、もうすぐ答えはハッキリと出る。

 川崎市長がコイントスを行い、主将同士が握手をしている。100メートルくらい先なのに、脇坂のただならぬ気配が確かに伝わってきたようだった。

 試合が始まる。




(長い文章を読んでいただき、ありがとうございます。『2007年のワールドカップ③』へ続きます。)。


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